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物語の幕が開ける

朝から、空気が変だった。


施療院の廊下はいつも湿っている。薬草と汗と、祈りの匂い。


でも今日は、それに別の甘さが混じっている。


(……まただ)


舌の奥に残るような甘い濁り。


昨日も嗅いだ。今日も嗅ぐ。


並ぶ人たちの手には、同じ形の布包み。


同じ時間に、同じ家族。


同じ咳。


そして――同じように、同じ瞬間に崩れる。


「うっ……!」


待合の一角で、男の人が膝をついた。次の瞬間、隣の女の人が咳き込み、子どもが泣いた。


泣き声に釣られて視線が集まり、視線が集まるほど空気が薄くなる。


(だめ。押し合ったら……)


踏み込み事故。


助けようとして、助けられない。


「聖女様! お願いします!」


叫び声が飛んだ。


叫び声に混ざって、別の声が滑り込む。


「奇跡なんて嘘だ!」


「浄化できるなら、なんでまた倒れる!」


ざわめきが、意図的に煽られている。


(……扇動だ)


胸が冷たくなる。


その冷たさに、別の冷たさが重なる。


――噂の温度だ。


誰かが、わざと“疑い”だけを置いていく。


断言はしない。責任は取らない。


でも、心だけが汚れていく。


(やめて)


言いたい。


でも言えない。


だからボクは、手を翳す。


「……落ち着いてください」


声が震えないように、喉の奥で押さえる。


手が震えないように、指先だけを固める。


浄化。


一人。


また一人。


光が落ちるたび、空気が少しだけ澄む。


でも濁りは深い。


深すぎて、剥がれた瞬間にまた戻ってくる。


(……これ、仕込みだ)


自然に増えたんじゃない。


同じ時刻に、一斉にぶり返す。


――前日に配られた“代替品”。


効かないから、また買う。


また買うから、また倒れる。


救いの場が、商売の場にされている。


ボクは歯を食いしばった。


(救う)


救うしかない。



騒ぎが一段上がった。


待合の外側から、人が押される。


押される方向が、ボクのいる場所へ寄ってくる。


刃物の光が、一瞬だけ見えた。


「――どけ!」


怒号。


机が倒れる音。


ボクは反射で身をすくめた。


その瞬間、空気が“折れた”。


折ったのは、声だ。


「下がれ」


低い声。


静かなのに、周囲の音を全部止める声。


若頭――ヴィットーリオ。


今日は、いつも前に立つヴィオラが見当たらない。


まるで荒事が起きるのが分かってたかのように彼がいる。


怖い。


でも――怖いのに、息ができる。


若頭は、人を押し返さない。


押し返すと群衆が暴れる。


代わりに、点で折る。


刃物を持った男の手首。


火付け役の肩。


押し込みの足。


骨が鳴る前に止める。


叫ばせない。


武器だけ落とさせる。


局所的な暴力。


それで空気が冷える。


冷えた空気は、距離になる。


距離は、ボクの仕事場になる。


群衆が、下がる。


――怖いから。


怖いからこそ、守られる。


(……守られてる)


ボクは、そこで初めて思った。


ボクは救う。


でも、救うためには“守られる”必要がある。


守られないと、救いは成立しない。


若頭の視線が、少しだけこちらへ向いた。


ほんの一瞬。


目が合った気がした。


その目は、冷たい。


冷たいのに、怒っていない。


――見ている。


ボクが手を止めていないことを。


限界でも、救う手を止めないことを。


そして、若頭の口元がほんの少しだけ動いた。


(……偉いな)


言葉は聞こえない。


でも、そう言われた気がした。


次の瞬間、若頭は前へ戻った。


任務。


それで線を引く。


ボクは、その線の内側で、救う。



浄化を続ける。


同時多発。


急変。


叫び。


嘘。


噂。


全部が混ざって、目が回りそうになる。


でも、倒れられない。


救う人間だ。


救う。


救う。


救う。


手の熱が抜けていく。


指先が冷える。


それでも、若頭の“距離”が残っている。


だから続けられる。



騒ぎが収まったころ、床に座り込んだ人がいた。


泣いている子どもがいた。


怒鳴っていた男が、壁に押さえつけられて息をしていないように見えた。


(……死んだ?)


違う。


若頭は殺さない。


殺すより、止める。


止めることで、救いを成立させる。


ボクは息を吐いた。


胸の奥が、まだ冷たい。


噂。


疑い。


耳の奥に残る。


でも今日は――守られている。


守られているから、救えた。



夜。


麻薬をばら撒いていたやつらの事務所。静かすぎる。


扉を開けた瞬間に分かる。


ここはもう“仕事場”じゃない。


火が消えた後の部屋だ。


机は荒れている。引き出しは引き抜かれ、帳面は床に散っている。


割れたインク瓶が、黒い染みを作っていた。


その辺にやつらの構成員が倒れている。


呻き声はない。


死んでいない。――動けないだけだ。


必要なのは殺しじゃない。


止めること。


そして、答えだ。


椅子に縛られたボスが、こちらを睨んだ。


唇だけは強がっている。


だが目の奥はもう、計算が崩れている。


「……誰だ」


俺は答えない。


名乗る必要がない。


机の上に、帳面を放った。


濡れた紙がばらける。


「まず、誰が指示を出した」


ボスが鼻で笑う。


「知るか。俺は――」


言い終わる前に、椅子の背を一度だけ蹴った。


派手に倒さない。


音だけを入れる。


それで床の部下が、ぴくりと動いた。


恐怖が部屋に戻る。


「もう一度だ」


ボスの喉が鳴った。


「……貸し主だ。貸し主が“今日中に回せ”って」


「何を混ぜた」


目が逸れる。


逸れた瞬間、答えがある。


「……上が、渡してきた。甘い匂いの粉だ。『効く』って」


「どこから来た」


ボスは唾を飲み、諦めたように吐いた。


「……倉庫街だ。刻印のある袋で……」


競合の線。


だが今ここで、その名は出さない。


出した瞬間、火がつく。


俺は立ち上がった。


「終わりだ」


ボスが何か叫びかけたが、声にならない。


金が止まった。


だから、声も止まる。


扉を閉める。


外の夜気が、少しだけ肺に入った。


(――聖女は救う。


俺は原因を潰す。


それだけだ)


任務だ。



帰り際。


施療院の休憩室に、新しい寝台が運び込まれていた。


薬草の束が増えていた。


当直の修道女が増えていた。


匿名の支援。


「あの親ばか……」


ヴィットーリオさんは何か知っているようだ。


でもそれ以上は何も知らないふりをする。


そしてただ、段取りを整える。


「……休め」


短い言葉。


それが命令なのか、優しさなのか。


ボクにはまだ、はっきり分からない。


でも。


守られている。


その事実だけは、今しっかりと分かった。

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