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犬で結構だ

報告書は、紙より先に匂いで来る。


血と薬草と、焦げた油の匂い――施療院の現場を踏んだ連中の、それだ。


俺は椅子に深く腰を落とし、机の上に束を置かせた。


「……で?」


短く促すと、サムが喉を鳴らして言葉を探す。いつもの軽口が、今日はない。


トムは無言で、ただ立っている。いつも通りだが、いつもより背筋が固い。


「施療院、また“再悪化”っす。浄化の直後に落ちる。タイミングが揃いすぎてて……」


「人が話題を揃えるのは偶然じゃない」


俺が言うと、サムが頷く。


“揃いすぎている”ものは、誰かが揃えたものだ。


机の端に置いた別の報告書に目を移す。こちらは金の匂いがする。


数字の匂いだ。寄付箱の動き、帳簿の欠落、搬入品の量の差。


表の善意が、裏で薄く削られている。


それを“仕事”として成立させているのが誰か。


答えは、今夜の呼び出しで確かめる。


「サム。市場の両替屋、昨日の“護衛”の顔は割れたか」


「はい。競合側の下っ端っぽいっす。地元の連中が、資金をそこ通してる」


「トム。例の司祭は?」


トムは頷き、紙を一枚だけ差し出した。短い報告。借金の額、返済の猶予、首輪の位置。


俺は紙を指で弾き、机の端へ追いやる。


――まずは、供給線と金。


そして“口”だ。噂を作る口。扇動する口。


その報告書を、紙袋に詰める。


ここは“俺が汗をかく場所”であって、“ボスが腰を下ろす場所”じゃない。


「持って行く。口も揃えておけ」


サムが頷き、トムが無言で先に立った。


――アルド・セルディの執務室は、いつも静かだ。


余計な音がない。余計な匂いもない。あるのは、革と煙草と、金属の冷たい匂い。


扉の前でトムが二度、短く叩く。


中から返事があった。


「入れ」


通されると、アルドはそこにいた。


ゆったりとした大きな革張りの椅子。背凭れに体を預け、片肘を置いて、こちらを見ている。


まるで最初から、報告が“届く”のを待っていたみたいに。


マフィアのボス。俺の上司。……そして、あの聖女の父親。


この世界での俺の父親代わりといっても過言ではないかもしれん。


だとすると俺はあいつの兄か?


いや。


“父親”という単語は、口にした時点で地雷になる。ここではただ、ボスだ。


アルドは立ち上がらない。ただ指先で、机の上の空いた場所を示した。そこへ報告書を置け、と。


「――まだ、減らせないのか」


第一声がそれだった。


守れ、ではない。殺せ、でもない。


“減らせ”だ。


何を。


あいつの負担を、だ。


親ばかは、命令の形でしか漏れない。


だから厄介で、だから重い。


「減らしている。施療院の動線は押さえた。市場の路地も面で――」


「足りない」


被せられた。容赦がない。


アルドの声は静かだが、静かなほど“世界の法”に近い。


「聖女に、限界まで浄化をさせるな。命を削らせるな。……お前が削れ」


俺は息を吐いた。


削るのは別に構わない。いつものことだ。


だが、“削る”方向が問題だ。


「……それは、現場の人間の数と、噂と、薬の供給で決まる。俺が削っても、湧くものは湧く」


「湧かせるな」


短い命令。


親ばかの矛先は、いつも“環境”に向く。本人が出られないからだ。名乗れないからだ。抱きしめられないからだ。


その代わりに、街の空気を変えようとする。


「匿名でいい。薬草の仕入れを太くしろ。施療院の当直を増やせ。


寄付箱を“正しく”回せ。市場の治安を静かに良くしろ。……目立つな。匂わせるな」


最後の二つが、いつもセットで来る。


匂わせるな――父の存在を。


目立つな――俺たちの動きを。


矛盾しているようで、矛盾していない。


誰にも気づかれずに、世界だけを変えろ。


簡単に言う。


俺は頷いた。


「分かった」


それで終わるはずだった。いつもなら。


だがアルドは、そこで一歩だけ前に出た。


「……麻薬の匂いは?」


来た。


ここだけは親ばかじゃない。ボスの顔だ。


この街で“麻薬”は、金の問題じゃなく、火種だ。人を壊し、街を腐らせ、そして“聖女の浄化”という快感を利用して商売にする連中が出る。


それを許せば、表の光が裏の闇に食われる。


「匂いはある。偽薬の“再悪化”が、同じ線に乗っている可能性が高い。浄化の後に落ちるのは、浄化で一度“表面”が剥がれて、内側の毒が――」


「説明はいらん」


アルドが切る。


俺は言葉を止め、結論だけを置いた。


「潰す」


アルドの目が、ほんの少しだけ細くなった。


満足、ではない。確認だ。


“俺が、例外にしないか”の確認。


「よし」


それだけ言って、アルドは背を向けた。


扉に手をかける直前、もう一度だけ言う。


「聖女の負担を減らせ。……頼む」


最後の一言は命令じゃない。


だから余計に重い。


扉が閉まった。


俺はしばらく、机の上の報告書を見ていた。


――親ばかのせいで、仕事が増える。


分かっている。だが俺は、その“増え方”が嫌いじゃない。


理由は単純だ。


あいつが救う。俺が原因を潰す。


その型が、ようやく回り始めている。


……回り始めているからこそ、壊しに来る奴がいる。


「サム、トム。班を割る」


俺は指を折った。


「一。施療院の会計と寄付箱。帳簿の穴を掘る。今日は“回収”が目的だ。派手に叩くな。消す」


「二。市場の両替屋と貸し主。金の流れを止める。止め方は“事故”でいい。競合の名前は出すな。ローカルが自滅した形にしろ」


「三。薬草の仕入れ。匿名で太くする。……だが、条件を付けろ。混ぜ物が入った瞬間、供給が止まるように」


サムが目を瞬いた。


「条件、っすか。匿名で?」


「匿名だからこそ、条件が効く。相手は“神の施し”だと思う。……その神は気分屋だ」


トムが僅かに口角を動かした。笑ったのか、ただの癖か分からない程度。


「四。噂。扇動の口を塞ぐ。これは俺がやる」


サムが頷く。


そして、言いにくそうに言った。


「……姐さんの方は?」


その呼び方をされるたび、俺の胃が少しだけ痛む。


ミレイユの“作品”は出来が良すぎる。良すぎて、現場が余計に回る。回りすぎて、目立つ。


だが今日は――今日は、違う。


「今日は女装はなしだ」


サムが「え」と声を漏らした。


当然だ。施療院の聖域側は、男が入りづらい。だから“護衛侍女”を潜り込ませた。


だが、今日は“潜る”必要がない。


潜るのは、表の整合性のためだ。


今やるのは、裏の回収だ。


「侍女は目立つ。目立つと、変な目が増える。あいつの周りに、視線が増える」


俺は淡々と言った。感情を混ぜない。


「今日は“怖い護衛”でいい。怖がらせて、距離を取らせる。……任務だ」


サムが「了解っす」と言い、トムが頷いた。


俺は立ち上がり、上着を羽織る。


外は夜だ。


夜は、裏の時間だ。



施療院の前は、昼の喧騒が嘘みたいに静かだった。


しかし静けさは、安心ではない。人が引いた分、噂だけが残る。


入口の脇に、祈りの跡がある。誰かが膝をつき、額を床に擦り付けた痕だ。


聖女の奇跡は、人を救う。


同時に、人を依存させる。


依存は商売になる。


だから俺は、依存を“救い”の形に戻す必要がある。


中へ入ると、空気が重い。薬草と汗と、微かな腐臭。


回復の匂いじゃない。限界の匂いだ。


廊下を進むと、修道服の司祭が俺に気づき、青ざめた顔で駆け寄ってきた。


借金の首輪が見える。見えないはずなのに、俺には見える。


「わ、若頭様……!」


「声を落とせ」


俺は低く言った。司祭は息を飲み、口を噤む。


そのまま耳元で告げる。


「寄付箱と帳簿を出せ。今すぐ」


「し、しかし……それは聖女様の――」


「聖女に触らせるな。あいつは“救う”仕事だけをしていればいい」


司祭の目が揺れた。


聖女を盾にしたいのか。聖女を守りたいのか。


どちらでもいい。俺の任務は変わらない。


「……抵抗するなら、お前の借金を今ここで“公に”する。教会は借金を嫌う」


司祭が顔色を失う。


「っ……! わ、分かりました……!」


俺は頷き、奥へ進む。


その途中、薄いカーテンの向こうから、掠れた声が漏れた。


「だ、だめ……っ、息が……もう……」


聞き覚えがある。


リュカだ。


度重なる奇跡のせいだ。


浄化は“ただ手を翳せば終わり”じゃない。体力も集中も、容赦なく削る。


あいつは逃げない。逃げないからこそ、限界の線を自分で引けない。


俺は足を止めた。


“現場から下げろ”――アルドの命令が頭をよぎる。


だが今、俺が踏み込めば、余計に噂が増える。男が聖女の寝所に近づいた、と。


――だから、最短で負担を減らす手を取る。


「サム」


背後に気配が寄る。いつの間にか、サムが廊下の影に立っていた。


こいつはこういう時だけは仕事が早い。


「当直、増やせる導線を作れ。孤児院に回してる炊き出し、今夜だけここへ寄せろ。薬草は“寄付”で入れる。……誰の寄付かは、言うな」


「はい。匿名っすね」


「あと、見舞いの人間を散らせ。廊下に溜めるな。噂の口が増える」


サムが頷き、走り去る。


俺はカーテンの向こうを見ないまま、声だけで状況を測った。


リュカの声は、無理に明るく振る舞っている。


それが一番危ない。責任感が強い奴は、自分の限界を誤魔化す。


――だが、ここで“優しく”するのは俺の役目じゃない。


俺の役目は、状況を整えることだ。


俺は別の扉を開け、会計室へ入った。



帳簿は整っているように見えて、整っていない。


整っていないように見せて、実は整っている――そういう種類の不正もある。


だが、ここは雑だ。


雑にできるのは、背後に“守り”があるからだ。


つまり、ローカルの小悪党だけじゃない。


司祭が震える手で寄付箱を開ける。中身は、思ったより軽い。


「……これで、今日一日分、です」


「嘘はやめろ」


俺は一言で切った。


司祭の肩が跳ねる。


「ほ、本当です……! 皆、貧しくて……」


「貧しくても、祈りたい奴は銅貨を落とす。……数が合わない」


俺は帳簿の数字を指で叩き、箱の中身を見せた。


司祭は唇を噛み、目を逸らした。


その瞬間、外が騒がしくなった。


叫び声。怒号。何かが倒れる音。


俺は窓へ近づき、外を見た。


入口の前で、二つの集団が揉めている。


片方は施療院の関係者――いや、“患者の家族”のふりをした連中だ。


もう片方は、市場の荒くれ。噂の口だ。


その中心に、リュカがいる。


やめろ。


そう叫びたいのに、叫べない。叫べば、余計に集まる。


――だから俺は、最短の方法を取る。


扉を開け、廊下へ出る。


そして、入口へ向かって歩く。走らない。走れば焦りが伝染する。


俺が姿を見せた瞬間、空気が変わった。


“怖い護衛”の空気だ。


それでいい。


「何をしている」


声を落として言う。


落としているのに、よく通る。意識しているからだ。


揉めていた男が俺を見て、舌打ちした。


「アルドの犬が出てきたのかよ」


“犬”と呼ばれるのは慣れている。


俺は表情を変えずに、男の距離へ一歩だけ詰めた。


「犬で結構だ。……ここは施療院だ。聖女の仕事場だ。汚すな」


「汚してんのはそっちだろ。寄付が消えてるって噂だぜ? 聖女様の奇跡で金稼いで――」


噂の口。


扇動の口。


ここで殴れば簡単だが、殴れば噂が増える。


俺は、殴らない。


代わりに、言葉で首輪を締める。


「寄付の話をするなら、帳簿の前でやれ。ここで叫ぶのは、金が目的じゃなく“人を集める”のが目的だと自白している」


男の目が泳いだ。


図星だ。


俺は視線を横に滑らせ、集団の端にいる小柄な男を見る。手が綺麗すぎる。市場の人間じゃない。


競合の使い走りだ。


俺はその男へ、ほんの少しだけ顎を上げた。


合図だ。


――お前は見えている。


今はまだ、触らない。


だが次に動けば、触る。


男は唾を飲み、群れの中へ紛れようとする。


逃げ道を作ったのは、俺だ。今ここで捕まえれば“戦争”になる。今日は違う。


リュカが俺を見上げていた。


怯え。怒り。焦り。……そして、ほんの少しの安心。


その安心が、一番厄介だ。


怖いのに助かる。


その感情は、依存と紙一重になる。


「聖女」


俺は“呼び方”を選ぶ。名前は使わない。匂わせになる。


「中へ戻れ」


「……戻れません。患者が――」


「戻れ」


もう一度だけ、短く言う。


優しくはしない。ここで優しくすると、こいつは踏ん張ってしまう。


「患者を見捨てろと言うんですか」


声が震えている。だが目は強い。


責任感が強い。逃げない。……だからこそ危ない。


「見捨てない」


俺は言った。


「お前が倒れたら、もっと救えなくなる。……死なれると困る。任務だ」


最後の二文字で、線を引く。


情ではない。任務。


そう言い切らないと、俺も危うい。


リュカの唇が開きかけた、その瞬間。


別の方向で、刃物の光が走った。


――来た。


噂の群れに紛れて、誰かが突っ込んできた。狙いはリュカだ。


俺は一歩で距離を詰め、腕を掴み、関節を逆に折る。音がする前に、男の息が止まる。


「ぐっ……!」


呻き声が漏れたが、叫びにはならない。喉を押さえた。


人目の前で派手にやらない。今日の仕事は“整える”だ。


俺は男を床に落とし、足で刃物を蹴り飛ばした。


そして周囲にだけ聞こえる声で言う。


「――施療院で刃物を抜くな」


静かに言うほど、効く。


群れが一歩引いた。


噂の口が閉じる。


それだけで、現場は半分整う。


リュカが息を呑んだ。


「……あなたのやり方は、怖い」


「怖がれ」


俺は即答した。


近づくな、の意味を含めて。


「怖がって距離を取れ。……それでいい」


俺は一度だけ、リュカの肩越しに施療院の入口を見る。


サムが手配した当直が入ってくる。薬草の箱も運ばれてくる。炊き出しの鍋の匂いが漂う。


匿名の援助が、形になり始めた。


――これが、アルドの親ばかだ。


名乗れない代わりに、世界を少しだけマシにする。


俺は群れへ向かって言った。


「今日から、施療院の寄付は記録を公開する。帳簿は第三者を挟む。……不満があるなら、正面から言え。噂で動くな」


正面。


正面と言いながら、俺は“裏”で締める準備をしている。


だが口では正面を掲げておく。そうすれば、噂は弱る。


リュカが何か言いたげに俺を見ていた。


俺はそれを見ないふりをした。


見れば、言葉が増える。


言葉が増えれば、線を越える。


「……中へ」


それだけ告げ、俺は踵を返した。



会計室へ戻ると、司祭が青い顔のまま待っていた。


寄付箱の中身は、今度は“重く”なるだろう。匿名の支援が流れ込む。


それでも、穴を掘る。掘って、埋める。


「帳簿の穴は、今日のうちに埋める。埋まらないなら――」


司祭の肩が跳ねる。


「――教会に渡す。お前の借金も一緒に」


司祭は崩れ落ちそうになりながら頷いた。


俺はそれ以上責めない。責めるのは目的じゃない。整えるのが目的だ。


外が静かになっていく。


静かさは、安心に近い。


だが俺は分かっている。


静かになった分、相手は“火消し”を始める。


競合は尻尾切りをする。


地元のはぐれ者たちに、より過激な命令を降ろす。


そして次の区画へ火種を飛ばす。


だから、こちらもギアを上げる。


俺は机の上に置いた紙を手に取り、サムとトムへ言った。


「次は、金の流れだ。両替屋と貸し主。護衛元。――競合が得をしない形で、撤退させる」


サムが目を輝かせた。


仕事が増えるのが好きなタイプだ。危ない。


「全面戦争は避ける。……必要なら、尻尾を先に切ってやる」


トムが頷く。


俺は最後に、もう一つだけ付け足した。


「麻薬は、例外にしない。混ぜ物が出た瞬間、潰す」


それは宣言であり、誓いでもある。


俺の地雷は、俺が一番よく知っている。


扉の外、廊下の向こうで、誰かが小さく笑った気がした。


ミレイユの顔が脳裏をよぎる。


――上品に刺せ。


――綺麗に勝て。


……今日は、刺さない。


今日は若頭だ。


だが、いつかまた“侍女”で潜る日が来る。


そのとき俺は、また余計に目立って、また内心で後悔するのだろう。


それでも任務は外さない。


外しそうになったら、任務と言って戻す。


それが俺の線だ。


そして今夜、俺はその線の内側で、バカどもの金を殺しに行く。

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