街の聖女様
施療院を出ると、空が明るかった。
昨日までは、ただの通路だった道が――今日は、町の匂いで満ちている。
焼きたてのパン。香草。乾いた石畳。
それと、祈りのあとに残る、ほんの少しの熱。
(……町って、こんなに近かったんだ)
ボクは修道院の中にいるとき、世界を“白い壁”で切り分けてしまっていた。
白い壁の外は、怖い。
白い壁の中は、安全。
でも施療院に立つようになってから、外の匂いが、毎日増えていく。
患者の家族。
露店の人。
祈りに来る信者。
ボクが救った“結果”が、町に流れている。
「聖女様」
市場の入口で呼び止められて、ボクは思わず肩を跳ねた。
声をかけてきたのは、昨日、施療院で泣いていた中年の女性だった。
「昨日の子、少しだけ笑ったんです。……ありがとうございます」
ボクは胸の奥が熱くなって、何度も頷いた。
「よかった……本当に……」
言葉を丁寧に選んだ。
声の高さも、語尾の柔らかさも。
――“聖女様”は、女だ。
そう思い込ませるのは、教会の都合であり、ボクの都合であり、世界の都合だ。
「……あの、これ」
女性が差し出してきたのは、小さな布包み。
中に、焼き菓子が入っているのが見えた。
「いいんです。受け取ってください。施療院の方に出すほどのものじゃないけど……」
(受け取っていいのかな……)
迷っていると、隣から柔らかい声が落ちてきた。
「お気持ちだけ頂戴します。ありがとうございます」
護衛侍女――ヴィオラ。
今日も、金髪が光を拾っている。
丁寧で、優しい。
それなのに、言葉の端が、やけにきっぱりしている。
女性は少しだけ目を丸くしたが、すぐに笑って頷いた。
「……さすが、侍女様はしっかりしてらっしゃる」
侍女様。
その呼び方が、なんだかくすぐったい。
(でもボクって、侍女様が付くほど大したもんじゃないんだけどなあ
……ボクもちゃんと、聖女様として恥ずかしくないようにしなくちゃね)
ヴィオラはボクの一歩前を歩き、自然に人の流れを割った。
距離の取り方が、上手い。
近すぎない。
遠すぎない。
でも――必要な瞬間だけ、すっと近い。
(……不思議だな)
怖くない。
ただ、頼りになる。
市場は賑やかだった。
果物の色。
肉の匂い。
布の触感。
小銭の音。
人の生活が、そこにある。
「聖女様!」
「昨日、父が……!」
「この前の子がね!」
声が次々に飛んできて、ボクは何度も頭を下げた。
(……だめだ、嬉しいのに、怖い)
“聖女様”の顔を覚えられるのは、良いこと。
でも、覚えられすぎるのは、危ない。
ボクは、男だ。
その事実は、口に出した瞬間に、世界を壊す。
だからボクは、笑う。
女として。
聖女として。
――そして。
「お嬢さん、ちょっといい?」
背後から、軽い声がした。
振り向くと、笑顔の男が立っていた。
年は若い。
服は小綺麗。
手には、花の束みたいなものを持っている。
「はい?」
ボクは反射で返事をしてしまった。
「いやさ、こんなところで会えるなんて思わなくて。……聖女様? 違う? でも、すごく綺麗だ」
(……え?)
綺麗。
ボクが?
頭の中が、少しだけ遅れて、理解に追いつく。
(……褒められた。たぶん)
ボクは、こういう場面の作法をよく知らない。
“男の子が女の子に声をかける”という話は知っている。
でも、いま目の前のこれが、それなのかどうか――判断がつかなかった。
でも、それがどう危ないのか、どこからが悪意なのか。
ボクは一般家庭で育って、修道院に入って、施療院に立って。
人の悪意より、先に善意を見る癖がついてしまった。
「えっと……何かご用ですか?」
聞いてしまった。
男は嬉しそうに笑って、少しだけ身をかがめた。
「いや、ここじゃ人が多いからさ。あっち、路地のほうで話そうよ。聖女様なら、困ってる人の話、聞いてくれるだろ?」
困ってる。
その言葉が、ボクの弱いところを、正確に叩いた。
「困ってる……人?」
「うん。ちょっと、ね」
男は笑った。
笑顔のまま、ボクの腕に触れようとする。
(……え、近い)
ボクは一歩下がろうとして、スカートの裾が石に引っかかった。
「っ……」
転びそうになった瞬間。
白い手袋が、ボクの肘をそっと支えた。
「リュカ様」
ヴィオラの声。
柔らかいのに、逆らえない。
「その方は、どなたですか」
男は少しだけ顔をしかめた。
「侍女さん? いや、俺は……」
ヴィオラはにっこり笑った。
「なるほど。困っている方のお話ですね」
その言葉だけなら、優しい。
でも次の一言が、余計だった。
「では、まず――お名前と、所属と、ご用件を。ここで」
男の笑顔が、固まった。
市場の真ん中。
人の目。
人の耳。
「いや、だから、路地で……」
「路地ですか」
ヴィオラは首を傾げた。
仕草が綺麗すぎて、逆に怖い。
「聖女様を路地へお連れする理由があるのなら、私が確認します。もちろん」
もちろん。
(……もちろんって、何がもちろんなんだろう)
男は焦って笑った。
「いやいや、そんな大した話じゃ――」
「では、ここで結構です」
ヴィオラは、さらりと言った。
丁寧なのに、逃げ道がない。
男は一瞬、ボクを睨んだ。
(……え? 今、目が)
さっきまでの“親切な人”の顔ではなかった。
「……ちっ」
舌打ち。
そして男は、人混みに紛れて消えた。
「……」
ボクは、息を止めていたことに気づいて、やっと吐き出した。
「ヴィオラさん……いまの、あの人……」
「ナンパです」
即答だった。
(やっぱり……)
顔が熱い。
「え、でも……困ってるって……」
ヴィオラはボクの顔を見て、ほんの少しだけ困ったように眉を寄せた。
「……困っているのは、たぶんあなたです」
余計な一言。
でも、助かった。
「……あ」
ヴィオラはそこで、わずかに視線を逸らした。
ほんの一瞬、口元がひきつる。
それから何事もなかったように、背筋を伸ばした。
(……今、心の声が顔に出た?)
ボクが目を瞬かせると、ヴィオラはすぐに背筋を伸ばし、いつもの顔に戻った。
「行きましょう。パン屋が、開いています」
パン屋。
そうだ。
焼きたて。
ボクたちは市場の端へ向かった。
パン屋の前は、甘い匂いで満ちていた。
「聖女様!」
女将さんが、粉だらけの手で飛び出してくる。
「昨日ね、うちの弟が……施療院で……」
言葉が詰まる。
涙が滲む。
ボクは慌てて首を振った。
「いえ、私……」
“私が救った”と言うのは簡単だ。
でも、それは傲慢に聞こえるかもしれない。
「……神の恵みです。私は、その手伝いをしただけで」
女将さんは泣き笑いで頷いて、棚からパンを差し出してきた。
「よかったら、これ。焼きたて。持ってって」
(どうしよう)
また迷った。
ヴィオラが一歩前に出る。
「お気持ちだけ頂戴します」
そして、続けて。
「……ただ、今日の分だけ。聖女様は、倒れると困りますので」
(え、困る……)
言い方が、妙に実務的だった。
女将さんは「はいはい!」と、勢いよく包んでくれた。
「最近ね、支援が入ったのよ。粉も釜も、助かった。誰か分からないけど……ありがたいよ」
支援。
匿名。
(……誰だろう)
ボクは首を傾げた。
ヴィオラは、ほんの一瞬だけ口元を引き結んだ。
(知ってるのかな)
でも、聞けない。
パンを抱えて歩くと、町の匂いがさらに濃くなる。
その中で。
甘い匂いがした。
焼きたての甘さとは違う。
舌に残るような、嫌な甘さ。
(……まただ)
施療院で嗅いだ匂い。
ボクは足を止めた。
市場の端。
路地の入口。
そこに、小さな影が見えた。
少年。
見習いか、配達か。
小銭を握っている。
そして、路地の奥へ消えた。
(……だめ)
行ってはいけない。
でも。
(放っておけない)
ボクが一歩踏み出しかけると、ヴィオラの手が、そっと袖を掴んだ。
「リュカ様」
「……あの子」
「見ています」
短い言葉。
見ている。
ボクの視線の先を。
ボクの心の動きを。
「今は、行きません」
優しい声なのに、断言だった。
「……でも」
「行けば、狙われます」
その一言で、背中が冷たくなる。
狙われる。
施療院での刺客。
寄付箱の不穏。
ボクは、拳を握った。
「……私が、もっと強ければ」
ヴィオラは一瞬だけ目を細めた。
「強いですよ」
そして、余計な一言。
「だから、狙われます」
(……それ、褒めてない)
ボクは苦笑して、パンの包みを抱え直した。
* * *
――少し前。
リュカ達が市場へ出るより前。
路地のさらに奥。
二人の男が、影の中で息を潜めていた。
「へー。市場って、噂が早いっすね」
軽い声。
サム。
「……」
返事はない。
トム。
二人の前に、黒い影が立つ。
表では護衛侍女“ヴィオラ”を演じている男――ヴィットーリオ。
「報告」
短く言う。
サムが肩をすくめた。
「小売りが動いてます。ガキ使って見張りしてる。あと――『上が怒る』って言ってました」
「上」
ヴィットーリオの目が細くなる。
「資金源だ」
トムが無言で、紙片を置いた。
路地の奥で見つけた、小さな印。
袋の端に、見覚えのない刻印。
「……競合他社か」
ヴィットーリオは吐き捨てるように言った。
「面倒だな」
サムが笑った。
「姐さん――」
腹を殴る。
「――じゃなくて、若頭。どうします?」
「面で潰す」
それだけ。
「売り場を押さえる。金を止める。逃げ道を潰す」
トムが頷く。
サムも、いつもの軽さを消して頷いた。
「了解っす」
ヴィットーリオは路地の奥を見る。
施療院の方向。
(救いだけは、やれ)
口にはしない。
口にしたら、近づく。
近づけば、終わる。
* * *
――そして夕方。
修道院に戻る道すがら、ボクは思った。
今日、町の人の顔を、たくさん覚えた。
嬉しかった。
でも。
路地の甘い匂いが、ずっと鼻に残っている。
そして、あの男の目。
親切の顔の下に、別の何かがあった。
(ボクは……聖女だ)
救う。
それがボクの仕事。
でも、救うだけでは足りない。
明日も、ボクは施療院へ行く。
火種は、今日も増えていく。




