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目には目を、裏には裏のやり方を

風が、死んでいた。


終点の村へ近づくにつれて、鳥の声が消えた。


草の擦れる音も、犬の吠える声も、畑の向こうの笑い声も。


ただ、土の匂いだけが濃くなっていく。


焼けた匂い。


汗。


そして――嫌な、甘い匂い。


「聖女様」


ヴィオラの声が、いつもより低い。


私は頷いた。


うん、と。


大丈夫、と。


言葉は喉の奥でつかえて、うまく形にならない。


村の入口が見えた。


柵がある。


門は閉まっていない。


でも、人がいない。


(……おかしい)


私の足が、勝手に遅くなる。


「……返事が来ないって」


昨日、井戸端で聞いた声が、耳の奥で反響する。


徴発。


行方不明。


痛み止め。


私は自分の手のひらを見た。


奇跡を起こす手。


救うための手。


――でも、救いはいつも、手の届く距離にあるとは限らない。


ヴィオラが半歩前に出た。


半歩じゃない。


一歩。


「ここからは、私の後ろに」


やさしい声。


でも、逃げ道がない。


「……うん」


私は、そう言うしかなかった。


---


村の中へ入ると、最初に見えたのは、倒れた荷車だった。


車輪が外れ、野菜が散らばっている。


でも誰も拾わない。


拾う余裕がない。


次に見えたのは、人だった。


木の柱に縛られた村人。


老人。


若い男。


そして――子ども。


声が出なかった。


息が止まる。


胸の中の針が、一気に増える。


「やっと来たかよ」


笑い声。


物陰から、男たちが出てきた。


十人以上。


汚れた皮鎧。


刃こぼれした剣。


目が、乾いている。


でも、一番目についたのは、腰の袋だった。


小さな瓶。


薄い紙に包まれた粉。


甘い匂いが、風のない村に染みついている。


「聖女様ぁ」


男の一人が、わざとらしく両手を広げた。


「歓迎するぜ。ここの連中、治してやってくれよ。……ほら」


男が顎で示す。


柱に縛られた村人のひとりが、青い顔で咳き込んだ。


「病人だ」


男が笑う。


「治せ。聖女だろ?」


――救いの強制。


胃の奥が、ひっくり返りそうになる。


「……やめて」


私はようやく声を出した。


小さくて、弱い声。


男たちは笑った。


「やめて? 何を?」


「こっちは“お願い”してんだぜ?」


別の男が、子どもの髪を乱暴に掴んだ。


子どもが声を上げる。


「……っ」


私の体が、勝手に前へ出そうになって、止まった。


ヴィオラの気配が、すぐ隣で硬くなる。


でも、動かない。


今ここで動けば、私が危ない。


私が危ないだけじゃない。


縛られている人たちが、もっと危ない。


――分かる。


分かるのに。


「聖女様」


ヴィオラが、私だけに聞こえる声で言った。


「呼吸」


私は息を吸った。


吸った瞬間、甘い匂いが肺に入って、咳きそうになる。


---


男たちの後ろに、布で顔を隠した女がいた。


痩せていて、目の下に青い影。


その手元に、白い粉の入った小袋がある。


(……あれが)


男の一人が、その小袋をひったくるように取って、口に含んだ。


一瞬だけ、目が潤む。


次の瞬間、笑い方が変わった。


「……あぁ。これだ。これがないと、手が震える」


男は手を見せる。


確かに震えている。


でも、その震えを言い訳にするみたいに、刃を振り回す。


「働いてた時はよ、こんなもん要らなかったんだ。


でも仕事が消えた。村が閉じた。腹が減った。


……痛み止めって言われた。最初は、優しかった」


語り口は、酔っ払いみたいに軽い。


「で、気づいたら“次”が欲しくなってた。


あーあ。聖女様。浄化してくれよ。


浄化ってのは、こういうのも消せんだろ?」


違う。


浄化は。


“願いを叶える魔法”じゃない。


私は唇を噛んだ。


男が一歩近づく。


「ほら。ほら。奇跡を見せてくれ。


俺たちも、救われたいんだよ」


その言葉が、汚い。


救われたいなら、どうして人を縛るの。


救われたいなら、どうして刃を向けるの。


でも私は、言葉が出ない。


“救い”という言葉が、この場で踏み潰されるのが怖い。


---


村人のひとりが、かすれた声で言った。


「……聖女様。お願い……」


縛られた老人。


目が赤い。


涙だけが残っている。


私は一歩踏み出した。


「……助ける」


声が震える。


男たちが笑う。


「お、聞いたか? 助けるってよ」


「じゃあ、まずは俺の手を治してくれよ。震えがひでぇ」


男が自分の手を突き出す。


(違う)


でも、ここで拒否したら。


子どもが。


村人が。


私は祈ろうとして――指先が固まった。


(怖い)


浄化してしまったら、男たちは安心して、もっと強く“救い”を求める。


求めるために、人を縛る。


救いが、暴力の道具になる。


(嫌だ)


胸が詰まって、視界が滲む。


ヴィオラが、ほんの少しだけ私の前に出た。


「その要求は、順番が違います」


穏やかな声。


でも、空気が一段下がった。


男が笑う。


「は? 侍女が口出すなよ」


ヴィオラは微笑んだ。


「侍女だから、です」


……その言い方。


昨日のパン屋を思い出す。


上品に刺す。


逃げ道を塞ぐ。


でもここは、パン屋じゃない。


男が刃を抜いた。


「黙れ。余計なこと言うと――」


刃先が、縛られた子どもの首元へ向く。


私の喉が凍った。


(やめて)


“救いを押し付けられる怖さ”。


私は、初めて分かった。


奇跡があるからこそ。


救いがあるからこそ。


人はそれを奪いに来る。


---


私は、呼吸を探した。


聖女としての顔。


笑顔。


言葉。


全部、崩れそうだった。


(……無理だ)


私は救う側なのに。


私は、助ける側なのに。


足が震えた。


声が出なかった。


――でも。


ヴィオラがいる。


その事実だけが、私の背中を支えた。


私は、震えるまま、言った。


「……ヴィオラ」


返事はすぐ近く。


「はい」


私は、喉の奥から絞り出す。


「……助けて」


言ってしまった。


その瞬間、胸が軽くなるのと同時に、恥ずかしさと怖さが押し寄せる。


でも。


ヴィオラは、少しも驚かなかった。


「当然です」


短い答え。


その声が、私の中の“役割”を一度だけ外してくれた。


聖女じゃなくていい。


今は、ただの私でいい。


ヴィオラが一歩前へ出る。


「聖女様は、触れない」


穏やかな声。


けれど命令だった。


男たちが笑う。


「はは。侍女が偉そうに。


じゃあ、お前が代わりに奇跡を見せろよ」


ヴィオラは笑わない。


ただ、目だけが冷える。


私は気づいた。


――ここから先は、“裏”の時間だ。


でも私は、それを知らないふりをしなきゃいけない。


聖女として、光のまま。


ヴィオラが私の視界を、ほんの少しだけ遮った。


「前を見ないでください」


まただ。


鳥です、みたいに。


でも今度は分かる。


見たら、私が壊れる。


私は、頷いた。


その瞬間。


村の外れで、かすかな笛の音がした。


男たちが、ぴくりと反応する。


「……何だ?」


ヴィオラは、微笑んだ。


「風です」


嘘。


でも、その嘘が必要な場面があることを、私は初めて知った。


巡礼の終点。


救いの現場は、汚れている。


そして私は、もう一度、祈る準備をした。


今度は“押し付けられる救い”じゃない。


縛られた人たちのための救いを。


――そのために。


まず、ここから抜け出さなきゃいけない。

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