旅の終点
朝の道は、昨日より少しだけ歩きやすかった。
空が明るい。風がやわらかい。鳥も鳴いている。
――なのに。
胸の奥に、針みたいな違和感が刺さったままだ。
「聖女様、足元」
ヴィオラが、いつものように半歩前で段差を示す。
その仕草は完璧で、自然で、私が“女の子”でいるための世界を当たり前に整えてくれる。
……ありがたい。
ありがたいのに、昨日の“見回り”の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
冷たい風と土と、遠い煙。
ヴィオラは「異常はありません」と言った。
でも私の中の何かが、静かに首を振っている。
巡礼の一行は、四つ目の村へ入った。
入口の看板は古いけれど、畑はきれいで、家の壁も白い。
のどかな村だ。
「聖女様だ!」
子どもたちが走ってくる。
その声で、私の胸がふっと軽くなった。
こういうのが、救いの実感。
私は笑って、手を振った。
「こんにちは」
“私”の声。
うん、大丈夫。
---
村の広場に着くと、パン屋の前が妙にざわついていた。
大人が真剣な顔で、子どもが泣きそうで、店主のおじさんが頭を抱えている。
「どうしたんですか?」
司祭が聞くと、店主が叫ぶ。
「パンが! パンが消えたんです!」
……パンが消えた。
いま、世界で一番平和な緊急事に聞こえる。
でも村の人にとっては、今日の食事が消えるのは一大事だ。
「え、誰かが盗んだの?」
私が言うと、店主は涙目で頷いた。
「昨夜のうちに仕込んだ分が……焼き上がったはずなのに、棚が空で……!」
村人が口々に言う。
「山賊じゃないか?」
「いや、ここまでは来ないはずだ」
「でも最近、街道が……」
――街道。
その言葉で、胸の針がまた刺さった。
ヴィオラが、ひとつ息を吐いた。
「失礼」
そう言って、パン屋の中へ入る。
私はその背中を見て、思う。
ヴィオラは、こういう“生活の困りごと”も、なぜか戦場みたいに処理する。
パン屋の中。
棚は空っぽ。
粉の袋はある。
窯は温かい。
焼けた匂いは――ある。
「焼けた匂いがしますね」
私が言うと、店主がぐっと唇を噛んだ。
「だから……おかしいんです。焼いたはずなのに、ない」
「焼けて、匂いも残っているのに、棚だけ空」
ヴィオラが淡々と繰り返した。
そして、窯の口に指先をかざす。
「……熱が強い。焼き上がりから、そう時間が経っていません」
(え、熱で分かるの……?)
私は内心で目を丸くする。
ヴィオラは床を見た。
粉の足跡。
それから、扉の下。
「犯人は、外に出ています」
「えっ!?」
店主が声を裏返す。
村人がざわめく。
「……ただし、盗みに来た“外の人”ではありません」
ヴィオラは、微笑みのまま上品に刺した。
「ここにいる誰かが、移しました」
一瞬、空気が凍る。
「な、なんでそんなことを!」
店主が叫ぶ。
村人のひとりが、慌てて言った。
「ま、待て! 疑うな! きっと……きっと、理由がある!」
その“理由”の匂いが、胸に刺さる。
最近、街道が――。
ヴィオラは、淡々と続けた。
「言い争いは後です。まず“パンがある場所”へ」
そして、扉の外へ出ると、迷いなく右へ曲がった。
裏手。
細い路地。
誰の家の裏かも分からないのに、止まらない。
(……なんで分かるの?)
たどり着いたのは、パン屋の隣家の納屋だった。
扉は、内側から簡単に留められている。
ヴィオラが、留め具に指先を触れた。
「鍵ではありません。……今朝、急いで閉めた形です」
「ち、違う! 俺じゃない!」
隣家の男が顔を赤くして飛び出してくる。
ヴィオラは、にっこりした。
「違うなら開けてください」
逃げ道がない。
男はぐっと息を詰まらせ、留め具を外した。
扉が開く。
そこには、袋に入れられた焼き立てのパンが、きれいに積まれていた。
匂いが、ふわっと広がる。
「……あったぁ……」
店主が腰を抜かしそうな声を出す。
男は、必死に言った。
「ち、違うんだ! 盗むつもりじゃなかった! 俺は……ただ……」
「ただ?」
司祭が促す。
男は歯を食いしばって、吐き出した。
「……最近、徴発があるって噂があるだろ。もし本当に来たら、パン屋が一番最初にやられる」
一度、言葉を切る。
「……それに今日は、聖女様たちが来てる。いつもと違う。人が動く。噂も立つ。外の目も増える」
男は、自分でも何を言っているのか分からない顔で、続けた。
「だから、朝のうちに“いつもの分”を先に避けて、売る分と、配る分と、間違えないように……って。……そうしたら、店主に言い忘れた」
「……隠したんじゃなくて、運用を変えたつもりだったんです」
最後だけ、子どもみたいな声になった。
「でも、勝手にやった。……すまん」
村人が、黙る。
誰も笑えない沈黙。
私は胸の奥が冷えた。
パンを隠さなきゃいけないほど、みんなが怯えている。
店主は、怒りたい顔をして――でも、怒り切れなかった。
「……言えよ。言え!」
男は頭を下げた。
「すまん……」
その場に、少しだけ息が戻る。
ヴィオラが、いつもの穏やかな声で言った。
「善意で他人の商売を動かしてはいけません」
やさしい。
でも、容赦がない。
男は肩を落とした。
「……はい」
店主が、深く息を吐いた。
「焼き直しは要らねぇ。……よかった。あってよかった」
私は、胸の奥の針を押さえながら笑った。
「よかった。ほんとに……」
するとヴィオラが、小さく私に囁いた。
「笑顔は、ここで十分です」
……上品に刺された。
私は小さく頷く。
その時、納屋の奥から「にゃ」と声がした。
黒い猫が、パンの袋の上で丸くなっていた。
“最初からここにいた”顔。
「……あ」
私が言う前に、ヴィオラが淡々と言う。
「犯人ではありません。……目撃者です」
(目撃者扱い……)
村の誰かが、吹き出した。
笑いが、遅れてやってくる。
店主が泣き笑いで言う。
「……聖女様、パンを。せっかく来てくださったんだ」
「ありがとう」
私は笑って受け取った。
でも内心では思う。
(パンが“隠される”世界って、何……?)
---
パン屋の騒ぎが落ち着き、診療の準備が整う。
私はまた、聖女として人を癒した。
指を切った人。
腰を痛めた人。
風邪をこじらせた人。
奇跡を使うたびに、胸が温かくなる。
“私が役に立てている”という実感が、怖さを少しだけ薄める。
けれど。
順番待ちの列の端で、顔色の悪い若者が一人、俯いていた。
前に巡礼で会った人と似た、震えの匂い。
私は視線を向ける。
若者は、私と目が合う前に目を逸らした。
――隠してる。
「……あの人」
私が小声でヴィオラに言うと、ヴィオラは、何も言わずに一度だけ頷いた。
“見ている”
その合図だけで、私は少しだけ安心する。
診療の合間。
村の井戸端で、女の人たちが小声で話しているのが聞こえた。
「……徴発があったって」
「どこの?」
「終点の村。あそこは最近、返事も来ないって」
「行方不明も……」
「薬も……“痛み止め”が」
胸が、きゅっとなる。
前の村で感じた“嫌な匂い”が、ここにもつながっている。
私は黙って、手のひらを握りしめた。
救いたい。
でも、救いはいつも間に合うとは限らない。
ヴィオラが、いつもの声で言った。
「聖女様。水分を」
差し出された水を受け取る。
コップが冷たくて、現実に戻る。
「……終点の村って」
私が言いかけた瞬間。
ヴィオラの視線が、ほんの少しだけ鋭くなった。
「聞こえる場所で言わないでください」
優しい声。
でも、逃げ道がない。
(あ……)
私は気づく。
「……うん」
私は頷いた。
村を出る頃、遠くの空が少しだけ灰色に曇った。
雲じゃない。
煙だ。
(……火事?)
その瞬間、ヴィオラが私の前へ出た。
半歩じゃない。
一歩。
「前を見ないで」
「え?」
「……鳥です」
ヴィオラが言う。
私は反射で空を見る。
鳥が飛んでいる。
普通。
――普通のふり。
でもヴィオラの手が、私の袖の端をほんの少しだけ掴んでいた。
引き寄せるほどじゃない。
触れているか触れていないかの境界。
それが、怖い。
怖いのに、安心する。
四つ目の村。
笑いがあった。
パンも焼けた。
私は救えた。
なのに、終点の村に近づくほど、世界が静かになっていく。
「……ヴィオラ」
私は小さく呼んだ。
「はい」
「もし、何かあったら……」
言い切れない。
私は聖女だ。
助ける側だ。
でも、今だけは。
「……守って」
声が、震えた。
ヴィオラは一度だけ目を細め、静かに頷いた。
「当然です」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
――この人がいるから。
私は、前に進める。
そう思ってしまう自分が、少し怖い。
巡礼は続く。
終点へ。
沈黙している村へ。
そして私たちは、まだ知らない。
救いが“強制”される現場が、すぐそこにあることを。




