お泊り会
夕方の空は、薄い橙に溶けていた。
二つ目の村を出て、次の村へ向かう途中で日が傾き、巡礼の一行は「今夜はここで」と小さな宿に押し込まれた。
押し込まれた、という表現がいちばん正しいと思う。
宿は狭い。
通された廊下は細く、扉は低く、天井は梁がむき出しで、背の高い者は頭を打つ。
村の人たちが、できる限りの善意で迎えてくれているのは分かる。
だからこそ――断れない。
「聖女様はこちら。侍女様も、こちらでよろしいですか?」
宿屋の女将が、当たり前の顔でそう言った。
そして、当たり前のように同じ部屋の扉を開けた。
「……え?」
私の喉が、変な音を出した。
隣でヴィオラが微笑む。いつもの顔。いつもの落ち着き。
「問題ありません」
問題あるよ!!!
心の中の私が全力で叫ぶ。
でも、口に出るのは別の私だ。
「……は、はい。大丈夫です」
大丈夫じゃない。
大丈夫じゃないのに、私は“聖女様”で、“私”で、頷いてしまう。
部屋に入ると、ベッド……ではなく、藁を詰めた敷物が二つ。
一応、二つ。
一応、だ。
間隔が近い。
近すぎる。
「……あの、女将さん。これ、もう少し……」
私が言いかけた瞬間、ヴィオラがすっと間に入った。
「ありがとうございます。十分です」
柔らかい声。丁寧な言葉。なのに、会話が終わる圧がある。
女将は「でしょう?」と笑って、扉を閉めた。
――閉まった。
私はその音だけで、心臓が跳ねた。
「……ヴィオラ」
「はい」
返事が近い。
近いだけで、私の頭の中が散らかる。
(落ち着け、落ち着け、落ち着け……!)
男の娘の危うさ。
というか、これは危うさじゃない。
普通に、危険だ。
私の理性が、ただの紙みたいに薄いことがバレる危険。
ヴィオラは、そんな私の内心なんて知らない顔で、淡々と部屋を見回した。
窓。鍵。隙間風の入り方。外から見える死角。
手袋の指先で、梁の釘を軽く触れる。
……護衛。
そうだ、護衛なんだ。
落ち着け、私。相手は護衛。侍女。綺麗で頼りになる護衛侍女。
「ここは安全です。……今夜は休んでください」
言い方が、優しい。
優しいのに、命令みたいに逃げ道がない。
私は頷き――頷いてから、はっと気づいた。
「え、でも……ヴィオラは?」
「見回りをします。あなたが眠るまで、起きています」
(や、優しい……!)
優しい、と同時に。
(起きてるの!? 同じ部屋で!?)
私の心臓が二回くらい追加で鳴った。
---
しばらくして、女将が桶を二つ抱えて戻ってきた。
湯気がふわっと広がり、湯の匂いが部屋を満たす。
「湯浴みは裏の小屋ですけど、寒いでしょう? ここで足だけでも温めて」
ありがたい。
ありがたいのに。
「……え、ここで……?」
私が目を泳がせると、女将はにこにこしながら続けた。
「聖女様も侍女様も、女同士ですもの。気にしないで」
気にするよ!!!
女同士じゃないよ!!!
私は笑顔を貼り付けて、ひゅ、と息を吸った。
「……そう、ですね。ありがとうございます」
――聖女様の笑顔。
便利な仮面。
こんなときにこそ、役に立つ。
女将が出ていく。
扉が閉まる。
湯気が残る。
私はゆっくりヴィオラを見る。
ヴィオラは、湯を覗き込んでから、私を見て、少しだけ眉を寄せた。
「……熱すぎませんか」
「え?」
「無理をしないで。足だけでいいです」
女の子を気遣うみたいに、当たり前の顔で言う。
その“当たり前”が、私には一番刺さる。
「……う、うん。足だけ……」
私は桶の前に座って、そっと足を入れた。
あったかい。
それだけで、胸の奥までほどける。
「……ふぅ」
あったかさが胸までほどけて、思わず息が漏れた。
(今の……だ、大丈夫? 変じゃなかった?)
私が勝手に怯える間にも、ヴィオラは目を逸らさない。
逸らさないのに、いやらしくない。
ただ、護衛として“そこにいる”。
「楽になりますか」
あくまで、女の子に聞くみたいな声。
「う、うん……ありがとう」
私は笑顔を作って、桶の湯気の向こうに視線を逃がした。
この距離で平然としていられるヴィオラが、ずるい。
私は黙って足を温めた。
湯気が頬に触れて、恥ずかしさが増える。
同室で、湯浴みで、足だけでも見られてる感じがして、勝手にドキドキする。
そのとき、ヴィオラが布を一枚、湯で湿らせた。
「お背中、流します」
「えっ!?」
私は思わず桶の縁を掴んだ。
背中。
背中は、だめ。
いや、だめじゃないはずなんだけど――だめ。
「だ、大丈夫! 自分でできるから……!」
必死に笑顔を作る。
作りながら、脳内は真っ白。
ヴィオラは困ったように首を傾げた。
「遠慮しないで。冷えます」
遠慮じゃない。
違う。
違うけど言えない。
「ほんとに……っ」
私が逃げようと身をよじった瞬間、ヴィオラの手が、肩にそっと触れた。
女の子を扱うみたいに、力は強くない。
なのに、逃げられない。
「動くと、こぼれます」
優しい声。
優しいのに、逃げ道がない。
濡れた布が背中に当たった。
熱くも冷たくもなくて、ただ、ぞくっとした。
(だめだめだめ……!)
私は息を止めた。
止めたせいで余計に変な音が出そうになって、慌てて息を吐く。
ヴィオラは淡々と、丁寧に背中を拭く。
まるで、当然の仕事みたいに。
「……終わりました」
言われた時、私はようやく肩の力が抜けていることに気づいた。
「……ありがと」
声が裏返りそうになって、私は咳払いで誤魔化した。
ヴィオラは何も言わず、湯で布をすすいで、また“侍女の顔”に戻った。
――女の子扱い。
上手すぎる。
私の方が先に、崩れそうになる。
(なんで私、こんな……)
私は聖女だ。
救いを届ける役目がある。
それなのに、私は今、ただの思春期みたいに心が忙しい。
……恥ずかしい。
「聖女様」
「は、はいっ」
反射で返事が跳ねた。
ヴィオラが目を細める。
「……深呼吸」
「う……」
私は素直に深呼吸した。
そういうところが、ずるい。
従ってしまう。
---
足が温まった頃、廊下の向こうから笑い声が聞こえた。
修道女たちが、私の話をしている。
「今日の聖女様、本当に尊くて……」
「侍女様も綺麗よねぇ。あの人がいると安心する」
――やめて。
褒められると、嬉しい。
嬉しいのに、苦しい。
私は布団の方へ移動して、背中を丸めた。
花束を思い出して、胸が熱くなる。
あの青年のまっすぐな目。
「綺麗で」って言葉。
(……私、聖女様なんだ)
その重さが、今夜はいつもより肩にのしかかる。
ヴィオラは、壁際に座って、短い針と糸で何かを直し始めた。
衣装のほつれ。
手袋の縫い目。
完璧に見えるのに、完璧に“維持”している。
「……ヴィオラは、疲れないの?」
私が聞くと、ヴィオラは針を止めずに言った。
「疲れます」
即答。
私は少しだけ笑ってしまった。
「……じゃあ、少し休んでよ」
「あなたが眠ったら」
やっぱり逃げ道がない。
(優しい……)
(優しいけど……近い……)
私は布団に潜り込み、目を閉じる。
眠れるはずがない。
背中の向こうに、気配がある。
布を擦る音。針のかすかな金属音。
呼吸が、落ち着いている。
私は、勝手に想像する。
ヴィオラが髪をほどいたらどうなるんだろう。
手袋を外したら、どんな指なんだろう。
制服の襟をほどいたら、どんな香りがするんだろう――
(だめだめだめだめ!!!)
私は布団の中で、拳を握った。
そのとき、ヴィオラの気配が立った。
布が揺れる。
扉が、静かに開く。
「……見回り」
小さく言って、ヴィオラは外へ出た。
ほんの一瞬。
本当に一瞬。
でも。
(今……抜けた?)
私は布団の中で目を開けた。
胸の奥が、妙にざわつく。
“見回り”。
それは護衛として普通のこと。
だけど、さっきまで疲れてると言っていた人が、夜に、たった一人で。
(……危ないのかな)
そう思った瞬間、私は自分の浅さに気づく。
さっきまでドキドキしてたくせに、今は心配してる。
心って、忙しい。
ヴィオラはすぐに戻ってきた。
戻ってきたのに、外の匂いを少しだけ連れている。
冷たい風と、土と、どこか遠い煙の匂い。
「異常はありません」
それだけ。
それだけなのに、私は胸の奥がふっとほどけた。
「……そっか」
私は小さく呟いて、目を閉じた。
“同室”は怖い。
“湯浴み”は危ない。
でも。
ヴィオラがいる。
その事実が、今日の重さを少しだけ軽くする。
明日も巡礼は続く。
次の村へ。
次の救いへ。
私は聖女で、私は――私で。
布団の中で、ようやく眠りが落ちてきた。
その直前、ヴィオラの声が静かに落ちる。
「……眠れ」
短くて、優しい命令。
私は、はい、と返事をした気がする。
言葉にならないまま、私は暗い天井を見上げた。
そして、眠った。




