浄化と陰
次の目的地の村は、空気が重かった。
畑はある。井戸もある。子どもも走っている。
それなのに、村全体が“息をひそめている”みたいだった。
笑い声が続かない。誰かが咳をすれば、周りが一斉に振り向く。
夜が近づくほど、家々の窓が早く閉まる。
「……ここ、寒いわけじゃないのに。寒いね」
思わずこぼすと、ヴィオラが私の半歩前で足を止めた。
「寒さではありません。……怖さです」
静かな声。
なのに言葉だけが、胸の奥へ沈む。
怖い。
私はその意味を知っている。
自分が“男なのに聖女”であることが、いつか刃になる怖さ。
人を救えば救うほど、期待が増えて、逃げられなくなる怖さ。
でも――村の人たちの怖さは、もっと生活に近い。
明日、食べられるか。
明日、家族が無事か。
明日、笑っていられるか。
聖堂の前には、昨日の村より少ない人が並んでいた。
それでも目は、切実だった。
「聖女様……」
年配の女性が、私の手を取ろうとして途中で止めた。
触れていいのか分からない、みたいに。
私は笑って、手を差し出した。
「大丈夫。触っていいよ」
“私”の声。
きちんと出た。
それだけで、少しだけほっとする。
ヴィオラが視線で周囲を整える。
村人たちの間に、目に見えない線を引く。
近づきすぎないように、押さないように、騒がないように。
その手際が、やっぱり格好いい。
最初に診せられたのは、青年だった。
私と同じくらいの年に見える。
顔色が悪い。
唇が乾いている。
指先が、細かく震えていた。
「……最近、眠れなくて」
青年は笑おうとして、うまく笑えなかった。
その笑い方が、胸に刺さる。
私は膝をついて、青年の手を取った。
冷たい。
でも汗ばんでいる。
――嫌な匂い。
血や泥じゃない。
もっと、生活に染みついた、逃げられない匂い。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ」
私は祈った。
指先から流れる温かさが、青年の中の“荒れ”へ触れる。
浄化。
昨日の村の治癒とは違った。
怪我は、直す対象が分かりやすい。
でも“荒れ”は、境界が曖昧で、どこまでが病で、どこからが心なのか分からない。
青年の呼吸が乱れる。
喉が鳴る。
震えが強くなる。
周囲がざわついた。
私は唇を噛んだ。
――怖い。
奇跡を使うのが怖いんじゃない。
届かないことが怖い。
「聖女様……!」
誰かが泣きそうな声を上げる。
その瞬間。
ヴィオラが一歩だけ前へ出て、静かに言った。
「大丈夫です。ここにいます」
その言葉は私に向けられたのに、村人全員の背中に手を置いたみたいだった。
ざわめきが、すっと引く。
私は呼吸を整えた。
祈り直す。
温かさを、もっと小さく。
押し付けない。
奪い取らない。
青年の瞳が、ふっと焦点を取り戻した。
「……う、あ……」
涙が落ちた。
「……楽、になった」
その一言で、周りの大人たちが息を吐く。
でも。
青年は、まだ震えていた。
私は気づく。
――浄化しても、“戻る”んだ。
それは私の力が足りないからじゃない。
相手の中に、外から入り込んだ何かが、根を張っている。
この“嫌な匂い”は。
村人が私を見上げる。
救いを求める目。
同時に、怖がる目。
私は笑った。
笑顔は、聖女の仕事だ。
「今日はここまで。無理に押し込むと、かえって苦しくなるから」
言いながら、私は自分の心臓が早く打っているのを感じた。
――怖い。
でも。
逃げない。
村の診療が落ち着いた頃、青年が私のところへ来た。
さっきの人だ。
歩き方がまだ不安定で、でも目はまっすぐだった。
「聖女様……」
近い。
私は一瞬だけ固まって、すぐに微笑んだ。
「どうしたの?」
青年は、耳まで赤くして、手の中の花束を差し出した。
野の花を、適当に束ねただけのもの。
でも、必死に選んだのが分かる。
「……これ。お礼。……あなた、すごい。綺麗で……その……」
言葉が迷子になる。
私の胸が、きゅっとなる。
嬉しい。
可愛い。
でも――危ない。
私は花束を受け取って、両手で抱えた。
「ありがとう。すごく嬉しい」
青年の顔がぱっと明るくなった。
その瞬間、村の空気がほんの少しだけ軽くなる。
……こういうのも、救いなんだ。
そう思った瞬間。
「聖女様」
ヴィオラの声が、すぐ隣で落ちた。
柔らかいのに、離れない線を引く声。
「お疲れでしょう。少し休まれますか」
青年が、ヴィオラを見た。
見た瞬間――言葉を失った。
きっと、村の人たちから見ても、ヴィオラは眩しい。
私だけじゃない。
青年は慌てて頭を下げて、二歩下がった。
「あ、すみません! 俺、変なこと……」
「変ではありません」
ヴィオラは微笑んだ。
「ただ、聖女様は聖女様です。……大切にしてください」
“私を”。
そう言われた気がして、胸が熱くなる。
青年は何度も頷いて、走って去っていった。
私は花束を見下ろして、笑った。
「……ねえ、ヴィオラ」
「はい」
「今の、ちょっとだけ……恥ずかしかった」
ヴィオラは、目を細めた。
「恥ずかしいのは、悪いことではありません」
そう言ってから、私の髪の横の花飾りに目を落とす。
「その花は、枯れます。水を」
実務。
いつも通り。
でも。
その実務が、私を地面に戻してくれる。
村の外れで、司祭が小声で言った。
「……最近、妙な“痛み止め”が出回っているそうです。効くが、続けると……」
続きを言わなくても、分かった。
効く。
でも、戻れなくなる。
私は花束を抱え直した。
この村を救えた、とは言えない。
今日できたのは、“息ができる時間”を作っただけだ。
それでも。
私は前を向く。
だって――求められた。
好意でさえ、救いの一部になる。
「次の村へ行こう」
私が言うと、ヴィオラが頷いた。
その横顔が、静かに強い。
そして私は、胸の奥で小さく誓う。
――麻薬は、悪だ。
この嫌な匂いを、放っておけない。
巡礼は続く。
次の村へ。
もっと救いが必要な場所へ。




