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巡礼、最初の奇跡

朝の空気は冷たくて、肺の奥がきゅっと縮んだ。


巡礼の一行が最初の村へ辿り着くころ、太陽はようやく、畑の霜を溶かし始めていた。


土の匂い。薪の煙。遠くで鳴く鶏。


――ここで暮らしている人たちは、この当たり前の朝を、当たり前のまま守りたいだけなんだ。


そう思うと、胸の奥がじん、と熱くなる。


「聖女様、こちらです」


ヴィオラがそっと、私の半歩前に出た。


白い手袋の指先が、道の段差を示す。


大げさな動きはしない。けれど、私が転ばないように世界を整えてくれているのが分かる。


綺麗。


言葉にすると軽くなる気がして、私は心の中だけで呟いた。


ヴィオラは、綺麗で、落ち着いていて、怖いくらいに頼りになる。


侍女なのに――侍女だからこそ、なのか。


私の周りを“安全”で包むのが、息をするみたいに自然だった。


村の入口には、小さな聖堂があった。


屋根は少し欠けていて、壁の白も剥げている。


それでも、扉の前に並ぶ人の顔は、真剣だった。


「聖女様……本当に、来てくださった」


誰かが泣きそうな声で言った。


次の瞬間、胸の奥が、ふわっと揺れた。


――私は、聖女なんだ。


選ばれた理由は分からない。


男なのに、聖女という“役”を押し付けられて。


それでも。


目の前の人たちが、救いを求めて手を伸ばしてくれるなら。


私は、応えたい。


「順番に。押さないでくださいね」


ヴィオラが、柔らかい声で言った。


ただの注意のはずなのに、不思議と誰も逆らえない。


その場の空気が、すっと整う。


……あの人が言うと、安心する。


私の心の中で、昨日の言葉がよみがえった。


“安心は油断と紙一重”。


そう叱られても、やっぱり私は思ってしまう。


ヴィオラがいると、大丈夫だって。


最初に診せられたのは、足を怪我した少年だった。


畑仕事の手伝い中に、鎌で深く切ったらしい。


包帯は汚れて、血の匂いが残っている。


「痛かったね」


私は膝をついて、少年の目線に合わせた。


少年は泣くのを我慢して、唇を噛みしめている。


その横で母親が、何度も頭を下げた。


「聖女様……こんな田舎にまで……」


田舎だから、という言葉が胸に刺さる。


救いに場所の差はない。


少なくとも、私はそうありたい。


私は祈った。


指先から、温かいものが流れる。


光、というより、春の陽だまりみたいな感覚。


皮膚の下で暴れていた痛みが、じわじわとほどけていく。


少年の息が、ふっと軽くなった。


「……あ、いたくない」


その一言で、周りの大人たちが泣いた。


自分のことみたいに泣いた。


その涙が、私の胸を濡らす。


――よかった。


怖くて、苦しくて、逃げたい瞬間は確かにある。


でも今、この瞬間だけは。


私はここにいてよかった、と心から思える。


「聖女様、ありがとうございます……!」


手が伸びる。


握り返したい。


でも私は、距離を間違えたくない。


その時、ヴィオラが私の隣に立ち、すっと布を差し出した。


汗を拭うための、清潔な布。


同時に、人の手が私へ殺到しすぎないように、視線の流れを変えてくれる。


“守っている”。


派手じゃない。


目立たない。


なのに、決定的に、守っている。


私は布を受け取り、そっと額を押さえた。


「……ありがとう、ヴィオラ」


小さく言うと、ヴィオラは微笑むだけだった。


その微笑みが、やっぱり綺麗で。


私は、心臓が少しだけ跳ねた。


次の人、次の人。


咳が止まらない老人。


指を火傷した女性。


赤子を抱えた若い母親。


私は祈り、癒し、浄化する。


そのたびに、歓声と涙が生まれる。


でも私は、奇跡の重みも同時に感じていた。


――これが、当たり前になってしまったら。


みんなが救いを求めすぎたら。


私の手が届かない人が出たら。


その恐怖を、私は飲み込む。


聖女として、笑顔で立つ。


村の者たちが落ち着いた頃、外が少し騒がしくなった。


関所の役人らしい男が、荷馬車の前で腕を組んでいる。


「通行税だ。巡礼だからって、ただで通すわけにはいかん」


司祭が困った顔をする。


村人がざわめく。


――まずい。


ここで揉めたら、“聖女が来た日”が嫌な記憶になる。


私が救ったはずの空気が、すぐに濁る。


私は言いかけた。


やめて、と。


私が払います、と。


でも。


「失礼」


ヴィオラが一歩前へ出た。


その瞬間、空気が変わった。


白い手袋。すっと伸びた背筋。陽の下で揺れる睫毛。


――綺麗、という言葉が、暴力みたいに場へ落ちる。


役人の男が、ぱちりと瞬きをした。


さっきまでの不機嫌が、目の焦点の合わなさに変わる。


「……は、はぁ。侍女、か」


視線が、ヴィオラの顔から首筋へ、喉元へと迷いかける。


その“迷い”を、ヴィオラは一度も許さなかった。


微笑みは柔らかいのに、立ち位置と目線だけで逃げ道を塞ぐ。


声は柔らかい。


言葉は丁寧。


なのに、その場の温度が一段下がった。


「その通行税は、規定にありません。帳簿を確認しましょう」


役人の男は、鼻で笑おうとして――笑い損ねた。


「侍女が何を――」


「侍女だから、です」


ヴィオラは微笑んだ。


色気ではなく、余裕の形をした微笑み。


「聖女様のお時間は、民のために使われます。あなたの気分のためではありません」


その言葉が刺さった瞬間、役人の男はようやく“我に返った”みたいに顔を赤くした。


刺す。


上品に、静かに、逃げ道を塞ぎながら。


役人の男の喉が、ごくりと動いた。


「……ちっ」


男は何かを言いかけ、結局、背を向けた。


村人が、ほっと息を吐く。


司祭が青い顔で、私に謝ろうとする。


私は首を振った。


だって。


今のは、ヴィオラが守ってくれた。


私の公務も、村の人たちの気持ちも。


「……すごい」


思わず漏れた。


ヴィオラは振り向いて、少しだけ目を細めた。


「すごくありません。必要なことをしただけです」


その言い方が、ずるい。


格好いい。


頼れる。


私は胸の奥が、きゅっとなる。


――私も、こうなりたい。


誰かを救うって、奇跡だけじゃない。


こうやって、守って、整えて、嫌なものを遠ざけて。


ヴィオラはそれを、淡々とやっている。


その姿が、眩しい。


巡礼の最初の村。


最初の奇跡。


私は、手のひらに残る温かさを握りしめた。


そして、改めて思う。


ヴィオラがいる。


だから私は、前を向ける。


次の村へ。


救える人がいる場所へ。


――行こう。


私が聖女である限り。

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