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旅の始まり

ヴィオラの姿のまま、俺は教会の廊下を歩いた。


蝋燭の匂い。磨かれた石床。祈りの声。


ここは“光”の場所だ。だから余計に、俺の足音が浮く。


――巡礼だ。


司祭の口からその単語が出た瞬間、俺は中身だけで舌打ちした。


表向きは、聖女が各地を回って祈りと施しを届ける、立派な公務。


裏側から見れば、移動は弱点で、街の外は事故が起きる場所で、そして“噂”が育つ土壌だ。


「聖女様には、民の心を慰めていただきたい。最近、街道沿いの村々が荒れておりましてね……」


荒れている。


その言い方が、既に“遅い”。


俺は頷いた。顔は侍女の微笑みのまま。


「承知しました。巡礼路の安全は、こちらで確保いたします」


――確保する。


口に出してから、自分の言葉の重さを噛みしめる。


護衛は必要だ。だが、男を張り付けた瞬間に“違和感”が出る。


違和感は噂になる。噂は刃になる。


だから俺は、ヴィットーリオとしては表に出ない。


表に出るのはヴィオラだけだ。


――女装ってのは、戦闘より面倒だ。


襟元が一ミリずれれば首筋が見える。袖が少し短ければ手が主張する。


声は低すぎても高すぎても駄目で、歩幅も、目線の高さも、“俺”が出れば終わる。


そして最悪なのが、周囲の善意だ。


侍女というだけで、修道女たちは笑顔で布や飾りを持ってくる。


『似合うわね』と言われるたびに、俺は否定も肯定もできず、ただ頷く。


――頷いた瞬間、俺は自分の首が締まる音を聞く。


それが、今のルール。


俺が決めた、俺の首を絞めるルールでもある。


部屋に戻ると、サムとトムが待っていた。


二人は“巡礼の随行”ではない。荷馬車係でも、護衛でもない。


影だ。影として、先回りしてもらう。


……と言いたいところだが、サムの視線が俺の顔から肩、腰、裾へと滑っていく。


値踏みじゃない。からかいだ。


「いやぁ、今日も完璧だな。姐さん」


「殺すぞ」


俺が睨むと、サムはわざとらしく肩をすくめた。


「冗談冗談。でもさ、さっき修道女が言ってたぜ。“侍女様、まるで人形みたい”って」


褒め言葉の形をした地雷。


俺は鼻で笑う。


「人形は黙っていればいい。お前も黙れ」


トムは無言だ。


無言のまま、俺の袖口をほんの少しだけ引いて、糸屑を取った。


……こいつ、こういう所が一番怖い。


俺が“ヴィオラ”を崩す前に、黙って直す。


叱るより先に整える。


影の仕事をさせるには、最適だ。


「で? 今度はどこ行くんだ、姐さん……じゃなくて、ヴィオラ様?」


サムがニヤつく。軽口の形をした敬意だ。


「口を閉じろ。……巡礼だ」


俺は短く言って、地図を広げた。


街道沿い。村がいくつか。


最後に辿り着く村――そこだけ、返事が遅い。


「トム。先に行け。街道の見張りと補給線を見ろ。井戸と宿、塩と灯り。足りないなら押さえろ」


トムは一言も返さず、頷いた。それで十分だ。


「サム。噂を拾え。徴発、行方不明、薬の話。特に“痛み止め”の類は全部だ。売り手の癖まで覚えろ」


「へいへい。俺に任せとけって。……また薬か」


サムの声が一瞬だけ沈む。


俺も沈んだまま、言い切る。


「薬は嫌いだ」


理由は説明しない。


説明すれば、俺の中の地雷が見えるからだ。


見せる必要はない。見せたところで、何も良くならない。


指示を終えると、次の名前が頭に浮かぶ。


ミレイユ。


あいつがいないと、俺の“ヴィオラ”は整わない。


所作も、言葉遣いも、細部の嘘も。


一つ崩れれば、そこから全部が崩れる。


……だが、呼べば笑われる。


それは確定している。


俺は懐から小さな符を取り出し、手早く印を結んだ。


連絡用の合図。裏の連中が使う、簡単な暗号。


『巡礼。来い。必要だ』


書き終えた瞬間、心の中で舌打ちが二回鳴った。


――くそ。俺が侍女で、あいつを呼ぶ。こんな状況、誰が想像した。


それでもやる。


任務だからだ。……いや、任務だけじゃない。


扉の向こうから、明るい声がした。


「ヴィオラ! ねえ、見て! この荷物、私が持ってもいいかな?」


リュカだ。


声が弾んでいる。


……弾んでるのは、たぶん荷物じゃない。心だ。


振り向くと、聖女――いや、“聖女としての衣装”を整えたリュカが、少し浮かれた顔で立っていた。


頭のヴェールが、きっちり留まっていない。


髪留めが片方だけ、やけに可愛い花の形をしている。


本人は気づいていないのか、気づいていても誤魔化しているのか。


「……それ、誰がつけた」


「え? あ、これ? 修道女さんが“巡礼だから”って。可愛いでしょ」


可愛い。


自分で言うな。


――いや、言っていい。言う資格がある。


リュカは嬉しそうに、少し背伸びをした。


聖女の衣装が揺れて、胸元の布が一瞬だけずれる。


俺は反射で一歩前に出て、視線を遮った。


その動きが自然すぎて、自分でも笑える。


出発の前の高揚。救える場所が増えることへの喜び。


その笑顔は、こちらの世界の汚れをまだ知らない。


……知らない方がいい。


知らなくていい。


「重い。あなたは手を怪我する」


俺は即答した。侍女の口調で、柔らかく、しかし引かせない。


「え、でも……私も役に立ちたいし……」


“役に立ちたい”。


その言葉が、妙に真っ直ぐで厄介だ。


「役に立つなら、今は“無事でいる”ことです」


リュカは頬を膨らませた。


可愛いとか言うと殺されるかもしれないので、俺は言わない。


代わりに水筒を渡す。


「代わりに、これを持ってください」


小さな水筒だ。軽いのに、役割がある。


軽いのに、役割があるもの。聖女の手を塞ぎすぎず、油断させすぎない。


そういう“ちょうどいい”を、俺はいつも選ぶ。


リュカは水筒を受け取って、両手で大事そうに抱えた。


その仕草が、どうしようもなく子どもっぽい。


「ありがとう。ヴィオラがいると安心する」


……言うな。


安心なんて言葉は、俺にとって一番扱いづらい。


「安心は油断と紙一重です」


俺はいつも通りの正論で返した。


リュカはむっとして、頬を膨らませ――三秒でしぼむ。


次の瞬間、困ったように笑った。


「分かってる。……でも、ね。安心するのは本当」


“本当”。


その単語が、胸の奥を一瞬だけ温める。


温いのは危ない。


俺は、すぐに冷たくする。


「なら、歩く時は俺の半歩後ろ。……いえ、私の半歩後ろ」


口調を修正するのが遅れて、自分で舌打ちした。


リュカは目を丸くして、すぐに肩を震わせた。


「いま、“俺”って言いかけた?」


――来た。


俺は微笑みを崩さず、即答する。


「言い間違いです。侍女にも疲労はあります」


嘘の言い方だけは、どんどん上手くなる。


リュカは少しだけ眉を寄せて、でも最後には頷いた。


「そっか。……ヴィオラも、無理しないでね」


可愛い。


可愛いから、余計に困る。


俺は返事の代わりに、リュカのヴェールの留め具を指先で直した。


触れていい距離と、触れてはいけない距離。


その境界を、俺は常に測っている。


「これ、ずれてます」


「えっ、ほんと? ありがとう……! 助かった」


助かったのは俺の方だ。


ずれたまま歩かれたら、周囲の視線が喉元や胸元に集まる。


聖女の秘密は、こういう“一ミリ”で死ぬ。


「それと、髪留め。可愛いです」


言ってから、俺は自分に驚いた。


リュカはきょとんとして、次に花が咲くみたいに笑った。


「でしょ! ……ふふ。褒められた」


褒めたら喜ぶ。


そんな当たり前のことが、俺の世界では当たり前じゃなかった。


分かっていない。


分かっていないから、守る。


――守る、なんて。


俺が言うと滑稽だ。


だが、滑稽でもいい。


滑稽なほど、徹底してやる。


「あ、あ、あ、私、ちゃんと“私”って言えてるよね」


リュカは胸の前で小さく拳を握って、こっそり発声練習をしているようだ。


その真面目さが、笑えるくらい可愛い。


俺は笑わない。侍女の顔を保つ。


「よし」


短く言って、俺は手袋の裾を整えた。


指先まで隠す。


俺の方も、崩せない。


――光の場所に、影の仕事を持ち込む。


その滑稽さを、今日も繰り返す。


俺は視線だけで周囲を一巡し、荷車の位置、出発の順番、司祭の手元の書類まで確認した。


最後に、リュカの喉元を見る。


喉仏が目立たない角度。声が裏返らないように、喋り方を思い出す。


その全部が、“救い”の前提になってしまっている。


――これが、護衛だ。


社会貢献だ。


リュカはそう信じるだろう。


そして俺は、その信仰の土台を、汚れた手で支える。


「……行きますよ、聖女様」


俺が促すと、リュカは背筋を伸ばした。


胸の聖痕を隠す布が揺れて、微かな光が走る。


その光が、俺の目に刺さる。


救いは眩しい。


眩しいほど、陰が濃くなる。


それでも俺は歩く。


ヴィオラとして、そして――見えないところでは、ヴィットーリオとして。


巡礼の始まりだ。

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