ボクが、聖女に!?
鏡の前に立つたび、胸の奥がきゅっと縮む。
白い布。細いリボン。祈りの言葉。
女の子の服だ。
……動きにくい。
裾が足に絡むたび、普段なら何でもない一歩がやけに長く感じる。
階段なんて、もう。
「女の子は無理がありますよ!」
背後で、依頼者の使いの者が小声で食ってかかった。
「いえいえ、大変お可愛らしく。誰がどう見ても聖女様です!」
返す声は、やけに自信満々だ。鼻息が荒い。
褒めているのに、逃げ道を塞がれていく。
いや。
——今のボクは、「聖女様」だ。
聖痕は、隠せない。
手の甲に浮かぶ淡い光の紋様が、触れるたびに脈打って、ボクが逃げ道を失ったことを告げている。
「男が聖女だと公にできない」
教皇庁の人は、あっさりそう言った。
それが政治で、世界で、神のお告げよりも厄介な“現実”なのだと。
「次の聖女が決まるまで、あなたは女として聖女を全うしてほしい。
そして、極秘でお願いします。何卒何卒。」
ボクは笑って頷いた。
うまく笑えていたかどうかは、覚えていない。
母さんはいつも言っていた。
「マフィアとは関わるな」
「誰かを助けられる人になりなさい」
その遺志を守って生きてきただけなのに。
母さんが死んだあと、ボクは孤児として“保護”され、気づけば修道院の中にいた。
修道院の壁は白い。
でも、白さが強いほど、影は濃くなる。
「リュカ・アレッシ様」
呼ばれて、ボクは顔を上げた。
神託は名前と居場所まで知っていた。
怖いくらいに正確で、優しいくらいに残酷だ。
「準備はよろしいですか」
司祭の声は丁寧なのに、どこか焦っていた。
今日中に“奇跡”を見せろと言外に迫ってくる。
「……はい」
喉が乾く。
声の高さも、語尾の柔らかさも、頭の中で何度も練習した。
ボクは聖女だ。
ボクが救わなきゃ。
施療院へ向かう廊下は、祈りと薬草の匂いが混ざっている。
うめき声が聞こえるたび、胸の奥に見えない針が刺さる。
“見える”。
病が、痛みが、穢れが。
色みたいに。
重さみたいに。
——ボクの中に流れ込んでくる。
「こちらです、聖女様」
司祭が扉を開ける。
瞬間、空気が変わった。
人の熱。
汗。
恐怖。
希望。
それらが渦になって、ボクの頬を撫でる。
「……っ」
足が止まりそうになる。
そのとき。
「失礼」
低い声。
背中が冷える。
振り向いた先に、黒い影みたいな男が立っていた。
礼儀正しく頭を下げる。
なのに、目が笑っていない。
「護衛を務めます。ヴィットーリオ・グレイヴス」
名前を名乗った瞬間、周りの修道女たちが一斉に息を呑んだ。
(……怖い)
正直な感想が、喉まで出た。
怖いのに。
この人が一歩踏み出すだけで、廊下の騒がしさが一段落ち着いた。
空気を支配する、という言葉があるなら、こういうことだ。
「リュカ様」
司祭が急かす。
「まずは、こちらの患者から。皆、あなたを待っております」
ベッドの上に、痩せた少年が横たわっていた。
息が浅い。
肌の色が悪い。
それだけじゃない。
少年の胸の辺りに、黒い濁りがまとわりついている。
病気の濁り——というより、もっと嫌な。
甘い匂いと、金属みたいな苦味。
(これ、薬……?)
「治してください……聖女様……」
泣きそうな声。
周囲の大人たちの目が、ボクに刺さる。
逃げたい。
でも。
ボクは、手を伸ばした。
「大丈夫です」
祈りの言葉を口にする。
聖痕が熱を持つ。
光が、指先に集まる。
——世界が、静かになった。
濁りがほどけていく。
黒い糸が解けるみたいに、少年の胸から抜けていく。
「……っ」
少年が息を吸う。
一度。
二度。
そして、涙をこぼしながら笑った。
「治った……」
施療院に、歓声があふれる。
修道女たちが祈り、家族が泣き、司祭が神に感謝する。
ボクは、震える手を握りしめた。
(……よかった)
救えた。
本当に。
その瞬間。
視界の端で、誰かが寄付箱の近くで書類を隠した。
——気づいたのは、ボクだけじゃない。
ヴィットーリオが、ほんのわずかに視線を動かす。
刃物みたいな目。
(……狩る顔だ)
ボクの背中に、また冷たい汗が流れた。
「……ありがとうございます」
ボクは、勇気を振り絞って言った。
ヴィットーリオは、ボクの方を見ないまま答える。
「仕事だ」
それだけ。
なのに。
いつの間にか、人混みの間に入ってきた乱暴な男が、ボクの近くまで来る前に——ヴィットーリオが一歩、前に出た。
何も言わない。
それだけで、その男は黙って引き下がった。
(……怖いのに、頼れるのかもしれない)
そんな考えが浮かんで、ボクは自分で自分が怖くなった。
帰り際、司祭がぽつりと漏らす。
「最近、薬が足りないのです。寄付もあるはずなのに……」
ボクは、胸の奥を押さえた。
救えるなら。
ボクは、何にだってなる。
——それが正しいかどうかは、まだ分からない。
ただ。
あの護衛の冷たい目が、ボクの知らない“影”を見ていることだけは分かった。




