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祈りを繋ぐもの  作者: 和穂ゆう
9/34

天と地を結ぶものたち ~上~

前・中・後に分けて投稿します。

今回は前編となります。

序章『天に満ちる声 ― 使わされる者』


あのとき、天は閉ざされていた。


岩戸の奥に籠もった太陽神、天照大御神の嘆きは、光を失った高天原から地上にまで影を落としていた。神々は集い、長き協議の末、戸を開かせる術を探った。荒ぶる力でも、願いの言葉でも届かぬその戸に、ただ一つ届いたのは――舞いだった。


しんと沈黙する神々の前に立ったのは、初代「アマノウズメ」こと、タクハタチチヒメ。穏やかでありながら芯の強さを秘めたその姿は、母として、神として、また芸の道を極めた者として、すべてを受け止めていた。


彼女の手が静かに宙を切る。鈴の音がふわりと広がる。舞は、祈りの形。歌は、心の響き。大御神のために、大御神を想って、すべての動きが、言葉が、空気に溶けてゆく。


その傍ら、まだ幼いミヤビは、大人たちの輪の外からその様子を見つめていた。


彼女は目を見開いていた。まるで初めて風を知ったように、まるで初めて陽を感じたように。舞は言葉ではない。けれど、確かに心に何かが届いた。胸の奥に灯ったその火は、後の彼女のすべてを形づくることになる。


「わたしも……いつか、あんなふうに……」


誰に聞かせるでもなく、小さく呟いたその声は、風に紛れて消えていった。


時は流れ、高天原に稲穂がそよぐ季節。


まだ若きニニギは、祖母である天照大御神の手に導かれ、田を見渡していた。空の神とは思えぬほど、その目は地の恵みに優しく注がれていた。


「この稲は、ただの糧ではないのですよ」


天照の言葉に、ニニギは首をかしげる。


「生きる力。祈りの形。そして……人と神とを結ぶもの」


そう言って天照は、細く実った一束の稲をそっと手渡した。


「あなたが地に降りるとき、この稲穂を持ちなさい。光を伝えるのは、剣ではなく、こういうもの」


ニニギは、それをじっと見つめた。


まだ若い彼には、それがどれほど大きな意味を持つかは分からなかった。けれど、その稲穂を抱きしめた祖母の手の温もりだけは、はっきりと覚えていた。


ある日、タクハタチチヒメの舞の稽古場を訪れたニニギは、そこで一心に鈴の音を鳴らす幼い少女と出会う。


「君……名前は?」


「ミヤビ。タクハタさまのお弟子です」


小柄ながら芯の通った瞳が、ニニギをまっすぐに見つめた。


「君の鈴の音、どこか楽しそうだった」


「楽しいんです。舞って、祈りでしょ? 人のためにすることだから」


ニニギは少し驚き、そして笑った。


「僕も……地に降りたら、そういう想いを伝えたいな」


その言葉に、ミヤビはぱっと花が開くような笑みを見せた。


「じゃあ、降りるときは、わたしも連れていってくださいね!」


それから幾ばくかの時が流れた。


高天原に、再び声が満ちていた。天照の傍らに控えるのは、その息子、オシホミミ。


「母上。そろそろ、地に人々を導く者を」


天照は頷き、ひとつだけ問うた。


「お前は行かぬのか?」


「私には、まだ果たすべきことが高天原にございます。しかし、我が子・ニニギこそ、あの地を照らすにふさわしき光」


その言葉に、天照はしばし黙した後、静かに言った。


「……ならば、私が問おう。ニニギよ。お前は地に降り、人と神のあいだに立てるか」


問われたニニギは、すっと立ち上がった。


胸元には、あのとき受け取った稲穂の一束。幼き日に手渡された祈りの証。


「はい。降りて、伝えます。人々と、共に生きていく道を」


天照は微笑んだ。


天照は彼を見つめ、続ける。


「地には、すでに多くの神々が息づいている。

人の祈りも、形も、天とは異なる。

汝の務めは、支配ではない。

ただ、祈りを繋ぐこと――天と地と、人の心を。」


そして、光の柱の中から、五柱の神々の名が告げられる。


「アメノコヤネ――言霊を伝える者。

アメノフトダマ――祭祀を司る者。

アメノウズメ――心を開く者。

イシコリドメ――鏡を造る者。

タマノオヤ――玉を紡ぐ者。」


その名が呼ばれるたび、神々が一歩ずつ進み出る。

それぞれが、天から地への橋を担う者たちであった。


そして――


「アメノウズメ」の名が呼ばれたとき、列の端で控えていた一柱の女神が、静かにひざまずく。


タクハタチチヒメ。初代・アメノウズメにして、芸能と祈りの道を極めし者。


その傍らにいた少女に、彼女は小さく囁いた。


「ミヤビ。今日より、あなたが“アメノウズメ”です。」


少女は、深く息を吸った。

幼き日、岩戸の前で見たあの光。

それを胸に刻み、今こそ、名を継ぐ。


「はい。

私が舞いましょう――天と地と、人の願いのために。」


タクハタチチヒメはそっと手を添え、娘のように育てた少女の背を押す。

それは名の継承であり、祈りの継承だった。


天照大御神は柔らかに微笑み、最後の言葉をニニギに託す。


「行きなさい。

地に降りて、命を結び、祈りを繋げ。」



---


天が開いた。

光が大地へと射し込む。


ニニギは、五柱の神を従え、静かにその一歩を踏み出した。


その背に、誰かの願いを乗せながら。

その胸に、誰かの祈りを宿しながら。


そして――彼らの旅が、始まる。



---



間章『道の交わるところで』


高天原から降りるその途上。


天と地の境、**天の八衢やちまた**にて、彼らは立ち止まった。


一行の足を止めさせたのは、そのただならぬ響き。音というより、空気に刻まれる震えに近い。

ミヤビが小さく肩をすくめながら、そっと楽器を胸に抱える。


「誰か……いますか?」


彼女の問いに応えるように、霧の向こうから現れた影――

それは、他の何者とも異なる存在感を放つ男。

頬に土の色、目には山の闇、そして背には星を背負うかのような威容。


その名はサルタヒコ。

国津神にして、地上の導き手。



---


サルタヒコは、山と海のあいだに生まれた。

父の名を知る者は少なく、母の言葉もやがて波にさらわれた。

けれど、彼の中に宿るものは確かだった。


――国常立尊クニノトコタチノミコトから伝わる、地の底に響く意志。


星が昇る夜、彼は夢を見た。

そこには声があった。地を踏みしめ、空へと響く声。

それは天からの音ではなく、大地からのひらき。


「来るぞ――この地を歩む者が」


サルタヒコは、まだその意味を知らなかった。

ただ、己が立つべき場所に立ち、通るべき道を見守ることこそが役目だと、心に刻んでいた。


だからその日、霧の中から降りてきた神々の気配に、彼は静かに立ち上がった。

ただの好奇ではない。

これは、地の神としての義務であり、誇りだった。


そして、現れた者たちの中に、ひときわ異なる存在を見つけた。

――舞衣を纏い、楽器を抱えたひとりの巫女。


その姿に、サルタヒコは眉をひそめた。

奇妙な装束、見たこともない器具。

けれど、彼の中のなにかが、その存在に強く引かれていた。


ミヤビもまた、その視線に気づき、柔らかく微笑んだ。


「これは“しょう”という楽器なの。風の音を真似て、祈りを運ぶためのものよ。

 舞も……よければ、見ていって」


そう言って、ミヤビはひとたび深く息を吸い、静かに舞をはじめた。


音が風となり、衣が空を描く。

そのひととき、サルタヒコの目に映ったのは――

地上に差す、初めての天の光だった。


(この者たちを、地へ導かねばならぬ)


心にそう刻まれたとき、彼ははじめて、自らの使命を理解した。



第一章


『田に立つ神、舞う神』

〜名もなき神々との遭遇〜


稲穂は土に根を張り、風にそよぐ。

そこに神が降り立ち、祈りの歌を唄う。

神は、ただ教えるのではない。

共に歩み、共に汗を流し、共に生きる。

天から地へ、地から人へと繋がる道に、

一歩一歩を踏みしめるごとに、

新たな神々の姿が見えてくる。


一節 霧のなかにて


朝露をはらむ草原を踏みしめ、ニニギは歩んでいた。天の稲穂を携え、この地に命の糧を根付かせるために。

山を背にし、川のほとりに立つと、名もなき神々の気配がそっと辺りを包む。けれど、敵意はない。ただ、静かに見守るような気配。


「ここに、人の暮らしを根づかせよう」


ニニギの言葉は、風に乗って大地へと染みわたるようだった。

人々は最初、神の姿に戸惑いながらも、やがてその働きぶりに心を開いていく。鍬の使い方、田の区画の切り方、水の流れを読む目。ひとつひとつを丁寧に伝えながら、彼もまた学んでいた。


ミヤビもまた、その地に身を置いていた。田に立つ者たちに寄り添い、祈りを込めた歌を教え、身体で願いを紡ぐ舞を伝えてゆく。


「この唄はね、願いを風に乗せるためのもの。だから、声の先を空に向けて」


そう言って、ミヤビは子どもたちと輪になって、手を取って笑った。

その姿を、木陰からじっと見つめる影があった。岩に凭れ、腕を組んだサルタヒコは、眉をひとつひそめながらつぶやく。


「……面白い女神だな」


二節 土に宿る声


季節は巡り、田に苗がそろい始める頃。

ニニギは人々とともに、木々を伐り、田を広げ、用水の道を拓いていた。人の手と神の知恵が交わるその場には、自然と笑い声も生まれる。


「それでいい、その角度だ。水は高きより低きへ流れる。道を読むんだ」


土に手を染めるニニギの姿は、決して人々の上に立つものではなかった。彼はともに汗を流し、笑い、悩みを分かち合う。


一方、ミヤビは舞に込める意味を、少しずつ語るようになっていた。


「舞はね、ただの飾りじゃないの。見えないものと、見えるものを繋ぐ道なの。大地の気を読んで、調和を奏でるための祈り」


少しずつ、歌や舞は人々の間に根づいていった。田植えのあとには皆で唄い、踊り、神々とともにある日々を感じるようになっていく。


そんな夜、焚き火の影に座したサルタヒコがぽつりと言った。


「……あんたら、思ったよりも地に馴染んでるな」


ミヤビが首をかしげて笑った。


「ええ、だってこの地もまた、歌ってるもの」


サルタヒコの眉がわずかに動いた。だが何も言わず、炎を見つめていた。


三節 天に仰ぎ、地に願う


ある年、梅雨が訪れず、川の水も細くなった。苗は伸び悩み、土は乾いて裂け始めた。


「これは……このままでは田が持たぬ」


人々の表情に不安が広がるなか、ニニギはすぐに行動を起こした。地形を見て新たな水源を探し、谷に水路を築く計画を立てた。


「水はここを通る。土を削って、岩を崩すんだ」


重い石を運ぶ人々の列に、ニニギの姿もあった。汗を拭い、声をかけながら、一歩一歩を共にする。


その傍らで、ミヤビは風を読む。空を仰ぎ、大地に耳を澄ませる。そして人々を集め、祈りの舞をはじめた。


「雨を乞うのではなく、願いを届けるの。空の向こうに、届けよう」


神楽鈴の音が澄んだ空に響き、やがて遠くの空に雲が集まり始めた。雷鳴ひとつ、そして雨が降り始める。


人々の歓声のなか、サルタヒコはひとり、木陰でそっと呟いた。


「……まったく、不思議なもんだ」


四節 実りの気配


稲はたくましく育ち、風にそよぐその音はまるで囁くようだった。

ニニギは穂先を撫でながら、感慨深げに言う。


「……この地は、応えてくれたな」


ミヤビは笑ってうなずく。


「ええ。人々が祈って、働いて、歌って……そうして大地が微笑んだのね」


収穫の季節が近づくにつれ、人々の顔にも張りつめた緊張と期待が入り混じるようになった。

そんななか、サルタヒコは子どもたちに木彫りの笛を渡していた。


「音を鳴らせ。風を呼ぶ練習だ」


「神様なのにそんなこともするの?」


「余計なお世話だ」


軽口を交わす背で、笑いが芽生えていく。

田に、村に、そして神々と人とのあいだに、目には見えぬ絆が少しずつ根づいていく。



地に立つ神、舞う神――

ニニギとミヤビはそれぞれの方法で、人々に神々の教えを伝え、彼らとともに歩んでいった。

稲作の技術と共に広がる祈りの舞や歌。それは、ただ神々を讃えるためだけではなく、日々の営みの中に息づく力として、人々の心を繋いでいった。


名もなき神々もまた、彼らの歩みを見守りながら、静かにその力を与えていた。


そして、すべてがひとつの実りへと向かう――

やがて、この地に真の「実り」が訪れる日が来ることを、誰もが感じ取っていた。



第二章『水をわける言葉 〜川の神との誓い〜』


【導入詩】


ひとしずくの水に

生まれ めぐり 集いくる命たち

声なき声を聴きとれば

水もまた 願いをたずさえ

流れつづける――


【第一節 渇きの地にて】


陽は高く照りつけ、田に植えられた苗は風に揺れながらも、乾いた土の上で身をよじらせていた。春に芽吹き、順調に育っていた稲たちは、夏の盛りになってもまとまった雨に恵まれず、徐々に色を失いつつあった。


「……水が、足りないのです」


村の長が、ニニギにそう告げたのは、日照りが続いて十日を越えたころだった。


ニニギは黙って空を仰いだ。雲はあるが、雨には至らぬ。天と地の気がかみ合っていないのだ。


「川の上流で、流れがせき止められているかもしれません」


そう言って彼は地図を描き、谷筋をたどって水源に向かう道を示した。村の者たちは驚いた。地図などというものを見たことがなかったからだ。


「水は流れるもの――ではないのですか?」


若い農夫が尋ねた。


「そう思っていた。だが、流れは神々の意志だけではない。地のかたち、人の工夫、それらすべてが、川の道を決めていく」


ニニギの言葉に、皆は頷いた。


その日から、ニニギは村の若者たちを連れ、川筋を遡った。水の音を追い、石を打ち、道を拓いてゆく。小さな用水路を掘り、土を盛り、水を引く。


数日後、小さな堰から水が溢れ出し、ゆっくりと田に流れ込んでいったとき、村の者たちは歓声を上げた。


「これが、道を繋ぐということか……」


サルタヒコが、いつの間にか現れて、感心したようにうなずいた。


「おぬし、ただ降りてきたのではないな。神にして、民の労を知るとは」


ニニギは苦笑した。


「道とは、歩んでこそ通じるものだからな」



【第二節 見えざるものへ祈る】


一方で、ミヤビは空を見上げていた。


雲は流れても、雨は落ちぬ。草木も鳥も、音をひそめている。水を求める祈りは、きっとこの大地に満ちているはずなのに。


「けれど、見えないからといって、聞こえていないわけではない」


ミヤビは、タクハタチチヒメからそう教わっていた。


だからこそ、彼女は舞った。


乾いた大地の上で、鈴を手に取り、空を仰ぎ、風に乗せて歌を放つ。祈りのことばは、風に溶けて、やがて大気の奥へと沁みこんでゆく。


「踊りとは、天への手紙なのですか?」


村の子どもが尋ねた。


ミヤビは微笑んだ。


「ええ。でも、その手紙は、音のない世界に届くから、舞や節にのせて、形を伝えているのです」


そして、子どもたちに鈴の鳴らし方や、雲を呼ぶ踊りの所作を教えはじめた。はじめは照れていた村人たちも、しだいに足を踏み鳴らし、肩をゆらし、声を合わせていく。


やがて、空の色がわずかに変わり、冷たい風が吹いた。


「来る……!」


誰かが叫んだ次の瞬間、ぽつり、ぽつりと、雨が落ちた。歓声が広がり、村は一斉に空を仰いだ。


その日、ミヤビは祈りの舞が終わったあと、そっとつぶやいた。


「届いたのですね……」



天から授けられし稲は、地に根ざして育つ。

だが、その実りを支えるのは、日々の水。

人が道を繋ぎ、神が願いを聴きとれば、

そのひとしずくは、やがて命の川となる――

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