タケヒトの治世物語 - 中編
第十二章 稲の病と「ナオリの祓い」
即位三年目の梅雨は、まるで天が嘆いているかのように長く続いた。四十日もの長雨が降り注ぎ、宮中の瓦屋根を叩く雨音が絶えることなく響いている。窓の向こうには灰色の雲が重く垂れ込め、陽光は遮られたまま戻らない。
「民が苦しんでいるのに、皇として何もできないとは」
タケヒトキミは執務室の窓辺に立ち、雨に打たれる庭を見つめながら心を痛めていた。稲の病気の知らせが次々と届き、彼の心には深い自責の念が宿っている。その表情には、民への慈愛と君主としての無力感が交錯していた。
雨が小止みになった朝、タケヒトキミは病払いの勅使を派遣することを決断する。この重要な役目には、アメタネコとクシミカタマが向かうことになった。
「どうか、この祈りが天に届きますように」
二人は薄明かりの中で身を清め、決意を胸に都を発った。ヤスカワ(野洲市野洲川)に到着した彼らは、清流のせせらぎが聞こえる河畔に仮屋を建て、「ナオリの祓い」を執り行った。
川面に映る二人の影が揺らめき、祈りの声が水音と重なって天に昇っていく。アメタネコの額には汗が浮かび、クシミカタマの唇は真剣な祈りの言葉を紡いでいる。朝霧に包まれた神聖な空間で、二人の祈りは次第に強さを増していった。
「どうか、民の苦しみをお救いください」
その真摯な祈りが通じたのか、やがて稲の病は徐々に収まっていく。知らせを受けたタケヒトキミの胸には、深い安堵と感謝が込み上げていた。
秋の澄んだ空気の中、タケヒトキミは詔を発する。朝日が宮殿の白壁を金色に染め、新しい一日の始まりを告げている。
『ワニヒコ(クシミカタマ)の祖先のクシヒコは、身を呈しての諫言を何度もした事で知られます。それで、クシヒコ(2代目オオモノヌシ)はヤマトカミの誉め名を頂いたのでした。その意思を受け継いだ様な誠心誠意の心が今回も現れました。それで、稲の病も直りました。あなたには「ナオリモノヌシ」の称号を与えます。
また、タネコも同様に祖先のワカヒコ(アマノコヤネ)の遺功があります。アマノコヤネのナオキガガミの事がありましたから、アメタネコ、あなたにはナオリナカトミの称号を与えます。
共に、代々に渡ってこの称号を継いでください』
クシミカタマに「ナオリモノヌシ」、アメタネコに「ナオリナカトミ」の称号を与える時、タケヒトキミの目には感謝の涙が光っていた。秋の陽だまりが三人を包み、君臣の絆が一層深まった瞬間であった。
「このような忠臣に恵まれて、私は幸せである」
タケヒトキミの声は感動に震え、宮中に響く鳥のさえずりが、この喜びを天に伝えているかのようだった。
第十三章 鳥見山への移祭
即位四年目の春、梅の花が咲き始めた二月十一日の朝、宮殿は清々しい空気に満たされていた。タケヒトキミ(神武天皇)は、朝日が差し込む広間で詔を発する。窓の外では鶯が美しい声で鳴き、新しい季節の到来を告げている。
『ヤマトウチが完遂し得て、世の中に平穏を齎す事が出来たのは、「ミヤコトリ」のお陰であったようです。アマテルカミ様が教え諭し、ニニギ様が受け継いだ「ミヤコトリ」が輝いて私の身体を照らしてくれたので、仇敵も平定出来たのでしょう。ご先祖様がもたらしてくれた出来事に対しての御礼として、上賀茂神社を移し祭る事をしたいと思います。場所はハリハラ(榛原市)のトリミヤマ(鳥見山)に祭りましょう。移祭の準備はアメトミにしてもらいます。そして、カモのクニツコは、アタネに任じます。
アタネには、タケスミ(トヨタマヒメの弟)を祖先としての祭りを継がせてのことになります』
詔を読み上げるタケヒトキミの声は、深い感謝に満ちている。この日が十一日であり、首長達を召してお酒を賜る慣例の始まりとなった。桜のつぼみが膨らみ始めた庭で、集まった首長たちの表情には喜びと敬意が浮かんでいる。
「祖先への感謝を、このような形で表せることは喜ばしい」
タケヒトキミの心には深い満足感があった。陽光が彼の顔を照らし、穏やかな笑みが口元に浮かんでいる。遠くの山々に霞がかかり、春の訪れを告げる美しい風景が広がっていた。
第十四章 タカクラシタの武勇
タケヒトキミ(神武天皇)の治世八年目の秋、紅葉が山を彩る頃、越後に派遣していたタカクラシタが久しぶりに帰京した。長旅の疲れを滲ませながらも、彼の表情には誇らしい達成感が宿っている。宮殿の廊下に響く足音が、重要な報告の到来を告げていた。
タケヒトキミの前に跪いたタカクラシタは、その武骨な顔に決意を浮かべながら報告を始めた。
『わたくしは、詔を拝命して全国に平定を進めてまいりました。その地域は、四国地方から、九州の三十二郡まで、また山陰地方も巡り行きまして、最後には越後に至りました。越後のヤヒコの山辺に、反乱軍がたむろして抵抗してきました。そこで、五回にも及ぶ合戦の末に反乱軍を平定しました。こうして平定しました越後二十四郡を、朝廷に献上します』
その言葉を聞くタケヒトキミの瞳には、深い感動の光が宿っていた。秋の陽光が広間を染め、タカクラシタの疲れた表情を温かく包んでいる。
「あなたの忠勇、朝廷の誇りである」
タケヒトキミの賞賛の言葉に、タカクラシタは深く頭を下げた。その時、彼に大連の姓が下賜される。紅葉した楓の葉が窓外で舞い散り、この栄誉ある瞬間を祝福しているかのようだった。
しかし、二十年後、越後の国では反乱により穀物収入が減少し、租税の納税拒否の運動が起こる。雪深い越後の厳しい冬を思い浮かべながら、タケヒトキミは再びタカクラシタに平定を命じた。
越後の人々は、タカクラシタが地域の安定化に尽力する姿を長年見続けていた。そのため、「あなた様が仰るならば」と、素直に租税に従うこととなった。この結果を受けて、タケヒトキミはタカクラシタを越後のクニモリに任じ、「ヤヒコカミ」の称号をヲシテに染めてお与えになられた。
雪景色に包まれた越後の地を思いながら、タケヒトキミの心には深い満足があった。真の統治とは武力ではなく、民との信頼関係にあることを、タカクラシタが身をもって示したのである。
第十五章 イスキヨリヒメとの出会い
初代タケヒトキミ(神武天皇)の治世二十四年、桜が満開に咲く春の日のことであった。率川への行幸の際、タケヒトキミはクメの家に一泊することになった。夕暮れ時、茜色に染まった空の下で、一人の美しい女性が給仕として現れた。それがクメの娘のイスキヨリヒメであった。
燭台の柔らかな光に照らされた彼女の横顔は、まるで観音像のような気品を湛えている。タケヒトキミの心は、久しぶりに政務を離れた純粋な恋心に満たされていた。その瞬間、長年の重責から解放された安らぎと、新たな愛への憧憬が胸に溢れる。
「この人と共に過ごせたら、どれほど幸せだろうか」
タケヒトキミは心の内でつぶやきながら、イスキヨリヒメの清楚な美しさに魅了されていた。彼女の手つきは優雅で、声は鈴の音のように美しい。
月光が障子を通して室内を照らす中、タケヒトキミは告げのミウタを詠んだ。
かしはらの しけこきおやに
すがたたみ いやさやしきて
わがふたりねん
【歌の訳】
橿原の、木々が深く茂った仮小屋に、
衣を敷き重ねて、いよいよ清らかに整えて、
私たち二人は共に眠ろう。
イスキヨリヒメは頬を紅潮させながら、恭しく頭を下げた。その時の彼女の表情には、戸惑いと同時に深い感動が浮かんでいる。
ところが、イスキヨリヒメが宮中に上がることになった時、正皇后のタタラヰソススヒメに止められ、閨に入ることができずに名前もユリヒメと変えることになってしまった。宮中の複雑な人間関係の中で、彼女は孤立した存在となってしまう。
そうこうするうちに、正皇后のタタラヰソススヒメがご懐妊された。翌年の夏、緑陰が美しい季節にカンヤヰミミ(イホヒト)を無事にご出産される。蝉の声が響く夏の宮中で、新しい皇子の誕生を祝う声が響き渡った。
タケヒトキミの二十六年の冬、雪がしんしんと降る寒い夜に、再び正皇后のタタラヰソススヒメは皇子をお産みになられる。ヤスタレでのお祭りのための行幸中での出産であったことから、カヌカワミミ(ヤスギネ)と命名された。のちの二代目スヘラギ(綏靖天皇)に即位されるミコである。
雪明りが宮殿を静寂に包む中、新たな皇子の誕生はタケヒトキミに深い喜びをもたらした。しかし、同時にユリヒメの孤独な境遇への罪悪感も、彼の胸に影を落としていた。
第十六章 タギシミミの恋慕とユリヒメの拒絶
宮中に上がったにも関わらず孤立してしまったユリヒメに、タケヒトキミ(神武天皇)の長男のタギシミミが思いを寄せるようになった。春の宵、桜の花びらが舞い散る庭を眺めながら、タギシミミの心は恋の炎に燃えていた。
「あの美しいユリヒメを妻に迎えることができれば」
若い情熱に駆られたタギシミミは、一計を案じてユリヒメの父親のクメに協力を求める。薄暮の中でクメと対面したタギシミミの表情には、切ない恋心が浮かんでいる。
クメとしても、宮中で孤立している娘を不憫に思っていたところだった。「娘が良いと言うなら」と、父親として複雑な心境で答える。夕闇が迫る中、親心と立場の狭間で揺れる彼の表情には、深い憂いが宿っていた。
そのような経緯から、ユリヒメは父のクメに呼ばれることになった。しかし、聡明なユリヒメは、自分がタケヒトキミのキサキであるのに、タギシミミ様から呼ばれるのはおかしいと気が付く。月明かりが差し込む室内で、彼女の表情は凛とした決意に満ちていた。
タギシミミの申し出を拒否すべく、ユリヒメは毅然とした態度でツツウタを詠む。
あめつつち とりますきみと なとさけるとめ
【歌の訳】
天地をも治めるような尊き君であっても、
私はあなたと共に歩む女にはなりません。
その凛とした態度に、タギシミミは深い挫折感を味わった。彼の顔は青ざめ、握りしめた拳が微かに震えている。それでもあきらめきれないタギシミミは、返歌を進める。
にやおとめ たたにあはんと わがさけるとめ
【歌の訳】
乙女よ、ただ一度でも逢いたいと願うのに、
われを避ける女よ。
このタギシミミのウタに対し、少しもユリヒメの表情は緩まなかった。冷たい月光が彼女の横顔を照らし、その美しさの中に不動の意志が宿っている。「またそのうちに」とだけ答えたヒメに対して、タギシミミは去るしかなかった。
一方でユリヒメも、宮中での立場に悩み続けていた。桜が散り始める春の夕暮れ、一人庭を歩きながら心中でつぶやく。
「私は一体、どうすれば良いのでしょうか」
彼女の瞳には涙が光り、宮中の複雑な人間関係に翻弄される女性の哀しみが表れていた。




