天と地を結ぶものたち ~中~
上・中・下に分けて投稿します。
今回は中編となります。
第三章『森に棲むものたち 〜獣と神の境界〜』
森は目覚めぬ
声なきものたちが
響きを持たぬままに
境を跨ぐ
―それは、神に近くして
神ならざるもの
第一節 森の入り口
森の奥から吹く風は、田を渡るものとは違う匂いを運んでいた。湿った土と朽ちかけた葉、そして、名も知らぬ獣の息遣い。
ニニギはその風を前に、眉をひそめる。
「この先には、人の踏み入らぬ領があるのか」
ミヤビは、かすかに首を振った。
「人は足を運びます。けれど、森に拒まれれば、すぐに戻ってしまう。そう教わりました」
道は細く、ぬかるみ、獣道が交差する。そこに暮らす者がいる。
それを知るように、サルタヒコが気配を嗅ぎとり、木陰から現れる。
「足跡が新しい。あれは鹿、あれは――人ではないが、人にも近い」
ニニギは小さくうなずき、先を見つめた。
「境を越えるときは、まず名を名乗れと、祖母に教わった」
「……では、共に名乗りましょうか」と、ミヤビ。
三人の気配に、森がそっと応える気配があった。
第二節 境の獣
森の奥で出会ったのは、一頭の獣だった。
それは鹿のようでありながら、目が人に似ていた。
それは狼のようでありながら、言葉の代わりに舞いを返してきた。
ミヤビは静かに息を吸い、ゆるりと舞った。
神前の舞ではない。これは、誰にも教わらぬまま、体に宿った祈りの舞。
獣はその動きに首を傾げ、静かに遠ざかる。
サルタヒコは唸るように言った。
「獣にして神に近い。あれは“つくも”だ。山と人のはざまに棲むもの……人が忘れた祀りの名残」
ニニギはその後ろ姿を目で追いながら、そっと稲穂の束を地に置いた。
「争うのではなく、贈るものとして、こうしていこう」
第三節 交わりの試み
日が昇れば森の入り口で焚き火を焚き、日が落ちれば遠くの気配に向けて歌を捧げた。
ミヤビは舞いを踊りながら、目に見えぬものへ祈る。
それを見た子らは真似を始め、やがて大人たちも手を動かし、声を重ねるようになる。
サルタヒコは人々の輪から少し外れ、常に森の方角を見張っていた。
「見ておけ。森は気まぐれだ。たとえ和らいだとしても、それは一時のことかもしれぬ」
「でも、それでも」とミヤビは答える。
「誰かが、見えないものと向き合わなければ、祈りは届かない。ね、ニニギ様?」
「……ああ、そうだな。神としてではなく、人として向き合ってみるよ」
祈りは道を拓くのではなく、道を照らす光になるのかもしれないと、彼は思った。
第四節 目覚めぬものたち
ある夜、森に響く大きなうねりがあった。地が震え、獣たちが逃げ出す。
人々が怯え、声を潜めたとき、森の奥から声が響いた。
「……この先は、我が領」
それは声というにはあまりにも重く、耳ではなく骨に届いた。
ニニギはひとつ前に出た。
「我は天津神・ニニギノミコト。この地に生きる者の名において、祈りを捧げに参った」
しばしの沈黙。
ミヤビが続けて、歌を、そして舞を捧げる。
何かが森の奥で沈黙を破るように――だが、それは怒りでも好意でもなく、ただ、応じるという意志だった。
サルタヒコが小さく息を吐く。
「……眠っていたものが、ひとつ、目を開けた」
森は語らぬ。けれど、人が祈り、舞い、歌うとき――
その沈黙は、拒絶ではなく、問いかけであると気づく。
神と獣のはざまで、声なきものたちは問い続けている。
「おまえは、ここに在るべきか」と。
祈りとは、その問いに向き合う者の答えなのだ。
第四章
祟りと鎮め 〜忘れられたものの声〜
風が止み、雲は陽を裂き、地は叫びをあげた。
豊穣の約束は、誰の祈りに応え、誰の沈黙を越えて、叶うのか。
土の底に潜むもの。名を呼ばれぬまま忘れられたもの。
その声は今、静かに――されど確かに、揺れていた。
第一節:実りへの不安と声なき祈り
時は流れ、田の広がる里にも季節は巡った。
かつて耕された地は稲穂に覆われ、風が通れば波打つような金の海となっていた。しかし、その年は様子が違った。空は晴れていたが、風の向きが定まらず、穂は十分に実らない。稲の根が黒くなり、収穫前に倒れる田も多かった。
「何かが……違う。土地が、怒っているようだ」
そうつぶやいたのは、古くからこの地に暮らす年老いた女だった。彼女の言葉は巫のように重く、集落の者たちは不安を募らせた。
ミヤビは耳を澄ました。歌や舞では届かぬ声が、風の向こうから囁いていた。
ニニギは冷静に土地を調べ、水の流れや地の傾斜、過去の収穫記録を見直す。技術では答えきれぬ違和感――それを確かめるため、二人はこの地に伝わる古い祠を訪れることにした。
第二節:祠に眠るもの
苔むした小さな祠。誰も名を知らぬその神は、かつて土と作物を守る存在だったという。
「ここに、まだ祈りは残っています」
ミヤビはそう言って、そっと祠の前に膝をついた。名も知られぬ存在に向け、言葉を紡ぐ。
「あなたを忘れたのは、私たちです。
でも、ここにいます。今もこの土地に生きる者たちが。
もう一度、祈らせてください」
その声に応えるように、風が止まる。そして――
「……この地を耕すだけでは、足りぬ。
名を呼び、時を記せ。祟りは忘却より生まれる」
低く深い声が、祠の奥から響いた。
それは怒りでも恨みでもなかった。ただ、静かな訴え。忘れられた神の孤独だった。
第三節:忘れられた神との対話
サルタヒコが祠の側に現れた。
「この地には、名をもたぬ神が多くいる。
祟りとはな、忘れられたことの痛みだ」
彼は祠に手をかざし、地にひれ伏すように祈った。
「おぬしの名、今ここに記そう」
ミヤビはその祈りに合わせ、舞を捧げる。新たに編んだ唄には、その神の役割、かつての守り、今の願いが込められていた。
やがて、風が変わる。
「……我、名を得たり。“クグノカミ”と呼ばれしもの」
その声とともに、祠の奥から小さな光が現れ、田の方角へと飛び去った。
第四節:結びの祈りと秋の訪れ
稲はゆっくりと実を膨らませていった。
人々は再び収穫の喜びを味わい、歌が里に満ちていく。だが、今年から一つ、儀礼が加わった。小さな祠に、収穫前の「忘れられた神」への捧げ物と唄。
ニニギはその姿を見て静かに頷いた。
「人と神は、共にある。名も、声も、心もな」
ミヤビが笑って応えた。
「そして忘れぬことが、最大の祈り。ね、ニニギ様」
風が渡る。稲穂が揺れる。
その音に、クグノカミはきっと微笑んだだろう。
忘れられたものに祈りを。名を呼び、時を記し、語り継ぐこと。
神と人と大地は、共に在るために、声を交わしつづける。
――それが祟りを鎮め、実りを呼ぶ「まつり」となる。




