十一章 肥満漢の交渉と、署名の裏切り
ご都合主義、独自設定が多々あります。ゆるい気持ちでお楽しみください。
後頭部の鈍い痛みで、ザインは意識を取り戻した。自分がどこかのベッドに寝かされているのではなく、豪華な彫刻が施された硬い椅子に座らされていることに気づくのに、数秒かかった。手首には、ひやりと冷たい金属の感触。魔力を練ろうとしても、霧のように霧散していく。魔力封じの枷だ。
目の前には、巨大な影があった。椅子に深く腰掛け、東方の葉巻をくゆらせているグートマン卿。その両脇には、蛇のように冷たい笑みを浮かべるヨエルと、憎悪を煮えたぎらせた目でザインを睨みつける女暗殺者ウィルが立っている。
「さて、ザイン殿。頭はすっきりなさいましたかな?」
グートマン卿の声は、蜂蜜のように甘く、それでいて有無を言わせぬ威圧感をまとっていた。
「あなたのような有能な男を、無駄に傷つけたいとは思わん」グートマンは続けた。「あなたはプロだ。プロは、感情ではなく利益で動く。リリアナ嬢やアイラ嬢のような、素人の女たちに付き合うのはもうおやめなさい。彼女たちは、いずれあなたを裏切る。わたくしは違う。わたくしは、あなたに富と、揺るぎない地位を約束する」
「…そいつは、どうも」ザインは割れるような頭痛をこらえ、軽口を叩いた。「だが、俺は気ままな稼業が気に入ってるんでね。帝国の犬になる趣味はねえよ」
グートマンは、ザインの反抗的な態度に、心底楽しそうに微笑んだ。
「そうですかな。では、あなたの周りの方々はどうかな?」
彼は、ヨエルから受け取った羊皮紙を読み上げた。
「あなたの相棒、アステリア嬢は、現在『聖女の施し治療院』にて昏睡状態。そのパートナー、アイラ嬢は、昨夜あなたのギルドを出た後、貴族街の情報屋と接触。そして、あなたの忠実な助手、エルマ嬢は……北地区のパン屋の二階に一人暮らし。毎朝、焼きたてのパンを買って出勤するのが日課ですかな?」
ザインの表情から、血の気が引いた。
「…てめえ、エルマにまで…!」
「わたくしは、ただ事実を述べたまで」グートマンは葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。「しかし、その事実が、明日にはどう変わっているか。それは、あなたの協力次第ですな」
グートマンは、一枚の羊皮紙とペンをザインの前に置いた。
「あなたの助手のエルマ嬢に、手紙を書いてもらいたい」
その内容は、あまりに屈辱的なものだった。ザインがグートマンと手を組んだこと。アイラの調査を中止させること。そして、警備隊にいるリリアナは信用できないという偽の情報を、匿名で流させること。ザインの手で、彼の築いてきたものをすべて、無にさせるというのだ。
「そして、最後に」グートマンは言った。「あなたが本心から我々に協力する証として、あなた自身のサインを書きなさい。あなたの筆跡は、調査済みですぞ」
絶体絶命の状況。ザインは、震える手で(そう見せかけて)、ペンを受け取った。
彼は、グートマンに指示された通りの屈辱的な文章を、羊皮紙の上に書き連ねていく。そして、手紙の最後に、彼はごく自然に、しかし全ての意志を込めて、自身のサインを書き記した。
『――ザイン』
そのサインの最後の一文字、『ン』の最後の一画であるハネが、本来とはごく僅かに、しかし意図的に逆の方向へと払われていた。
グートマンは手紙を受け取ると、その内容を満足げに検分した。サインにも目を通すが、筆跡鑑定の専門家ではない彼に、その微細な違和感を看破することはできない。
「よろしい。あなたは賢明な男だ、ザイン殿。これで、我々は晴れて仲間ですな」
ザインは何も答えなかった。
ただ、椅子に縛られたまま、静かに目を閉じ、伝書鳩が飛び立っていく気配を感じていた。
エルマだけが、そのサインに込められた真の意味を理解する。
「俺は捕らわれた。手紙の内容はすべて嘘だ。緊急事態プロトコルを発動しろ」
ザインは盤上の駒を一つ失った。だが、ここからが本当のゲームの始まりだった。
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