9 永遠の別れ
「セロン…」
「はい?」
「気が…狂いそうだ…」
(ユアン様…)
運ばれてきた食事には殆ど手を付けず、ソファで横になっていたユアンが堪らず漏らした。
「やはり、帰さなかった方がよかったのでは…?」
「…どうかな。ただ、オレにできる事はあれくらいしかなかったのだ…母親の事も含めて、な」
「えぇ、分かっております」
愛するが故にしてあげたいと思う事が、結果、一番恐れている事に繋がると知っていても、そうするしかなかったユアンの気持ちは誰よりもセロンが分かっていた。そんなセロンの言葉に、ユアンはその一番恐れている言葉を口にした。
「戻って…来るだろうか…」
「そうであって欲しいと思います…」
「……………」
あの事件があった翌日、アルは自分の部屋から一歩も外に出てこなかった。
仕事場にはアルと他三名が無断欠勤。仲間が部屋に呼びに行っても誰一人として返事をする者はなく──他三名は既にクビになっていなかったのだが──何かあったのでは…と騒ぎ始めたころ、セロンから料理長のグラントにのみ説明がなされた。簡単な説明ではあったが事の重大さを理解するには十分なもので、グラントはアルをしばらく休ませる事を承諾し、それ以上の追及はしなかった。
事情を知っているユアン、セロン、グラントが心配して幾度となくアルの部屋に行ったが、ドアの前に置いておいた食事に手を付けるどころか、返事すらないため死んではいないかと本気で心配したほどだ。夜になり、堪りかねたセロンが 〝返事がなければ無理にでも部屋を開けますよ〟 と言えば、ややあってようやく、〝ちゃんと生きてるよ〟 と力なくも返事が返ってきたから、とりあえずはホッとしたのだった。
そんな日がいつまで続くのか…と心配しながら次の日を迎えると、アルはいつも通り厨房にいた。元気はないものの淡々と仕事をこなし、ユアンたちの食事も作って部屋に運んだ。けれど、いつものように彼らが食べ終わるまで部屋には残らず、食事を運ぶとさっさと仕事に戻って行ったのだ。
そんな日が一週間も続き、日に日に元気をなくしていくアルを心配していたユアンは、グラントからまともに食事をしてないと聞かされ、あるひとつの決断を下すことにした。それは、ユアンが一番恐れていた決断だった。
十日目の夜、食事を運び終え部屋を出て行こうとしたアルをユアンが呼び止めた。
「アル…」
「うん…?」
アルが振り向くか向かないかのうちに、ユアンが続ける。
「一度、家に帰るか?」
「……………!」
「ユアン様…!?」
驚いたのはセロンも同じだった。
「いつまで…というのはお前に任せる」
「ユアン様、それは──」
アルがユアンに好意を持った後ならともかく、今それをすれば戻ってくる可能性はゼロに近い。ユアンの気持ちは分からないでもないが、セロンはそれだけは…と止めようとした。──が、逆に 〝いいんだ〟 とユアンに手で止められてしまった。
「どうする?」
「…あ…ど、どうするって……そっちこそどーすんだよ…?」
「何がだ?」
「メシに決まってんだろ? 俺がメシ作んねーと、他のヤツが作ったメシも食わないって──」
「こんな時に、そんな約束でお前を縛りつけたりはしないさ」
「──── !」
「帰るなら、明日セロンに送ってもらえ。──セロン、頼んだぞ」
「……はい」
その決断により、アルは翌日から家に帰って行ったのだった。
〝気が狂いそうだ…〟
その言葉は、アルがいなくなってから十日……たった十日しかたっていない、ユアンの気持ちだった。
一方その頃、アルは一人お墓の前に座っていた。
父親の隣に建てられた新たな墓石には、母親の名前が刻まれている。その名前を指でなぞれば、石の冷たさが悲しみを増してアルの心を刺激した。
「…かあ…さん……」
名前を呼んでも返ってくる返事はなく、それが更に自分は一人なんだと実感させる。帰る家もなくなったアルは、どうしていいか分からず墓石にしがみつくようにして泣いた…。
それは十日前に遡る──
家に帰ってきたアルは母親の姿に愕然とした。もともと体の弱かった母親は、今やもっと悪い状況で寝込んでいたのだ。
「かあ…さん…? 母さん、どうしたんだよ!?」
慌てて駆け寄れば、アルの声に反応して母親がふっと目を開けた。自分を覗き込むアルを目にして、母親もまた驚いた。
「ま…ぁ、アル…どうしたの…!?」
「それはこっちの台詞だろ!? いったいどうしたって──」
「辞めさせられたの…?」
母親はアルの言葉を敢えて遮った。大事なのは自分の体の事より、アルの事だったからだ。
「もしかして逃げ出してきたんじゃ──」
「ち、違うって……ちょっと…休みを貰ったんだ…」
その言葉を聞いてようやく母親はホッとした笑みを漏らした。
「そう、よかった…」
「よく…ねーって…。俺がいなくなったから母さん無理してこうなったんだろ…? やっぱ俺、行かなかった方がよかったじゃんか!」
「そんなことないわ。これはただの寿命よ」
「寿命って…」
「お店は、あなたがいなくなった翌日から閉めたの。だから無理なんかしていない」
「え…?」
「これが寿命だったのよ」
母親はそう繰り返した。
無理をしてないのにここまで悪い状態になるのは何故なのか。分かりきっていたように 〝寿命だった〟 と言われれば、考えたくない事が脳裏をよぎりアルの声が震えた。
「…どういう…意味だよ…?」
そんなアルを見て、母親は落ち着かせるような優しい笑みを浮かべた。そして続ける。
「アル、ユアン様には会えた?」
「え…!?」
突然違う話になり、しかも母親の口からユアンの名前がでてきたから驚いた。先ほどの震えなど一気に吹き飛び消えてしまったほどだ。
「ユアン様に気に入ってもらえるといいわね」
「な、何でそんな話に……」
母親にとっては、気に入られればよくしてもらえる…という単純な意味だったのだろうが、愛の告白を受けているアルにとっては、耳まで熱くなるような言葉だった。
「だ、だいたい…そんなこと母さんが心配しなくても──」
〝大丈夫だって〟 と続けようとした所で、母親がフフフ…と笑った。
「そうよね。ユアン様は最初からあなたの事を気に入ってたものね」
「え…?」
「あれは、あなたが一歳の誕生日の時よ。朝からずっと泣いててお母さん困ってたの。お腹が空いているわけでもないし、眠いわけでもない。オムツだって替えたばかりなのに、何をやっても泣き止まなくてね…。そんな時、男の子がやってきたの。〝どうしたんだ?〟 ってあなたを覗き込んだら、あなた、その子の顔を見た途端、泣き止んだのよ。しかも、その子が抱いたら、今までの事がウソのように笑ったの。とても幸せそうな安心した顔でね。あの時は驚いたけど、そのあとに言った男の子の一言にはもっと驚いたわ」
そう言うと、母親はその時の事を思い出すようにクスクスと笑った。
「 〝この子が欲しい〟 ですって」
「……………!」
「でも、一緒に来ていたもう一人の男の子に 〝人間の子供は犬や猫とは違いますよ〟 って言われてね、渋々 納得して帰って行ったのよ」
「まさかそれって……」
「えぇ、ユアン様だったの」
「……………!」
「立場は隠していたみたいだけどね、あなたを抱っこする時、襟元に王家の紋章が見えたから…。年齢からして、ユアン様だと分かったのよ」
「もしかして…それでシェフ募集に応募したのか、母さん…?」
「それもあるわね」
「それも…?」
母親は静かに頷いた。
「あなたを…父さんが遺したこの店に縛り付けたくなかったのよ」
「なん…で…? 俺…料理すんの好きだし…店が嫌だなんて思ったこと──」
「えぇ、もちろんそれは知ってるわ」
「だったら──」
「でも、本当はやりたいことがあったでしょう?」
「……………!」
「母さん知ってたのよ。あなたが本当にやりたかったのは、自分の腕を試す事だって。どこまで通用するか挑戦したいと思う気持ちは、男の子なら当然だもの。シェフ募集の事だって、全く興味がなかったわけじゃないはずよ。応募して受かったら、この店を辞めなきゃいけなくなる。あなたは優しい子だから、母さんを置いてくことはできないって思って…だから最初から考えないようにしていただけなのよ」
「母…さん…」
言われて、アルは初めて自分の気持ちに気が付いた。今更だが、母親の言う通りだったのだ。無断で応募したとはいえ、手遅れにならなかったのは母親のお蔭というべきであろう。
「父さんが死んでから、あなたは母さんの為にこの店を守ってくれた。もう、それだけで十分なのよ。だけど母さんが死んだら、余計にあなたをこの店に縛り付ける事になる…。だから、早くあなたを自由にさせてあげたかったのよ、アル」
「死んでって…母さん何言って──」
「去年、お医者様に言われたの…あと数ヶ月の命だって」
「────ッ!!」
「そんな時にシェフ募集の話が出て…母さん、〝これだ!〟 って思ったわ。母親が言うのもなんだけど、あなたの腕は絶対に王家でも通用するって思ってたもの。それに、ユアン様がいるんですからね」
「そんなの…関係ねぇって……」
「あら、そんなことないわよ。あなたとユアン様には、神様がもたらしてくれた素晴らしい 〝縁〟 があるんだから」
「縁…?」
「あの日ユアン様に抱かれて笑ったのもそうだけど…その縁は、あなたが生まれた時からあったのよ」
「……………?」
母親はその 〝縁 〟 を嬉しそうに口にした。
「あなたとユアン様、生まれた日が同じなの」
「……………!」
「どう、素晴らしいでしょう? もちろん、奇跡って言われるほどじゃない事は分かってるわ。でもね、ユアン様の顔を見て笑った時、感じたのよ。あなたの笑顔はユアン様が守ってくれるって」
「…んな…こと……」
「ふふ…そんなこと信じられないって顔ね?」
「あ、当たり前だろ…そんな…ただの偶然と勘で言われても……」
「そうよね…。でもきっと分かる日が来るわ…頭ではなく、ここで…ね」
そう言うと、母親はアルの心臓を指差した。
母親が言ったことはもちろん、死期が近いこともアルは信じられなかった。が、それから間もなくして母親は深い昏睡状態に陥り、数日後には息を引き取ったのだった。
(母さんのバカやろう……店まで全部処分して……俺の帰る場所がねーじゃねーか…)
それはきっと母親の愛情。本気でアルをユアンに任し、信じていたからだろう。
家も店も全部処分する段取りをしていたと知り、アルはその 〝本気〟 を思い知ったのだった。
(どう…すりゃいいんだよ、これから…。もう、王家には戻らないつもりだったんだぞ…! 戻らない…つもりだったのに……)
それでも現実として帰る場所がそこしかないからか、それとも十日前の母親の話を聞いたからか、気付けばちらつく雪の中アルは歩き出していた──
日が沈み、屋敷の外灯に明かりが灯る頃、ユアンの感情は限界に達していた。
「セロン…いっそのことオレを殺してくれ…」
「ユアン様──!?」
「あいつのいない日々は辛すぎる…。たった十日だと笑うだろうが、今は一日とて我慢できそうにない…。ああするしかなかったとはいえ、後悔するばかりで…そんな自分にも腹が立って仕方がないのだ…」
(ユアン様…)
ユアンの言葉にセロンは何も言えなかった。アルが戻ってくる保障があれば何とでも言えるのだが、保障どころか可能性はゼロに近いのだ。ユアンの気持ちが分かるからこそ、セロンは掛ける言葉が見つからなかった。
(アル…お願いです、戻ってきてください。ユアン様にはあなたが必要なのですよ…)
心の中でそう願うことしかできなかったセロンが、何気に窓の外に目をやった時だった。
昼から降り始めた雪は今やかなり吹雪いていて、噴水が吹雪く雪にかき消されそうになっている中、微かだが人影が見えたのだ。
(ま…さか…!?)
慌てて窓に近付き覗き込めば、その慌てぶりにユアンも何事かと覗き込んだ。──と次の瞬間、
(アル──!!)
セロンが確信するより早く、ユアンが部屋を飛び出していた。
「…ア…ル…?」
噴水の前で佇むアルの背中を見つめ、アルの名前を呼んだその声は、様々な感情が溢れ震えていた。
その声に、アルがゆっくりと振り返った。
「アル…戻ってきたのか…?」
「……帰るとこ…なくなっちまった……」
「………?」
「死んだんだ、母さん…」
「────!!」
「…もうすぐ死ぬって分かってて…俺の事も…店の事もぜ~んぶ綺麗サッパリ処分しやがった……。はは…戻ってくるつもりなんかなかったのによ……帰るとこなくなっちまって……」
「いつ…亡くなったのだ?」
「…一昨日……今日の午前中に葬儀済ませて…そしたらもう、その日から店も家も人に渡ることになってたんだ……。用意周到にも程があるだろ……?」
そう言って力なく笑ったが、それは寂しさで溢れていた。
そんなアルを見て、ユアンは溜まらず抱き締めてしまった。冷え切った体と、傍にいてやれなかった悔しさで、その腕にも力が入る。けれど、アルはいつものような抵抗は見せなかった。そんな元気がないというのはもちろん、抱き締められた感覚やユアンの鼓動に懐かしさを感じた理由を知ったからだ。
「母さんに聞いた…」
「うん…?」
「一歳の時、ぜんぜん泣き止まなかった俺がユアンに抱かれた途端、笑ったって…」
「…あぁ、ものすごく可愛かったぞ」
「…覚えて…たのか…?」
「その時の子供がお前だと知ったのは最近だがな」
「………ふ…ん…」
「アル、ここは、お前の母親が用意してくれた、〝お前の帰る場所〟 だ。いつでもここに戻ってこい。そしていつまでもここにいろ。──じゃないと、次に死ぬのはオレだ」
その言葉に、アルは思わず笑ってしまった。
「…はは…すんげー告白…」
「冗談ではないぞ?」
「……そう…だろな…」
「あぁ」
「……………」
寒さと抱かれている心地良さからか、アルは徐々に意識が薄れてきた。
「ユアン…」
「なんだ?」
「…ヤルなら…今だぞ…? 俺…体がかじかんで抵抗できねーし……何か…今なら何されてもいいや…って思ってるし……」
半分は面白そうに、半分は本当にそう思っているような口調だった。
「……なぁ…聞い…てんのか…?」
「あぁ…。だが二度と後悔はしたくないからな」
「は…はは……」
「──それよりも存分に泣け、アル」
「……………!」
「オレの前で我慢などするな」
「……べ、別に…もう十分泣いたから…涙なんて──」
〝出ねーよ〟
そう続けようとしたアルの言葉を、ユアンはそっと頭を撫でて遮った。
いいから泣け…と何度も撫でるその手の優しさと抱き締められている温もりは、アルに、昼間抱きついた石の冷たさを忘れさせていく。
正直、涙は出尽くしたと思っていた。あまりの寒さに思考能力さえ麻痺していたはずなのに、自分の知らないどこかで凍っていた涙が、ユアンの温もりに触れ溶け出したのか、途端にアルの目から涙が溢れ出してきたのだ。
「……っう……く……」
(…なん…で…こんな素直に反応してんだよ…俺は……なんで……)
そうは思っても一度溢れ出した涙は止まらず、ぎゅっと抱き締められる感覚が妙に心地良くて、更に涙を溢れさせていった。
(…はは…お…かしいよな…俺……ユアンは男だから……男を好きなわけじゃねーのに…なんか今は……この温もりが嬉しくて、ずっとこうしていたいって思う……)
おかしいと思いつつも、アルは 〝きっと今だけだ…〟 と自分に言い聞かせ、ユアンの胸の中に顔を埋めて泣き続けたのだった。