6 よからぬ影 ※
アルがユアンたちに夕食を作るようになって早一週間。この日も公務が長引いた為、ユアンの部屋で遅めの夕食を摂っていた。
出窓に座って外を眺めていたアルは、食べ終わった食器の音を聞いて振り返った。
「美味しかったですよ、アル」
第一声がそんなセロンの言葉で、アルはホッと胸を撫で下ろした。
「そ、そうか? そりゃよかった。今日のは初めて作ったやつだから、ちょっと心配だったんだ」
「ほぉ、天才のお前がか?」
「……………!」
続いたのはユアンだった。
「ははは、そんな 〝聞いてたのか〟 って顔するな。──あぁ、もちろん聞いてたさ」
「……………!!」
「安心しろ。お前が作るものなら何でも美味いから」
「あん……ユ、ユアンが言うと素直に喜べねぇんだけど…?」
アルは、〝あんた〟 と言いそうになり、慌てて 〝ユアン〟 と言い直した。
「失礼なヤツだな。少なくともオレはお前に対して素直だぞ?」
「だからだっ!」
こんなからかい半分の会話も日に日に増して、ユアンはそんな時間を楽しんでいた。
「んじゃ、オレは片付けてくるからな」
「まだいいだろう? もう少し食後の会話を楽しませてくれ」
「食後の会話って……」
「では、紅茶でも入れましょうか?」
「あぁ、それがいいな。セロン、頼む」
「はい。では隣で入れてきますから…アル、ユアン様をお願いしますよ」
「え…? あ…いや…お願いしますって──」
〝入れるなら俺が入れてくるから〟
そう続けようとしたが、セロンはニッコリと笑って自分の部屋に戻ってしまった。扉は開いているが、ユアンと二人きりになるのは勘弁して欲しい…。
(セロンが唯一の壁なのによ…)
気まずそうにその場で突っ立っていると、ユアンが誘うような目を向けた。
「座らんのか?」
「え…あぁ…す、座るけどよ…」
ドキドキしながら向かいのソファに座れば、
「ここも空いているんだがな?」
──と自分の隣を勧めた。
「べ、別にどこでもいいだろ…」
「オレはここに座ってもらいたい」
「お、俺はここがいいんだ!」
両手でソファの肘掛をガシッと掴んでそう言うと、面白そうに、だけど少し寂しそうに溜め息をついてアルを見つめた。
その視線はいつぞやの時と同じくとても優しげなもので、アルの心臓がまた妙な音を奏でる。
(み、見るんじゃねーよ……ってか、見ないでくれ、そんな目で……)
顔が熱くなってくるのを感じ、アルはそれを悟られないようジッと俯いていた。
それからしばらくして、セロンの声が扉の向こうから聞こえてきた。
「ユアン様、お休みになるならシャワーを浴びてからですよ?」
そんな言葉にふと顔を上げて見れば、
「…あぁ…」
目を閉じたユアンが返事をしたのと同時だった。
さすがセロン。静かになったのは寝に入ったと察したようで、そんな声を掛けたのだ。しかし、〝あぁ〟 という返事もかなり曖昧なもので……。
「ユアン様」
「……………」
再度 名前を呼べば、返事すらしなくなっていた。
どうせならこのまま眠って欲しいと思うアルだが、ソファで寝て風邪でも引かれたら困りもの。故に、アルもユアンを起こしにかかった。
「おい、風邪引くぞ?」
「……ん……」
「なぁ、起きろって…」
「……………」
「おい、ユア──」
「アル…」
突然、肩を揺らしていた手を掴まれ、アルの心臓がドキリと鳴った。
「な、何だよ…?」
「お前も入れ」
「は…?」
「お前と一緒なら今すぐ入ってやる」
「な、なに言って……」
「男同士だ、何も問題ないだろう?」
(い、や…大有りだろ……)
好意がなければ問題ない誘いに、アルは心の中でそう突っ込んだ。
「着替えならオレのを貸してやるぞ」
「いらねーって…。ってか、俺はまだ仕事が残ってんだよ」
「そんなものは明日にでも回せ」
「できるかっ。洗いもんが残ってたら怒られんのは俺なんだからな!」
「なら明日は休ませるよう命じてやるから、ゆっくりすればいい」
「あ、あのなぁ…これ以上特別扱いされたら俺は──」
そのあとの言葉を思わず言ってしまいそうになったが、ちょうどセロンが紅茶を持って現れたため、反射的に飲み込んだ。
「なんだ、特別扱いされたらオレに惚れるとでもいうのか? だったらいくらでも──」
「ばっ…そんなんじゃねーよ! ってか、セロンも何とか言ってくれって…」
「私はユアン様がシャワーを浴びてくれさえすればいいので…」
「て、てめぇ…」
冗談には聞こえないその言葉にアルの顔が引きつれば、それを見てセロンがクスクスと笑った。
「冗談ですよ、アル。──さぁ ユアン様、急いても後悔するだけですよ?」
そんなセロンの一言が、ふとユアンにある言葉を思い出させた。
〝時に、欲求は満たされた途端 後悔に変わる…〟
(あぁそうか…あれはセロンの言葉だったな…。思春期に入るか入らないかのオレに、性を目覚めさせたセロンが、直後にひどく後悔して漏らした言葉だ…)
数週間前、アルに対して抱いたその想いがセロンと同じものだと改めて思い返せば、掴んでいたユアンの手が自然と緩んだ。
「……そうだな。仕方ない、今日はこの辺で引いておくか…」
(できれば、ずっと引いててくれ…)
独り言のように呟いたユアンに、アルは心の中でそう願った。
「──だが、まだ帰るなよ?」
「だぁからっ、俺にはまだ仕事が残ってんだって言ってんだろ?」
「なら、オレがシャワーを浴びてる間に済ませて戻ってこい。出てきてお前がいなかったら、今日はここに泊まってもらうからな」
「なん──」
「あぁ…でもオレとしては、戻ってこない方がいいのか?」
いいこと思いついた…とでもいうように言い残すと、楽しそうにシャワールームに消えて行った。
「…くっ…ぜ、ぜってぇ、戻ってきてやるからな…」
閉ざされたシャワールームの扉に向かって放ったアルの返答に、密かに笑ったのはもちろんセロン。
(ユアン様の思惑通りだと気付きもせずに……)
ガチャガチャと忙しそうに食器をまとめると、アルはさっさと部屋を出て行ってしまった。
そんな部屋にひとり残されたセロンは、
(せめて、紅茶を飲んでから行って欲しかったですね、二人とも…)
──と、ソファに座って小さな溜め息をついたのだった。
それからしばらくして、音もなくドアが開いたかと思うと、伺うように顔を覗かせてからアルが入ってきた。部屋にセロンしかいないことを確かめると、ホッとした笑みを浮かべる。
「よかったぁ、間に合ったみたいだな」
「えぇ。今 髪を乾かしているところです」
「そっか…」
良かった…と軽い足取りで窓際に向かうと、ユアンたちが食事をしている時と同じように、窓の外を眺めた。実は、そこから見える噴水がずっと気になっていたのだ。
「またあの噴水ですか?」
そっと隣に並んだセロンが、噴水を眺めながら静かに聞いた。
「あの真ん中の噴水って何かあるのか? 昼間 見にいったら、コインがいっぱい入ってたぞ?」
「あぁ…あれは特別な噴水なんですよ」
「特別…?」
「えぇ。三つある噴水のうち、両脇の噴水が凍ってしまうほどの寒さでも、あの真ん中の噴水だけは凍らないのです。おそらく地下から湧き上がる水のせいなんでしょうが、神が宿っているから…といういわれもあって、神聖なものとして扱われているのですよ」
「ふ~ん…」
「誰にも見つからずコインを投げて願い事をすれば、その願い事が叶うと言われているのです。王族の方は結婚されるとあそこで永遠の愛を誓うんですよ」
「へ~ぇ…」
(だったら俺も、早く家に帰れるよう願ってみようかな…)
願いが叶うというのを百パーセント信じるわけではないが、ユアンに気に入られた今、追い出される計画はほぼなくなった。ならばそんな可能性さえ試したくもなるというものだろう。
そんな思いで外を眺めていたら、カチャ…とシャワールームの扉が開く音が聞こえた。ほぼ反射的に隣にいたセロンがスッと離れたと思ったら、次いでいきなりユアンに後ろから抱き締められたから驚いた。
「ぅわ…な、何すん──」
「何も。ただ抱き締めてるだけだ」
「……………!」
風呂上りのいい香りが緊張したアルの体を包み込み、ハグするのと変わらん…とでも言いたげなその口調に、アルは反論の言葉さえ思い浮かんでこなかった。
「アル、いつかあの噴水の前で永遠の愛を誓おうではないか」
「は…?」
「そしたら、お前はもうオレの物だ」
「い、いや…俺は…」
「そのままベッドで愛し合い、朝を迎える…。起きた時に愛しい者が傍にいるというのは幸せなものだぞ」
「知るかっ…」
「そんな日がいつ来るのか──」
「来ねぇ…ぜってぇ、来ねぇからっ…!」
「そう言うな、アル──」
「う、うだぁ~~~!! 来ねぇったら来ねぇんだよ。一人勝手に妄想の世界に入るなっ!!」
耳元で囁かれているのはもちろん、ふわりと漂うシャンプーの香りとどこかを刺激するようなユアンの声に、アルはたまらなくなってその腕を払いのけた。
「もっ、帰るぞ! 間に合ったんだからいいだろ!」
そう言うと、ユアンの返事も聞かずに出て行ってしまった。小さな息を吐き出し、ベッドに入ったユアンが出て行った扉を見つめ寂しそうに呟く。
「あいつが…オレの腕の中から逃げていかない日はいつ来るのだろうな…?」
「時間はかかっても、必ずその日は来ますよ、ユアン様」
「時間はかかっても…か。待つ身は堪えるものだ…」
(ユアン様…)
素直になっているとはいえ、アルへの想いはまだ抑えている部分が多い。それは公務で気持ちを抑える事より辛い事で……それ以上の言葉をかけることができなかったセロンが、敢えて仕事の話に変えた。
「ユアン様、明日のスケジュールの確認ですが──」
寝る前の最後の仕事として手帳を開いて振り向けば、ユアンは既に気持ちよさそうな寝息を立てていた。
(明日は早いですからね…)
仕方ない、と手帳をしまい布団を掛けてあげたところで、ふとアルに言い忘れていた事があったと思い出した。
明日、誰かに伝言してもいいのだろうが、今 追いかければ間に合う為、セロンは直接伝える事にした。
アルの部屋に向かう途中、ローカを曲がった所で、何か思いつめたように壁にもたれているアルを目にして足が止まった。
(アル…?)
どうしたのかと近づこうとしたら、不意にどこからともなく男の声が聞こえた。
「どう思う、アルのやつ?」
「あぁ、ユアン様に取り入ってるらしいな」
「いったい、どうやって近づいたんだ…?」
「さぁな。けど何とかしねーと、ユアン様に気に入られでもしたら──」
「あぁ。オレらだって王家の食事に携われるようになるまで何年も掛かったんだ。あんな新人に抜かされるなんてごめんだぜ?」
「そりゃ、オレも同じさ」
しばらくしてそんな男たちの会話が聞こえなくなると、ようやくアルが動き出した。重い足取りで去っていく後姿を見つめていたセロンだが、その脳裏につい先ほど言いかけたアルの言葉が横切った。
〝特別扱いされたら俺は──〟
(…やはり、そういうことでしたか……)
そう思う輩が出てきてもおかしくない頃だと思っていたセロンは、アルに伝えようとした事を胸にしまい、そのまま自分の部屋に戻っていったのだった。