3 夜中の出会い ※
その日、公務で出掛けていたユアン・ウィンフィールドが帰ってきたのは夜の九時を回ったところだった。
「お帰りなさいませ、ユアン様」
「…あぁ」
出迎えたセロンがユアンのコートを預かると、それまで仕えていた者達が軽く頭を下げ下がっていった。
セロンがいれば全てを任せられる。護衛や付き人、世話係…等々、何人も従えるのはユアンも好きではなく、故にセロンがいる時は他の者は下がるというのが、暗黙の了解のようになっていたのだ。
「いかがでしたか、公務は?」
部屋に入るなりソファに倒れこんだユアンに、セロンがいつもの質問をした。その質問に、セロンが両目を閉じたまま大きな溜め息をつく。
「…相変わらずオレには向かん仕事だ」
それもまたいつもの返事。けれど、公務が失敗したという意味ではない。それどころか全てうまくいっていて、父親の現国王も彼に全幅の信頼を置いているのだ。
セロンがそんなユアンを気の毒だと思うのは、その性格を知ってのこと。
「お疲れ様です。なにぶん、建前ばかりの世界ですからね」
「全くだ…」
そう言うと再び重い溜め息を付き、そのまま一分でも黙ってしまえば寝てしまいそうな雰囲気に、セロンが敢えて先を勧める。
「ユアン様?」
「…あぁ?」
「お食事になさいますか、それとも先にお風呂に?」
「……………」
(できるなら、〝お休みになりますか?〟 と聞いて欲しいんだがな……)
そう思いつつも、決してその選択肢を出さない事も十分に分かっていた。ただ、
(まぁでも…さっきからアレも気になるしな…)
──と思うこともあり、ユアンは仕方なくソファから起き上がった。
「お前も、食事はまだなんだろう?」
「はい。御一緒に…と思っていましたので」
それは、一人での食事は可哀想だというセロンの優しさでもあり、ユアンに食事をさせる為の計画でもあった。
疲れて帰ってくると着替えはおろか、お風呂も食事もせずに寝てしまうユアン。体の事を気遣い、とりあえず食事だけでも…と考えた結果、食べずに待っているほうが──仕方なくでも──ユアンが食事をしてくれるという結論に至ったのだ。故に何度 〝先に食べていろ〟 と言われても、セロンは首を縦に振らなかった。まぁ…これもまた、ユアンの心根の優しさを知ってのことなのだが…。
「では、食事にしよう」
「はい」
そんないつもの返事に、セロンは満足げに微笑んだ。そして電話で食事を持ってくるよう指示すると、しばらくして料理長のグラントが出来上がったばかりの食事を運んできた。銀色の丸いフタを開けながら次々とテーブルに並べていく料理を、最後のデザートまで確かめたところでユアンが眉を寄せた。
「グラント」
「はい?」
「今日の料理はこれだけか?」
「はい、さようですが」
「……………」
(ではあの香りはどこから…?)
目の前の料理から漂ってくる香りはもちろん、想像とは全く違う料理内容に、ユアンは少々ガッカリした。
その様子に、グラントが不安げに尋ねる。
「あの…何かお気に召しませんでしたでしょうか?」
「うん? あぁ…いや……」
想像とは違ったものの、いつもの事ながら並べられた料理はどれも素晴らしく文句のつけようのないものばかり。ユアンは、もう一度 首を横に振った。
「いや、何でもない。──下がっていいぞ」
「はい…」
そう言われ、どこか納得いかなそうなユアンの表情に不安を残しながらも、グラントは 〝失礼致します〟 と一礼して下がっていった。
それから数時間後──
誰もいない厨房では、アルが一人ブツブツと文句をたれながら鍋の中をかき混ぜていた。
初めて作ったまかない料理が思ったより不評で、更には翌日分の料理──途中段階──を味見した料理長にダメ出しされたのが、その怒りの理由だった。
「──ったく、何が貧乏臭い味だ!? 高級な物がイコール美味いモンだと思うなよ!? 安くたって美味いモンはいっぱいあるし、値段なんてものは貴重ってだけで跳ね上がるんだからな。あってないような価値じゃねーか!」
怒り心頭でもかき混ぜる手つきは丁寧で、何度目かの味見をすれば、その時ばかりは顔もほころぶ。
「うんまい! やっぱ俺って天才だな、うん」
火を止めて、今度は洗い終わった食器の後片付けを始めた。もちろん、まだまだ言い足りない愚痴をこぼしながら。
「だいたい、まだ出来上がってないからって、完成した時の味を想像できねーとは 〝一流のシェフ〟 が聞いて呆れるぜ! しかも食えるとこまで捨てやがってよ…贅沢にも程がある──ってのわぁっ!!」
ふと振り返った瞬間、アルは驚きのあまり持っていた食器を落としそうになった。
こんな時間に、しかもついさっきまでは誰もいなかったのに、銀髪で髪の長い男が厨房の扉に寄りかかってこっちを見ていたからだ。
「ビ、ビビ…ビックリしたぁ…」
「随分、ご立腹だな。何をそんなに怒っているのだ?」
「べ、別に何でも…」
そんなこと言えるわけがない。王家に仕える者が、たとえシェフに対する事であろうと、その悪口を言ってました、とは。
(──ってか、誰だこいつは? みんな寝てんのに、一人歩き回って……警護してる格好でもなさそうだし…しかも、ここは厨房だぞ? 通り過ぎるならまだしも立ち止まって……って、あれ…もしかして……)
アルは、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「…ハ、ハラ、減ってんのか…もしかして?」
「…あ?」
少々意外な質問だったのか不思議な顔をしたが、男は 〝ハラ〟 という言葉に、反射的にお腹に手を当てた。実際は空いてなかったが、思わず口をついて出てきたのは、
「あぁ、まぁな…」
──という返事だった。
「そうか…。けど…もう何にも残ってねーんだよな…」
「それは何だ?」
ユアンが、ずっと気になっているものがおそらくそれだと思われる鍋を顎でしゃくった。
「ん? あぁ、これか? これは、俺が作ったやつだけど…やめた方がいいぞ?」
「なぜだ?」
「なぜって…みんな貧乏臭い味だって言うからよ…」
「つまり、マズイという事か?」
「まぁ…ここの人間に限って、だろうけどな」
「…そうか。なら、それをもらおう」
「は…何で…?」
「お前はマズイと思わないのだろう?」
「あ、当たり前だろ、俺が作ったんだから」
「なら問題ない。よそってくれ」
「い…いいけど…よそったからには全部食えよな?」
「あぁ」
その返事を確認したアルは、片付けようとしていた器に鍋の料理をよそい、刻んだパセリを散らしてから、適当な場所に腰掛けた男の目の前に置いた。
「我が家特製、具だくさんトマトスープだ。──っていっても、こんなに具だくさんなのは初めてなんだけどな」
アルの 〝我が家特製〟 という言葉に、男はようやく 〝あぁ…〟 と思い出した。
(そういえば、今日は庶民の新人シェフが来るとか言っていたな…。セロンが直々に選んだようだが……そうか、この男が…)
男は自分の目の前に 〝ほら〟 とスプーンを差し出す男を興味深そうに眺め、ゆっくりとそれを受け取ると、再びスープに視線を落とした。
見た目の色はもちろん、立ち昇る湯気の香りが男の食欲をそそる。空腹でもないのに食べたいと思わせたのは、それが夕食時からずっと気になっていた香りだったからだが、その香りだけで心が落ち着くように感じたからでもあった。
十分に香りを楽しんでから、男はスープをひとくち口にした。
色んな野菜の甘みや旨みが、トマトの酸味とうまく混ざり合って口の中で広がる。散らしたパセリの独特の香りが鼻孔を楽しませると、温かいというだけはない何かが体の中に行き渡っていくような気がした。心が休まり、物足らない何かが埋まっていくような、そんな感じだろうか。
一口食べるごとに、寒々とした心が満たされていくようで、自然と男の表情にも柔らかさが出てくる。
(なるほど…さすがセロンだ。オレが何を求めているのか、何を必要としているのか…オレ自身があやふやだった答えを、あいつは知ってたってことか…)
〝きっと、専属シェフにさせたくなりますよ〟
そんなセロンの言葉を思い出し、同時に、男は 〝是が非でも〟 と強く思うようになった。
「な、なぁ…どうなんだよ…?」
〝美味い〟 とも 〝マズイ〟 とも返ってこない為、アルが少々不安げに尋ねた。
「うん? あぁ…初めて食べる味だ」
「そりゃまぁ…ここでメシ食ってるモンにしたら初めての味だろうけど……って、そうじゃなくて、俺が聞きたいのは美味いかどうかってことだよ。なぁ、どうなんだ?」
「そうだな…」
男はそう言ったまま再び黙ってしまった。
「お…い、黙るなって…。美味いのかマズイのか、どっちだよ!?」
とにかく一言でいいから感想を言え、と迫れば…
「他の者には食べさせたくない味だ」
──と、スプーンを置いてそう言った。
「…そ、そりゃどういう意味だよ?」
腹を立ててもおかしくない言葉にも拘らず、アルは言っている意味が理解できずに目をぱちくりさせた。そんなアルをどこか面白そうに眺めると、男はすっと立ち上がり厨房を出て行ってしまった。
〝明日またくる〟
──とだけ言い残して。
更にわけが分からないのはその場に残されたアルで、暫くは言葉とは裏腹な、空になった器を眺めることしか出来なかった…。
(そりゃ…よそったからには全部食えとは言ったけどよ…)
男が部屋に戻ると、こうなる事を読んでいたかのようにセロンが隣の部屋から現れた。
「あの香りが気になって眠れなかったようですね?」
「あぁ…」
「それで…いかがでしたか、ユアン様?」
「…そうだな、心臓と胃袋を掴まれた」
そんな彼らしい 〝惚れた〟 という言葉に、セロンがクスリと笑った。