2 セロン・エルウェス
一通り説明を受けたあと、〝ここがあなたの部屋です〟 と案内された時は、既に昼の三時を過ぎていた。
「さて…何か質問はありますか?」
ぼんやりとした頭で聞いていたアルは 〝うん…?〟 と顔を上げたものの、すぐには返事ができないでいた。説明があまりにも多すぎて、今や彼の頭はパンク寸前。何やら眩暈までしてきて、質問どころか何が分からないかさえ分からない状態だったのだ。
新人が入るたび、みな同じ状態になるのを見てきた男は、そんなアルの状態をすぐに理解した。
「今日 説明した事はすぐに覚える必要はありません。日が経てばおのずと覚えていくものですからね。とりあえず今は、自分の仕事のことだけ覚えればそれでいいですよ?」
そう言われ、少しだけアルの止まっていた思考が動き出した。
(そう…だよな…。なにも全部覚える必要なんかないんだ。どうせすぐに追い出されるだろうし、俺もそのつもりだったんだしな…)
改めてそう思い直せば、途端に忘れていた感覚がよみがえり、それは男の耳にも 〝虫の音〟 として届いた。
──ハラの虫だ。
〝うわっ…〟 と慌ててお腹を押さえるアルの姿に、男が小さく笑った。
「そういえば朝から何も食べていませんでしたね。私も昼食はまだですから…どうです、私と一緒に遅がけの食事でも?」
「あ…あぁ、それ賛成!」
「では、ここに用意させましょう」
「え…けど──」
シェフとして雇われたのなら、自分が作るべきだろう…そう思ったのだが。
「いいんですよ。あなたの仕事は今日の夜から…それも、まずは他のシェフたちの食事を作って、料理長に認められることですからね。それに…」
「それに…?」
「シェフとして、王家のシェフの腕がどれほどのものか…興味があるのではないですか?」
「……………」
(よ、読まれてる…)
男はその言葉さえアルの表情から読んだように、ふっと口元を緩ませた。そして二人分の食事を持ってくるよう厨房に電話を入れた。
しばらくして運ばれてきた料理はどれも彩りよく盛り付けられていて、見た目だけで食欲をそそられるものばかりだった。野菜の飾り切りなどは、庶民のアルには到底できない贅沢な切り方だ。
一口食べれば、さすが一流のシェフが作ったもの。食材はもちろん、その味付けも今までに食べた事のない美味しさだった。正直、自分の腕も悪くないと思っていたが、なぜ王家のシェフに選ばれたのか……数時間前に首を傾げた 〝選考基準〟 がまたもや頭をもたげてきたのだった。
空腹もある程度満たされると、さっきまであった眩暈はなくなった。どうやら眩暈の原因は、〝多量の説明〟 ではなく、単にお腹が空き過ぎただけだったようだ。
(なんだ、それだけか…)
覚える事が多すぎて、今後もこんな眩暈が起きたら嫌だ…と思っていたが、そうでないと分かってアルは安心した。と同時に、肝心な事を聞いてないと思い出した。
「ところでさ、あんたは誰なんだ?」
その質問は意外だったのか、一瞬 不思議な顔をした男だったが、すぐに 〝あぁ…〟 と理解した。
「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね。──私はセロン・エルウェス、次期国王の側近です」
「…………!」
(じ…次期国王の……!? メチャメチャ上のほうじゃねーかよ…。なんで庶民のシェフ相手にこんな位の高いやつが…)
たとえ王家関係者でも言葉遣いは変えない。そう思ってきたが、まさかここまで位の高い相手だったとは…。
追い出されるには都合がいいと思う一方で、やべぇな…と思ってしまうのはそれだけアルが 〝ワル〟 にはなりきれないという証拠で…何て返していいか分からず戸惑っていると、
「ひょっとして…気にしているのですか、今までの言葉遣いを?」
まるで心を読む力があるのではないかと思うほどの言葉に、アルは思わず胸の辺りを隠すように手を当ててしまった。そんな態度に、またセロンが小さく笑う。
セロンにしてみれば、アルの態度や表情がバカ正直で分かりやすいだけなのだが。
「別に気にする事はありませんよ。あなたの場合はそのままで…今のあなたのままでいいのです。でもどうしても気になるようでしたら……そうですね、 〝セロン様〟 や 〝セロン殿〟 と呼んでもらっても構いませんが?」
それは明らかにからかっている口調で、それまで言葉遣いを直そうかどうか迷っていたアルに、その思いを吹き飛ばさせた。
「…べ、別に気にしてなんか…お、俺は…あんたの事は 〝あんた〟 って呼ぶし、次期国王の側近でもなんでも、名前で呼ぶ時はセ、セロン…って呼ぶから…失礼だとか、悪いとか…そんなこと絶対思わないからな!」
「いいでしょう。その代わり、そう呼ぶのは次期国王と私だけの時にしてください。他の者の前では決して使わぬ事、いいですね?」
「お、おぅ…分かった…」
(──って、何でそれが許されるんだよ?)
何だかかなり特別扱いされているようで気味が悪いが、それを突っ込んで、〝ならば言葉遣いを直せ〟 と言われるのもシャクに障る為、アルは敢えてその不可思議な疑問を呑み込むことにした。