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第六十二話 紫髪の少女、風を読む


 潮風が頬を撫でる。

 夏を思わせる青空の下、港町セイルハルトの朝は明るく、賑やかだった。


 碧い海に浮かぶ白い帆。

 波止場に響く水夫たちの笑い声や、魚を積み下ろす際の威勢のいい掛け声。

 カモメたちはそれに負けじと鳴き、船のマストに留まりながら陽を浴びている。


 港の脇に広がる市場からは、干した魚の匂いや香辛料の香りが混ざり合い、異国の情緒を思わせた。

 セイルハルトは、この世界の幾つもの国と海路を繋ぐ要衝。

 そのため、異なる言語や風習をもつ商人たちが行き交い、港は朝から夜までひたすら喧騒に包まれている。


 だが、そんな活気に満ちた一角に——異質な空気があった。


 船着き場の片隅。

 白い日傘の下、波止場の石畳に小さな影が落ちていた。


 それは、年端もいかぬ少女だった。


 薄紫の長い髪を背に流し、絹のような白衣に身を包んだその子は、まるで港の喧騒とは別の世界から来たような、儚さと威厳を纏っていた。


 ノアリスは、目の前に立つ港の職員に静かに言葉を紡いだ。


「……ですから、本日限りで構いません。船を出さないようお願いできればと」


 職員たちは目を見開いた。

 最初はただの迷子かと思ったが、どうやら違ったらしい。

 その小さな口から語られる言葉には、どこか抗いがたい力があった。


「じょ、冗談じゃない……今日は神聖国行きの船も出る日で……!」


「もちろんです。私の言葉を鵜呑みにしろというつもりはありません。けれど、どうかご承知いただきたいのです。今日だけは、海へ出ない方がよろしいかと」


 ノアリスは波の向こうを見つめながら、淡々と言った。


「午後には風が変わります。やがて波も荒れる。……そして、“何か”が姿を現すでしょう」


 その言葉に、場の空気が一瞬、凍りついた。


 と、その時——


「おやおや、どうしました?」


 陽気な声が割って入った。


 現れたのは、小柄で丸顔の老人だった。

 だが、ただの老人ではない。上質な麻布のローブに金の飾り紐、胸には港長を示すバッジ。

 セイルハルトの港を束ねる人物——レオネル・シスフォード港長である。


「ノアリス様、でよろしいでしょうか? 私はこの港の管理を任されているレオネルと申します」


 ノアリスは目を伏せて一礼した。


「わたくしの名をご存じとは。……ええ、ノアリスで間違いありません」


「さて、先ほどの話……未来が見える、と?」


 レオネルは顎に手をやり、目を細める。


「信じろとは申しません。けれど、事実として、わたくしには”時折”、断片的な未来が見えるのです」


 港長は少し考え込む素振りを見せたが、やがてにこりと笑った。


「ふむ……よろしい。今日一日、船の運航を見合わせましょう」


「なっ……!?」


 役人たちが揃って声を上げた。


「ですが港長、それでは物流が……!それに、帝国からの使者も……!」


「責任は私が取りましょう。それに一日くらい、船が出なくても大したことじゃありませんよ。ね?」


 肩を竦めて笑うレオネルは、ノアリスにウインクすらして見せた。


「皆さん、働きすぎなんです。少し休みましょう」


 その様子に、役人たちは口を閉ざすしかなかった。


「……ご判断に感謝します」


 ノアリスは一歩下がり、深く頭を下げた。

 その顔に浮かんだ笑みは、どこか年齢に似つかわしくない、達観した冷静さを帯びていた。

 


 風が吹いた。

 海の匂いを乗せて、少し湿った重さを含んだ風——


 ノアリスの長い髪がふわりと揺れる。

 その隣には黄緑色の長髪を束ねた人物が立っていた。


(さて、ここまでは順調ですわね。あとは……)


 嵐の兆しは、静かに、確実に近づいていた。




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