第五十八話 導かれし者
微かな気配が、洞窟の入り口から這い寄っていた。
石壁に染み付いた冷気の中、ひんやりと湿った空気が張り詰める。風はなく、外の喧騒も届かない静けさ。しかしその静寂の中で、終は確かに感じた。不自然なざわめきを。誰かが、外からこちらの様子を窺っている。
終はそっと目を細め、空気の変化に意識を研ぎ澄ませた。
(……ん?)
先ほどまで傍にいたはずのザミエルの姿が、いつの間にか見当たらない。
(……使ったのかな。能力を)
終は口の端をわずかに緩める。
その裏で働いているであろう力を思い出す。
ザミエルの能力――それは、一定範囲内の小動物に意識を憑依させ、その五感を通して情報を取得するというもの。視覚、聴覚、嗅覚、さらには細かな振動まで、ザミエルは憑依した個体を通じて周囲を読み取ることができる。
しかも憑依中の本体は半透明となり、霧のように輪郭が曖昧になるため、視認はほぼ不可能。
性格的にも前に出るのは不得手なタイプだ。だが、だからこそ――この能力は彼にとって最適であり、終にとっても“コストパフォーマンスの良い駒”だった。
(……格は落ちたかもしれないけど、能力自体は有用だしね。戦闘は苦手でも、僕の眼と耳としてなら優秀すぎるくらいだよ)
そのとき、洞窟の奥へと伸びる陰から微かな足音が響いた。
誰かが入ってきたのだ。
終が視線を向けると、そこに現れたのは――
端正な顔立ちを持つ青年だった。透き通るような白い肌に、黄緑色の長髪を後ろでひとつに束ねている。切れ長の双眸は鋭く、どこか憂いを帯びたまま鋭敏に周囲を探っている。
背には細身の剣。身のこなしには無駄がなく、その足取りは岩の上でも音を立てない。
美しい……だが、それ以上にただならぬ気配を纏っていた。
(エルフ、か。……剣士? 見たところ、普通の旅人じゃなさそうだね)
終は反射的に距離を詰めようとはせず、むしろ数歩後ろに下がる。
相手が敵であった場合、自分が死ぬことはないとしても、目をつけられることは避けたい。
互いに言葉を交わさぬまま、一拍の沈黙が流れる。
だが次の瞬間、そのエルフの剣士が終の存在を認め、声を発した。
「……良からぬ気配がしてな。確認に来てみたが……」
彼の声は低く、落ち着いていた。目は終の奥を見ているようでありながら、確かに観察していた。
そして、わずかに視線を伏せてから――
「……気のせいだったかもしれん。すまない、邪魔をしたな」
踵を返して、踊るように軽やかに洞窟の奥から離れていく。
終は黙ったまま、その背中を見送った。
だが、その耳は捉えていた。エルフの剣士が去り際に、誰にともなくぼそりと呟いた言葉を。
「……“言われて”来てみたが……」
やがて静けさが戻る。
霧のように現れたのは、猫背の男――ザミエルだった。
「……今の言葉、聞いていましたか、シュウ様」
「ああ。『言われて』……ね。つまり、あれは偶然じゃなかったと」
終は小さく笑みをこぼした。
「それにしては、直球すぎる動きだったね。あのエルフの剣士……実力は相当高い」
ザミエルはこくりとうなずいた。
「……彼が構えずに立っていただけで圧を感じました。……透明化が解けたんじゃないかと焦りましたよ」
「解けていたら面白かったのにね」
終の言葉が冗談だとわかっているザミエルは困ったような笑みを浮かべる。
「じゃあ、今日はここまでにしておこうか」
そう言ってザミエルに背を向けて歩き出す終。
ザミエルはその背に思い出したように口を開く。
「あ、シュウ様! たまには魔王会議にも出席して下さい。みんな寂しがってますよ!」
そんな言葉に、後ろを振り返らず手を振る終。
その姿を見送ったザミエルは闇の中に身を滑り込ませるように姿を消した。
誰もいなくなった洞窟に、再び冷気と沈黙だけが満ちていた。
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