第五十七話 霧の報告者
潮風に吹かれて、セイルハルトの町並みが広がっていく。
白い外壁の建物が並び立ち、陽光に照らされてまぶしく輝くその町は、どこか異国情緒を感じさせた。石畳の通りには露店が連なり、焼き魚の香ばしい匂いや、スパイスの効いた異国料理の匂いが鼻をくすぐる。海から運ばれてくる塩気と魚の匂いが混ざり合い、港町ならではの空気を作り出していた。
波止場では、船の帆が風をはらみ、帆柱が軋む音が響く。遠くから聞こえてくる港の鐘、荷を運ぶ商人たちの掛け声、異国語が飛び交う賑やかな声──あらゆる音が入り混じって、町そのものが鼓動しているようだった。
港の広場には観光客の姿も多く見える。地元の名産品を買い求める旅人たち、屋台で異国の料理を味わう子ども連れ、吟遊詩人の演奏に耳を傾ける旅の老夫婦──まるで祭りのような賑わいが、町の活気を物語っていた。
セイルハルトは、王国と共和国の国境近くに位置する港町でありながら、いずれの国にも属さない中立的な自治区として、長い歴史を持っている。政治的には独立を保ちつつも、商業の自由を重んじるこの地には、多くの商人や旅人、密偵や傭兵までもが集まっていた。町の中央には大きな地図が掲げられ、そこにはこの町を中心に東西南北へと伸びる航路と陸路が、蜘蛛の巣のように描かれている。
交易と旅路の交差点──そう称されるこの町からは、神聖国をはじめ、各国へと向かう定期船が日に何本も出ている。とりわけ神聖国への航路は、陸路を使うよりも遥かに早く目的地へと辿り着けるため、貴族や聖職者の利用が後を絶たない。
この町を通る者は多い。だがこの町に留まる者は少ない。
だからこそ、セイルハルトは常に変化しながらも、どこか変わらぬ空気を纏っていた。
そんな港町へと、三人の旅人がやって来ていた。
優雅に歩く一人の少女の後ろに、やる気のなさそうな黒髪の青年と銀髪の静かそうな少女が連れ立っている。
エルリナ、終、そしてユナである。
「へえ。なかなか良い町だね」
終がゆったりとした調子で言う。
「そうね。ここは変わらないみたいで、安心したわ」
エルリナもまた、柔らかく笑ってみせたが、その横顔にはかすかに影が落ちていた。
人々の喧騒のなかに混じって、暗い噂が流れていたのを耳にしたからだった。
「やはり、王国の物は入らないか……」
「陥落したんだよな。……魔王か。恐ろしい話だなあ……」
市井の者たちが交わす何気ない会話。だがそれは、エルリナの心に深く突き刺さる。
足取りがわずかに鈍り、彼女の視線が石畳の足元へ落ちた。
終は何も言わず、その様子を横目で見て、ふと視線を空に向けた。
そこには燦々と照りつける太陽の姿。
港町から見る太陽は、いつもと同じようで、全く違うように見えた。
◇ ◇ ◇
日が空の直上を通り過ぎた頃、終は一人で行動していた。エルリナとユナには「買い出しを頼む」と軽く言い残し、人波を抜けて港町の外へと向かう。
港町を離れ、海岸線を辿って進んだ先に、小さな入り江がある。
そこに口を開けるのは、岩壁に穿たれた自然の洞窟だった。
日の光が届かないその奥は、昼でも薄暗く、かすかな潮の香りと海藻のにおいが漂っている。
終は静かに洞窟へと足を踏み入れ、岩肌に触れて立ち止まった。
「ここなら、まあ良いかな」
終が手を掲げると、空間がわずかに歪んだ。
黒い魔力が地を這うように蠢き、やがて地面に魔法陣が浮かび上がる。
中心からは霧が溢れ、その霧が形を成し、細身の影が膝をついて現れた。
黒と灰のスーツ風の服に身を包み、猫背気味なその姿はどこか頼りなく見える。
顔には感情の色が薄く、無表情に近い。眼鏡の奥にある半目は、まるで死んだ魚のようだ。
両手には白い手袋。周囲の霧がゆるやかに彼を包み込んでいる。
「お呼びですか? シュウ様」
「呼び出して悪いね。ザミエル」
「いえいえ。こんな遠隔地に転移召喚できるのは……格の低い俺くらいですから」
ザミエルはそう口にするが、その声音には自嘲が滲んでいた。
「そんなことはないさ。君は役に立ってくれているよ」
終は微笑みながらそう言った。
その笑顔が、かえってザミエルをひやりとさせる。
「じゃあ、報告してもらっていいかな?」
「はい。現在、王国に残されたレジスタンスとは適度な戦闘を続けております。殲滅までは至らぬよう、あくまで“抵抗している感”を維持する形で」
「うん、それでいいよ。あの人たちがいることで、物語は面白くなるからね」
終が口元に笑みを浮かべた瞬間、ザミエルの身体がわずかに震えた。
「……次に各国の反応ですが、今のところ魔王国に対して、明確な敵対行動を取っている国はありません。ただ、情報収集や間者の潜入は増えております。警戒は必要かと」
「ふむ……まあ想定内かな」
「それと、王都跡の瓦礫撤去が完了し、魔王城の建設が本格的に始まっています。進行も順調です」
「いいね。ラディウスも喜んでるだろう」
「はい。ラディウス様は……非常に真面目に取り組んでおられます」
終はクスリと笑った。ラディウスの几帳面さは、終の予想以上のものであり、彼を魔王にして良かったと終が思えるほどだった。
「例の実験は?」
「……進捗は良好です。近いうちに次の段階へと進めるかと」
「素晴らしいよ。……他には?」
「……」
ザミエルはわずかにためらったが、終が微笑を保ったまま言葉を挟んだ。
「君の困っていること、僕が解決してあげようかなって」
「……あ、それなら――」
「……わかってると思うけど、人員の補充はできないよ」
釘を刺すような声だった。
ザミエルの口が閉じる。
「君達の召喚は、まだまだ可能さ。僕にもまだどれくらいできるかわからないくらいにね。でもさ、肉体が足らないんだよね。体がないと君達、留まれないでしょ?」
「申し訳ございません。……おっしゃる通りです」
「僕はさ、無差別に人を殺すのは好きじゃないんだよ」
終の瞳が笑っている。だが、冷たい。
「それにさ。君も気にしてる通り、その辺の死体じゃダメなんだよね」
終はかつて、王国支配後に様々な悪魔を召喚し、実験していた。
結果、適合する肉体に宿った悪魔は本来の力に近い能力を発揮し、不適合の肉体では能力は人間並みに留まった。
ザミエルの肉体は、王国の密偵のもので、記憶と素養が辛うじて適合を助けた。だが高位の悪魔としての階級は落ち、戦闘力も大幅に制限されていた。
今や彼は、他の悪魔たちから嘲笑の的となっている。
「さて、後は、神聖国の――」
そのとき。終はふと、わずかな気配を感じ取った。
誰かが……洞窟の入口から、こちらを窺っている。
終の目が細められ、霧がわずかに濃くなる。
波音の裏側に、気配があった。
(さて、誰が覗いてるんだろうね)
終は笑みを浮かべたまま、霧の中で静かに構えを取った――。
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