第三十三話 赤月の予兆
ヴェイルのアジトは静まり返っていた。
地下深く、湿り気を含んだ石造りの廊下を抜けると、その最奥に一つの部屋がある。
重厚な鉄扉に守られたその部屋を、彼らは“司令室”と呼んだ。
本来なら、ここはアニキ――終の領域。
だが今、その椅子に座っているのはスキンヘッドの男、バルドラスだった。
「……はぁ……やべぇ……落ち着けねぇ……」
ゴツゴツとした指先が、革張りの肘掛けを撫でる。
この椅子に座ることが、どれほどの意味を持つか。
組織の誰よりも知っているのは、自分だ。
(アニキが……俺を……認めてくれた……ってことだよな……)
思わず熱いものが込み上げる。
だがすぐに首を横に振り、涙腺の震えをかき消した。
「っと……いかんいかん。真面目にやらねぇと……」
慌てて背筋を伸ばす。
だが、返ってくるのは静寂だけだった。
暇だ。
部屋の外では、部下たちが街中に散らばり、バルドラスは報告が入るのを待っている。
ここは指揮所だ。何も起こらないということは、今のところ平穏ということでもあった。
「……この一週間以内に何かが起きる。いったい何が……」
自身の頭で考えても何もわからない。
その両の目が捉えるのは、やがて室内に移っていく。
棚には薬草や鉱石、調合済みの薬瓶。
机の上には、終直筆の魔法陣設計図や、王都全体の地図。
それらに視線を流しながら、バルドラスはゆっくりと呼吸を整える。
(しばらくの間、宴会も禁止か。……だが、アニキの言うことだ。きっと何かが起こるんだろうな。シュートの時も……)
数日前の光景が脳裏をよぎる。
胸から血を流し、息も絶え絶えだったシュート。
それでも奴は笑っていた。バルドラスに向けられた、あの弱々しくも涼やかな笑みを思い出すと、胸の奥がジンと熱くなる。
「ったく、いつの間に王宮潜入任務なんか受けてやがったんだよ。……アニキとユナの嬢ちゃんが認めるわけだ。かっけぇ奴だぜ……」
誰もいない司令室で呟くその声は、涙が混じるほどに優しかった。
◇ ◇ ◇
大地の奥深くを抉り抜いたような巨大洞窟。
そこには、黒曜石を削り出して作られたであろう奇怪な祭壇が鎮座していた。
無数の松明が赤黒い炎を揺らし、岩壁に影を踊らせる。
祭壇中央には巫女のような人物が立っていた。
毛皮と骨で作られた獣の頭部装飾を被り、その素顔は暗くて見えない。
白い衣に血のような赤の刺繍が施され、その袖がひらりと揺れるたび、鈴のような金属音が微かに鳴った。
巫女は壺から取り出した液体を、中央の大釜へと静かに注ぐ。
何の感情も宿さないような、その所作。
まるで生きた人形のようだった。
やがて、背後から別の影が近づく。
黒衣の人物が手渡したのは、小指の先ほどの赤黒い結晶。
巫女はそれを受け取ると、祈るように胸に抱き、大釜へと落とした。
――ゴゥン……
鈍い音と共に、祭壇全体に紫黒の魔力光が奔った。
松明が全て吹き消え、暗闇が洞窟を支配する。
その中心で、大釜から溢れ出す黒いモヤが天井へと昇り、ゆっくりと蠢きながら形を変えていく。
人型。
ボロボロの外套を纏い、骸骨のような顔面を覗かせる異形の存在。
「我が主人よ。なんなりと……ご命令を」
黒衣の人物の前に跪くその声は、地底深くに響き渡り、まるで生と死の境界を侵す呪詛のようだった。
――
「っは……はぁ……はぁ……」
額に浮かぶ冷たい汗。
息を乱し、ベッドの上でエルリナは震えていた。
夢。
恐ろしい夢だったはずなのに、内容は霧がかかったように思い出せない。
(シュウ……)
その名前を思い浮かべると、涙が零れ落ちた。
窓の外を見やると、空には大きな赤い月が浮かんでいた。
暗い雲を照らすその光は、まるで地上に血の祝福を与えるかのようで。
エルリナは震える指で窓硝子に触れ、か細く呟いた。
「……私は……どうしたら……」
少女の嘆きは冷えた月光に溶けていった。
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