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第三十一話 幽鬼の刻印


 胸騒ぎがした。

 悪い夢を見たわけではない。

 ただ、胸の奥が締めつけられるように苦しかった。


(……夢……。……シュウ……?)


 かすかに夢の中に彼の姿を見た気がする。

 しかし、今は思い出せない。

 ぼんやりと頬が熱を帯びていることだけを自覚しながら、エルリナは窓辺へと歩み寄った。


 外はまだ深い闇に包まれている。

 月の光が冷たく石畳を照らし、その光景は、まるでこの世の終わりのように陰鬱だった。


 もう一度眠りにつこうかと思ったが、胸のざわめきは消えない。

 気を紛らわそうと部屋を出た。



 夜明け前の王宮は静まり返っていた。

 昼間は慌ただしく行き交う従者たちも、今は影もない。


 寂しさを感じながら石造りの廊下を歩いていると――


 カキンッ!


 遠くから金属音が響いた。

 剣と剣が打ち合う音。


(……こんな時間に……?)


 足が自然と音のする方へ向かっていた。

 それは王国騎士団の練兵場。



 そして。


 そこで見たものは、エルリナの世界を一変させる光景だった。


 柱の影に身を潜め、息を殺す。


 そこには、黒髪の青年――シュウがいた。

 血を吐き、今にもトドメを刺されそうなその姿。


「死ね、薬師!!」


 聞き慣れた声。

 それはこの国の英雄、王国最強の騎士団長――グラディウスのものだった。


 鈍い音が響く。

 愛しい人の命が、奪われる音。


 頬を熱い雫が伝う。

 恐怖ではない。悲しみだった。


 


「グラディウス様。お見事でございます」


 闇の中から現れたのは、見知らぬ男。

 フードを深く被り、顔は見えない。


「くっくっく。馬鹿なやつだ。大人しくしていれば、痛い目に遭わずに済んだものを」


「然り然り。……しかし、死体は崖下で良かったので?」


「使い道などないだろう。計画に必要なのは王女と王家だけだ。こんな薬師など、ここで朽ち果てればよい」


 二人の足音が遠ざかっていく。

 その場に残されたのは、崩れ落ちるように泣き伏す少女だけだった。


 


 衝撃的な朝を迎えたエルリナは、自室へ戻っていた。

 崖下を覗いたが、彼の姿は確認できなかった。

 どこまで落ちていったのか。

 生きているのか。

 分からない。


 泣き腫らした目元を侍女に心配されても、真実を語ることはできなかった。

 もし話せば、家族も侍女も殺される。

 相手は王国最強の男。

 謀反を起こされれば、王家は終わる。


(……でも……シュウは……絶対に……)


 頭ではわかっていても、涙は止まらなかった。


 


 考え込む彼女のもとに、侍女が血相を変えて飛び込んできた。


「エルリナ様、大変です!」


 息を切らしながら告げられた内容に、エルリナは耳を疑った。


――薬師シュウが謀反を働いた――


 王宮内でそんな噂が広がっているという。

 さらに詳しく聞くと、その正体は巷で噂の悪の組織の親玉、レイスという薬の売人だと。


「……シュウは、そんな人じゃない!!」


 激昂するエルリナを、侍女が必死に諭す。


「私も、そうは思いません……ですが、今は……」


 震える体を抱きしめながら、侍女は涙を浮かべた。


 


 そして、その噂は王宮から王都へと広がっていった。

 全ては、グラディウスの計画通り。


……いや。


 その日の夕暮れ。


 王宮に現れた黒い影が、その思惑を打ち砕いた。



 漆黒の衣を纏い、黒い仮面で顔を覆う巨大な男。

 背には身の丈ほどもある大剣。


 誰も声を上げることができない。

 その存在は幽鬼のようで、ただ“恐怖”としか形容できなかった。


 黒き男はゆっくりと剣を抜き、王宮中央広場に立つ王国騎士団のエンブレムへ、その巨大な剣を突き立てる。


 ギィィィン!!


 金属音が石畳に響き渡る。


 恐怖と畏怖に支配された兵士や従者たちが、遠巻きに震える中。

 漆黒の男は、闇に溶けるようにその場から消えた。


 それは、ちょうど日が沈む時だった。

 




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