第十話 沈黙の影
小雨が降る夜、スラム街の軒下で、ユナはずっと膝を抱えていた。
濡れた地面の冷たさも、腹の虫の鳴き声も、もう慣れていた。家族はとうの昔にいなかった。物心ついた時から、盗みと隠れることだけが、生きる術だった。
誰かに頼ることを覚えたことは、一度もない。
痛いのも、怖いのも、空腹も、全部慣れた。
そんな日々が続くと思っていた。
運命の日は突然やってくる。
◇ ◇ ◇
ゴロツキに殴られ、蹴られ、血を吐いても、声は出なかった。
反抗しても意味がない。逃げ切れなかったのは自分の失敗。
だから、もう、終わりでいい――そう思った瞬間。
ふと、目の前にいた黒づくめの男と目が合った。
男は、何の感情も浮かべずに自分を見つめた。
だが、その目には「面白い」とでも言いたげな色があった。
「やあ、お嬢さん。死んでも碌なことはないよ」
それが彼の第一声だった。
気づけば、自分はその男に抱えられていた。
そして、灰色の塔の中で、青い髪の変人が傷を縫っていた。
◇ ◇ ◇
少しして、自分はあの男――終の補佐をしていた。
最初はただの回復期間のつもりだった。
だが、彼には不思議な魅力があった。
「薬の知識はある?そっか。じゃあやってみる?」
「盗みが得意なら尾行もできるよね」
「人の顔色を見るのが得意なんだ。僕より鋭いかも」
いつの間にか、彼の表の顔“薬師シュウ”としての仕事を支え、裏の顔“レイス”としての仕事にも同行するようになっていた。
王宮に行き、王女様相手に堂々と意見するシュウの隣に立つ。
ゴロツキなんて目じゃないくらい恐ろしい犯罪者と、対等以上に取引きを行うシュウの後ろについていく。
商人になりすまして薬を配達する。
情報を仕入れた情報屋の後を、誰にも気づかれず追跡する。
そして、時には毒を調合し、密かに渡す。
終は決して何も強制しなかった。
ただ、必要な能力を見て、静かに手を差し伸べてくれるだけだった。
――
「ユナ。君は、誰にもなれない。だから、何にでもなれるよ」
あの言葉が、ずっと胸に残っている。
誰にもなれない。
家族でも、娘でも、子供でも、普通の人間でもない。
でも――終の“影”なら、なれる気がした。
――
夜、静かな研究室の窓辺に腰掛けて、ユナは空を見上げる。
終は不思議な人間だった。優しさも残酷さも、その目に同時に宿している。
自分を拾った理由を聞いた時も、こう言っただけだった。
「君の目が面白かったんだ。まるで、僕を見てるみたいでさ」
おかしな人だと思った。
でもそれ以上に――
ユナは、あの人の隣にいる自分が、初めて“何か”になれた気がしていた。
――
彼の望みが“この国の裏を支配すること”だとしたら、自分はその影となって、静かにそれを実現するために動くだけだ。
他に、望むものなんてない。
――
「シュウ。あなたは、わたしの“――”です」
声には出さず、心の中でそう呟いた。
この胸に灯った熱だけは、誰にも、終にも、知られなくていい。
彼が振り返らないように。
でも、その背を見失わないように――。
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