10.構造主義から考える「情報」とは?
さて、「情報」と言うものの重要性と社会構造を変える原動力になる事は、これまでの内容で分かって貰ったと思う。では、その「情報」とは何だろうか?
構造主義を通じて客観的・論理的に、人類にとっての「情報」というものを考えていきたいと思う。
まず、情報の定義だが次の一言で説明出来ると思う。
「情報とは、目に見えない全ての事象のうち、人類が生きていくために必要な知恵・知識である」
どういう事かと言うと、原始人がいたとする。例えば、狩の仕方や食べられる動物、毒の有無などは目に見えない情報である。情報がある人間は、ない人間と比べて生き残る可能性が高くなる。
生まれたばかりの赤ん坊には、生きていくために必要な知恵・知識がない。だから、親が情報を教えていく。
「この木の実は食べられる」「崖から落ちると死ぬ」これらは、生きていくのに必須の情報だ。
社会的動物である人類は、生き残る為にこの目に見えない事象を探し続けてきた。人類の進化は情報量の多さで決まると言っても良い。
より生き残る様に進化する為に、世界の見えない情報を集めて確かめて、それを子孫に伝え続けてきた。
古代から、情報の重要性は最優先事項である。情報を増やすために言葉を生み出した。それを文字と言う目に見えるものにして、より情報を増やし続けている。これは今現在でも当たり前の行動として行われている。
例えば、兵士の数という目に見える物質的な力を数値化するのも情報だ。戦術・戦略という情報は、戦いで勝ち生き残るために、生み出されたものだ。
兵士の数よりも情報の方が強いのだ。情報とは、絶対的で強大な力そのものなのだ。
だから、人類の歴史とは如何に情報を増やして自らが生き残るのかという点に尽きる。生存競争に勝つためには、他人よりも情報を増やす事が一番だ。それだけ、生き残る可能性が高くなる。
そして、情報は権力になる。より集団が生き残り易くなるよう情報を提示する事=権力である。生まれがどうとか、地位がどうとか言う問題ではない。
そもそも、地位とか役割と言ったものも情報である。目に見えない肩書と言うものに人類は縛られ続けている。情報が多くなり過ぎた結果、『ある情報の専門家』という風に特定の情報のみを扱う人を考え出したのだ。
人間は一生を掛けて、役割に従った情報を考え続けて自分が生き残るのに必要な情報を集める存在なのだ。それは、定住生活を始めた人類の知恵の結晶である。
畑を耕す人、家を建てる人。採取をする人に釣りをする人と言ったように、定住して役割を決める事で集団としてより豊かに生きる事が出来るようになった。その中で、最も集団が生き残る可能性が高くなる判断をする人をリーダーとしたのだ。
これが支配構造の基本である。「ムラ」という集団でより豊かで沢山の人が生き残る様にやるべき役割を決め、「ムラ」を動かす事。古今東西、人類が進化の過程で生み出した知識の体系を情報と呼ぶのだ。
「歴史」「宗教」「習慣」「法律」その他あらゆる知恵・知識は、等しく情報なのだ。
そして、人類が進化し情報が増える程に、それは複雑で難解な物になっていった。次第に「生き残る為」という目的以外に情報を使うようになった。「趣味」である。
人類が豊かで幸せになっていくと、生きていくために必要な労働以外の時間が出来る。そこでは、生き残る為ではなく、より幸せになるために何かを学ぶという行動が可能になったのだ。
ただの道具を作るのではなく、より面白くて楽しくなる物を造る。それもまた「情報」である。
人類がその「情報」そのものの価値をどの程度重要視していたかは、社会的背景・歴史・文化により異なる。
だが、ある時「情報」自体を生み出す行為は「科学」へと発展する。
今まで見えていなかった事象が発見され、それについての情報が集まり新たな発想へと至る。「地動説」「宗教革命」「微生物や細菌など」である。その「情報」は、社会そのものを変えるのに時間は掛からなかった。
長年続いて来た「権威主義」や「奴隷制」は崩壊し、「科学主義」「資本主義」と言った物が生まれ「産業革命」へと繋がった。
人々は、「科学」により「情報」を生み出す術を手に入れ、「情報」により豊かになった。これが近代である。我々は、近代と現代の端境期に居る。
「情報革命」により、人々は様々な「情報」を入手できるようになり賢く豊かになった。また、誰でも「情報」を作る事が出来るようになる。物の価値は物質的な物ではなく、「情報量の多さ」「情報の信頼性」になった。
具体的には、かつて財産と言うものは「金貨と交換出来るという情報」であった。だが、それも失われた。
今の経済活動を見てみよう。お金とは「国や中央銀行が紙幣や国債を発行し、将来まで担保してくれるという情報」に変わった。株式投資とは「その会社が将来的に利益を生むという信頼を基にした情報」でしかない。
要するに、物の価値自体が「情報」となってしまった。物質的な物ではなく、目に見えない「情報」を売買しているのだ。
ガチャ課金を例に取ろう。あれは「ネット上のゲームのアイテムやカードと言った目に見えない情報」に金を掛けているという事になる。物質的な物ではなく、目に見えない「情報」に価値を見出している。
しかも、その「情報」とは生きるために必要な物ではない。ただの「趣味」で「情報」をやり取りする事のみが財産なのだ。
「情報化社会」とは「情報そのもの」に価値を見出す社会である。つまり「魅力のある情報」を『創作』出来る者こそが、「情報化社会」の支配者となるという事である。
それが誰かは知らないが、既存の「情報」の価値が下がるという事でもある。ありとあらゆる情報が比較・判断されるので、「政治家」「マスコミ」「専門家」の創り出す「情報」が「大量にある情報の一つ」でしかなくなってしまうからだ。
今現在、情報化社会の波の中で我々の価値観は大きく揺らいでいる。
それもその筈「情報」そのものが価値を生み出し、支配し搾取するのだから。
政治・経済に一喜一憂する方がおられたら、心配する必要は無い。そんな物にもう価値は無いのだから。
今書き続けているエッセイ。普段なじみのある「情報」とか「創作活動」という行動を、「哲学」という馴染みの無いものから洗い出す形で進んでいる。
元から狙っていた訳ではないが、思いの他考える事が多い。楽しい。
「考える」という行為そのものも「創作」の一部であり、生きる為に、幸せになる為の行動だ。
「情報」を手に入れる事で、人は豊かになる。それは肉体的にも精神的にも言える。
古代より続けられてきた、「学ぶ」という行為を「哲学」という学問から解き明かす。そんな感じ。
誰も考えない事、想像しない事を学ぶというのは楽しいです。それは人類の進化そのものを感じる行為だからです。
勉強が嫌い、考えるのは難しいと思う人もいるでしょう。
それは、人間の身に与えられた能力なのだから、しっかりと活用する意味のある行為なんですよ。