いつか、君と星空のpas de deuxを
美容系専門学校の学生である鹿野誠也は、近所に住む高校生でありバレリーナ、新妻雪菜の"専属スタイリスト"だった。
ただの幼馴染の妹としてしか見ていなかった彼女から「好きな人ができた」と言われたとき、本心では好きだったと理解した誠也。
翌朝、目が覚めると、雪菜とはじめて会ったときまで時間が戻っていた。
今度は惹かれないようにメイクやファッションを封印すると決めた誠也。しかし、そんな彼をよそに、雪菜は「誠也お兄ちゃんと一緒にバレエを習う!」と勝手に宣言して……ーー
誠也の企みは成功するのか。雪菜の本心を知ることはできるのか。そして、時間が巻き戻った本当の理由とは。
『好きな人ができたんだ』
そう言った顔を、もう妹として見ることはできなかった。
俺はただの"専属スタイリスト"のはずなのに、なんでこんな気持ちを抱いてしまうのか、今になって理解してしまった。
車内でたくさんの花束に囲まれている新妻雪菜はもう十八歳。法律的にはあの車内で既成事実を作ってしまうことだってできたれど、できなかった。
俺にできたのはただそうかと言って、無表情のまま彼女を家まで送り届けることだけだった。
歩道橋の上から夜空を見ると、気持ちとは反対に夏場の都会には珍しく澄んでいるようで、星空が綺麗に見えていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「早く始まらないかな?」
「動くな、バケモンになるぞ」
「はいはい」
本番前の楽屋で、おしゃべりが止まらない雪菜を窘めて、誠也は鏡と本人を交互に見ながら口紅をリップブラシで引いていく。している側はちょっとでもズレたら大変だからと神経を尖らせているのに、されている方は呑気なものだった。
「できあがりだ」
「ありがと。これで兄さんがしてくれる化粧も最後だね」
「だな。お前も大学生なんだから、自分でしろ」
「へい」
仕上がった唇を軽くティッシュで押さえて、衣装に合わせた髪飾りを付ける。誠也から見たら、最後の舞台を楽しみにしている雪菜は、ただの妹だった。
彼女の"専属スタイリスト"になったのは、偶然だった。ファッション系の専門学校に通う誠也が、舞台メイクの課題をこなすために雪菜に実験台になってもらったのだが、それを見た彼女の母親に泣きつかれてしまったのだ。
男がやるということで、最初は奇特な眼差しを向けられることが多かったが、コンクールで審査員から直々に褒められたことから、ぜひやってくれと手のひら返しされたほどだった。
「じゃ、頑張ってくる」
舞台袖に続く通路で上着を脱いだ雪菜はウインクする。その姿は黒い衣装も相まって、小悪魔的な魅力があった。
「はしゃぎすぎんなよ。四曲あるんだから、いきなり全力投入すんなよ」
「わかってますぅ」
舞台袖に入っていく雪菜を見送った誠也は、あらかた片づけるために楽屋へ戻る。
化粧道具を片づけているとき、ふと最初の一曲だけ時間が離れているから、なにかを口にするだろうと考えた誠也は、アイメイク用の道具とはべつに、リップブラシと口紅はわけておくことにした。
「今日、終わったらお疲れ様会でもするの?」
パウダーブラシの粉を落としていると、そう声をかけられ、おもわずえっ?と返してしまった誠也。
「雪菜ちゃん、キーウでのワークショップに参加予定だったんでしょ? それなのに直前で足首の捻挫しちゃうなんて。この舞台が最後になるなんて、だれも思わなかったわよ」
悪気のない言葉に、そうですねと苦笑いするしかなかった。
たしかに捻挫する可能性はあっても、まさか本当にするとは思わなかった。治っても、まだ現役を続けると思っていたから、本人から辞めると聞いたときには、誠也も驚いた。雪菜自身に悲壮感はなく、むしろ今日が終わったら、たくさん食べれると嬉しそうだった。
「いえ、今日は疲れていると思うので、明日以降にでも」
「そうなの。いらないお節介をしちゃってごめんね」
「お気になさらず」
話しかけてきたのは、誠也のメイクに惚れこんできた一人。最初から気さくに接してくれた人で、意地悪な人ではないのは彼も理解している。
「それはそうと、早くしないと雪菜ちゃん可愛いし、取られちゃうよ?」
「はぁ」
しかし、続けて発せられた言葉にはどう反応すればいいかわからず、困ってしまった誠也。そんな関係じゃないと反論すればよかったのだが、なぜか、それを言えなかった。
「辞めても、ときどきは近況報告してね! 二人が一緒にいるのを見るだけで私たちは眼福なんだら」
それだけ言って去られた誠也は"私たちは"ってなんだよと肩をすくめながら、片づけを進めた。
「疲れたよぉ」
予想通りの時間に、倒れこむように楽屋に戻ってきた雪菜は、捻挫した足首を気にしているようで、何度もさすっていた。
先ほどとは違う淡い青色のボンが見えていた。唇を直す前に淡いパープルのアイシャドウの上から軽く水色のアイシャドウを重ねていく。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
「そうか」
雪菜に笑顔を見せられたが、どこか無理しているような気がした。より明るい色の口紅を出して、ブラシに取る誠也。
そっと色を乗せていくときに、彼は先ほど言われたことを思いだしてしまい、ブラシを持つ手が震えてしまった。
『早くしないと雪菜ちゃん可愛いし、取られちゃうよ?』
だれに取られるんだろうか。
そして、そのとき、自分は平静を保てるのだろうか。
一瞬、周りの音が聞こえなかった誠也は、目の前の惨状にため息を吐く。どうしたの?と聞く雪菜の唇にクレンジングを染みこませた綿棒を無言で当てる。さっきバケモノになるから動くなと注意したのに、自分の不注意ではみ出してしまったのだ。
「眠りから覚めたオーロラ姫を祝福するんだから、笑顔を忘れんな。それに、佐々木も今日が最後なんだから、迷惑かけんなよ。それから……青い鳥とフロリナ王女のグラン・パ・ド・ドゥ、楽しんでこい」
「ラジャ」
今日はコンクールではない余興だ。
無意識に緊張していたらしい雪菜は、彼の言葉に肩の力を抜いて、大きく頷いた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
すべてが終わった車内で、俺は雪菜にこれからどうするんだと尋ねた。ただ、今までずっとバレエをしていた彼女が、これからなにをするのだろうかという好奇心で尋ねたつもりだったのだが。
『あ、そうそう。好きな人ができたんだ。まずはその人に告白するんだ』
明日の天気を言うようなノリだった。けれども、思考を止めるのに、十分だった。
相手はあの佐々木だろうか。五年くらい組んでいたから、気心も知れているだろうし。それとも高校のクラスメイトだろうか。俺や佐々木ほどではないが、一緒にいれば、好きになることだってあるだろう。
でも、俺ではない、よな。
おもわず急ブレーキをかけてしまった俺に、雪菜は大丈夫かと聞いてきたが、口を開けば余計なことまで言ってしまいそうで、首を横に振るのが精一杯だった。
さっさと彼女を自宅まで送り届けた後、近くの下宿先に車を置いて、近くの居酒屋に入った。一時間近く酒を浴びるように呑んだあと、酔い覚ましのために遠回りして、帰ることにした。
近所だけれど、こんな歩道橋があったとは知らなかったから、なんとなく歩道橋を登ってみることにした。
「サタネラみたいだな」
なんとか登ったあと、空を見上げてみると、たくさんの星が瞬いていた。悪魔が身に纏うのは、黒い布地に星屑のような飾りがつけられた衣装。中盤の連続回転をモニター越しで見ていたが、まるで星が移動しているような感じだった。
「明日からは気持ちを切り替えて、行くしかないな」
どんな顔をして、あいつと接すればいいんだろうか。それまでには切り替えられるのだろうか。
とりあえず今日は、家に帰って、不貞寝でもしよう。
部屋に入ると、出しっぱなしのメイク道具があったが、面倒になって、そのままベッドに転がった。
ふかふかのベッドが気持ちがいい。
明日なんて、来なければいいのに。
眠りに落ちる瞬間、なにかに吸いこまれるような気がしたけれど、睡魔には勝てなかった。
「……にいちゃん、誠也お兄ちゃん」
一人暮らしなのに、なんで人がいるんだ?
目を開けると、やった!と喜んでいる小学生くらいの少女がいた。見覚えのあるような、ないような。
あたりを見回すと、いつもの部屋じゃなくて、数年前まで寝起きしていた部屋だった。
おかしい。
寝たときは間違いなく下宿先だったのに。
「起きた! 静枝さん、誠也お兄ちゃんが起きました!」
「誠也、大丈夫? 雪菜ちゃんの髪の毛を結んであげるって言って、背伸びしてひっくり返るって、本末転倒よ」
背伸びして、ひっくり返る?
そして、目の前の少女は、雪菜?
静枝さんと呼ばれた人の言葉を認識した瞬間、自分の手を見てしまった。ひと回りぐらい違う。
誠也と呼ばれているし、静枝という名前の母親がいることから、小さいころの自分だ。記憶を手繰り寄せるとたしかに初対面の雪菜の髪を結ぶというイベントがあったのを思いだした。
ちょうどバレエを始めたばかりの雪菜はそれを気にいった。それからたびたび彼女を喜ばそうと、メイクやファッションの沼にハマっていったという記憶がある。
だから"専属スタイリスト"になったのは、すべて雪菜のため、という積み重ねがあったのを思いだした。
今ならばやり直せる。
決して雪菜に近づいてはいけない。近づいたら、きっと、今度は取り返しのつかないことになる。
パチン。
突然、乾いた音が部屋の中に響いた。
なんだろうと思ったが、すぐに左頬の痛みで、状況を把握した。
「なにやってるの、誠也! 年下の女の子の頬を抓るなんて!」
どうやら、俺はその一歩を無意識に踏みだしていたらしい。よくやった、と褒めたい。さあ、これからどうやって嫌われようか。
……いや、嫌われるため、彼女に関わらない方法は一つしかない。