使用人の幸福
私、佐崎と申します。
明治の世になり、世捨て人同然であった私が、華族である旦那様に拾われ、執事としてお仕えして十余年。お嬢様もすくすくと成長なされ、私は時が経つのは早いものだと実感しつつ、旦那様の御栄達とお嬢様の微笑ましい日々を近くで見ていられる私は、誰よりも幸福であると確信しておりました。
そんな穏やかな日々に無粋な輩が余計な手出しをしたのは、お嬢様が十歳になられてすぐのことでした。
お付きの使用人が殺害され、お嬢様が誘拐されてしまったのです。
恥ずかしながら、以前の私が心の奥から蘇るのを感じ、居ても立ってもいられません。旦那様の許可を得て、お嬢様を探し、下手人を私の手で処理することにいたしました。
昔の装束は捨ててしまいましたが、武器と技は捨てておりません。
頂いた執事服を血で汚すのは気が進みませんが、幕末の亡霊はお嬢様のために修羅に返り咲くことになったのです。
使用人として、主人が悲しみに沈むお姿を見るのは辛いものです。
江戸幕府が倒れた御一新にて華族となった旦那様から、執事なる肩書を頂いて十余年が過ぎた今、斯様な不幸に見舞われるなど誰が想像できましょうか。
「旦那様……」
「佐崎。無様を見せてすまん」
「無理もございません。私がもっとお嬢様の様子に気を付けておりますれば……」
「お前の責任ではない。しかしまさか娘を狙う輩がいるとは」
弱冠十歳のお嬢様が、お友達の屋敷へと招かれた帰り、何者かに誘拐されてしまったのです。現場に残された使用人の死体には『天誅』の文字。
発覚からすでに五時間が経ちますが、犯人からは何の要求もありません。
「警察に任せておくしかないのだろうか……」
旦那様は政敵も少なく、個人として恨みを買う方でもありません。
旧佐幕派連中かとも考えましたが、であれば『天誅』などとは残しますまい。新政府に冷遇された連中やも。
いえ、政治向きのことなどどうでもよろしい。必要なのはお嬢様がご無事でお戻りになられること。その一点です。
「旦那様、お許しあれば三日ほど、屋敷を空けさせて頂きたく……」
「何故……いや、何をするつもりだ?」
「お恥ずかしながら、若い頃に些か荒事の経験がございます。お許し頂ければ、警察連中とは別の伝手で捜索いたしたく」
「……荒事か。詳しくは聞かない方が良いのだろうな……許す。いや、頼む。後始末はわしがやる。だから……」
「御意。……旦那様、ありがとうございます。私は旦那様とお嬢様にお仕えできて、幸せでございました」
旦那様は慌てて私を見られました。そのお顔には焦りが。
「娘とお前を引き換えにしたいわけではない。二人で戻ってきてくれ」
「かしこまりました、旦那様。夜も遅い時間でございます。どうぞ少しでもお休みください」
私のような男を重く扱ってくださることが嬉しく、同時に旦那様に嘘を吐いてしまったことが心苦しく胸を締め付けます。
自室へと戻り、ゆっくりと三回、呼吸を繰り返しました。
「手引きした者が、屋敷の中にいるかも知れぬ」
寝台の下から木箱を引き出し、ぼろ布で表面の埃を丁寧に拭い落としながら呟いた声は、我ながら別人のような響きでした。
木箱を開いて中身を寝台の上に並べながら考えるに、当家のお嬢様であると知っての犯行であれば、必ずやその動向について調査をしたであろうことは明白でしょう。
「当家の者たちか先方の関係者か、いずれかに共犯がいるはず」
当家を外から監視している可能性も全くないわけではありませんが、当家には警備の者が複数おりますし、私も微力ながら昼夜問わず警戒をしておりました。
それに、監視だけでお嬢様の動向など易々とわかるものではありません。
一人、当家の使用人に怪しい人物がおります。
確たる証拠も無いため旦那様には伝えておりませんでしたが、今思えば早めに処分しておくべきでした。
「再び、これを使うことになるとは」
見下ろす木箱には五本、刀身僅か二寸(6cm)ほどの、内反りの小刀が並んでいます。分厚い刀身は、以前と変わらぬ輝きを放っておりました。
未練がましく手入れをしていたのが役に立つ日が来たこと、残念でなりません。
上着の内側に牛革の帯を付け、一本一本を丁寧に確認して帯に挿していきます。
幾度となく繰り返した動作に緊張はありません。あるのは下手人への怒り。そして旦那様やお嬢様と過ごした美しい日々の思い出が、脳裏を駆け回ります。
私のような日陰者に、お嬢様は無邪気に接してくださいました。
少々我儘なところがありますが、それもまた愛らしい。あと数年も経てば立派な淑女としていずこかへ嫁がれる。その日まで精一杯お仕えし、微力ながらご成長をお助けできればと思っております。
それが執事の幸福というものです。
さて、身支度は終わりました。
姿見の前で執事服を整え、絹の手袋をつけ、別棟のとある部屋へと向かいます。
暗闇に溶け込み、たどり着いたのは一人の女中がいる部屋です。
昨今メイドと呼ばれる女中の一人、津賀野という十代半ばの若者ではありますが、二年前に当家へ入った時から気になっていました。
身のこなしは軽やかで、他の者は若く元気だと評しておりましたが、私からは武門の人間にしか見えません。
それに時折旦那様方に向ける視線の鋭さは、決して敬慕の情によるそれではないのです。
恥ずかしながら、そういう目をした連中が仕事仲間でございましたので。
「津賀野さん、少しよろしいですか?」
「その声は、佐崎さんですね。どうかされましたか?」
「一つ、お伺いしたいことがございまして。夜分に失礼かと思いましたが」
室内から聞こえてきた声は、落ち着いています。
「お嬢様の件でして……」
「……わかりました。人前に出られる格好ではありませんので、少々お待ちを」
「申し訳ありません」
嘘です。
室内からの物音は衣擦れではなく、硬質な響きに続いて、息吹。
行灯を一息に消したのでしょう。
私は懐の小刀に軽く触れました。久方ぶりの殺し合いですが問題はありません。有用な情報が得られると良いのですが。
「どうぞ」
「失礼します」
開かれた扉の先は想像通りの暗闇。
そこから短い気合いと共に突き出されたのは、杖でした。
神道夢想流などが使う四尺ほどの棒です。刃のない単なる棒ですが、熟達した者が使えば恐ろしい武器となります。
突かば槍、払えば薙刀、持たば太刀などと言いますが、その通り変幻自在。
ですが、私には当たりません。
「ちっ!」
津賀野の舌打ちを聞きながら、前へ踏み込む。
杖が相手なら、振り回せる間合いを無くすのが肝要。
柔術の如く足を絡めて転ばせ、懐から抜いた小刀を首へと当てながら押し倒しました。
津賀野は杖を盾にして辛うじて小刀を止めていますが、このまま膂力で押し切れば喉笛を斬りつけることは容易です。
「直ぐには殺さん。聞きたいことがある」
「やはり、ただの執事では無かったのですね……!」
「それはそちらも同じこと」
至近から睨みつける津賀野の相貌は、まるで狂犬の如き凄絶なもの。怒りに震える私も同じような顔であるはず。
互いに息が届く距離で私は口を開きました。
「「お嬢様はどこだ」」
はて、奇妙なことが起きました。
私と同時に、彼女も同じ言葉を口にしたのです。
「何を言っている」
「あなたこそ……お嬢様を誘拐したのはあなたでは?」
「なんと……」
私は眩暈を感じてよろよろと立ち上がり、溜息と共に小刀を懐に納めました。彼女は確かに普通の女中ではありませんでしたが、下手人ではなかったのです。
危うく以前と同じ過ちを犯すところでした。苦い記憶に残る戦いでの過ちを。
気付けば、津賀野さんも立っていました。
メイド服の裾を叩いて埃を落とし、警戒は解かぬまま私を見据えています。
「申し訳ありません。お嬢様を誘拐した一味の者かと」
「わたしは政府筋から派遣された者です。あなたもですか」
「私は旦那様の執事です。それ以上でもそれ以下でもありません」
「信じられません」
暗闇での戦闘技術と奇妙に歪んだ小刀、ただの執事ではありえない、と。
津賀野さんは私を疑っています。当然のことです。
しかし、私に話せる過去などありません。
「過去の私は、御一新で死にました。今はお嬢様の救助を願う中年の執事でございます。此度は誠にご迷惑をおかけいたしました。それでは」
「待ってください、佐崎さん」
政府の犬とはいえ、彼女も仕事でやっていること。旦那様に迷惑をかけないのであれば、放っておいて良いでしょう。
とはいえ迷惑をかけた手前、呼びかけを無視するわけにもいきません。
「……何でしょう」
「お嬢様を探しに行くのでしょう。同行させていただけませんか」
急な提案に驚いていると、彼女は続きを話し始めました。
「今回の件、警察も信用できない点があります。ただ、今は調査室も人手が足りません。わたしと同じようにお嬢様の身を案じておられるなら、協力すべきだと思いませんか」
まず考えたのは、彼女を信用できるだろうかという点。ですが、裏切るなら殺せば良いのです。簡単なこと。
「わかりました」
「ありがとうございます。それと一つだけ、聞きたいことが」
緊張した様子で津賀野さんが口にした通り名は、懐かしい響きでした。
「幕末の頃、『黒旋風』なる人斬りがいたと聞いたことがあります。音もなく近づき喉笛を切り裂く技で開国派の要人を始末し……」
津賀野さんは話しながら行灯を点け、私の顔を見て声を詰まらせました。
私はそのとき、泣き顔とも笑い顔ともつかない表情だったと思います。
「黒旋風など、居ませんよ。そんなのは江戸時代のおとぎ話です。そう、あんな男は明治の世には必要ありません。ですがもし、万が一、お嬢様の身に何かあったならば……」
昔の私に戻ることになるでしょう。
「さ、過去の亡霊が出番を迎えないうちに、動きましょう」
どうかお嬢様がご無事でありますように。
どうか悲しみが喜びで塗り替えられますように。
旦那様とお嬢様のために、私の持つものは全て捧げましょう。
侍の名を失い、罪ある身ながらここまで生きながらえてきたのは、きっとその為なのです。
私が思うに、使用人の幸福はそういうものなのでしょう。
侍ではなくなった私ですが、どうやら最期は満足して死ねそうで、ありがたいことです。