王立魔法省に課されたミッションは月へ行って石を持って帰ること。隣国よりも先にね!
賢者ジダールによる「月へのゲート」を開く試みは、ジダール本人やバークレー王を巻き込む大惨事を引き起こした。それから十年。国力の衰えた城塞都市国家シュタークが隣国との戦争を回避するために、バークレー王の孫娘リルム王女は、隣国との間で契約を交わす。それは、どちらの国が先に月の石を持ち帰るかで勝負するというものだった。
リルム王女は賢者ジダールの孫のカイトを王立魔法省に招きいれ、彼の転移魔法の力を借りて月へ行く方法を模索するのだった。
「どうやって?」
「行くのよ。転移魔法でね」
「転移って……いったい月までどれだけの距離が……」
「知らないわ。まずは、そこからよね」
転移魔法で王国の東端と西端へ飛び、そこから見えた月の角度で月までの距離を割り出す。
その距離、ざっと八万リーグ。
「四百回繰り返せば行けるわね」
「無茶です」
魔法と科学が共存する世界を舞台に少年と少女の月を目指す冒険が始まる。
奇妙な爆発だった。「爆縮」と言うべきか。千年に一人の大魔道士と称された賢者ジダールが闘技場の中央に開けた「月へのゲート」は、居合わせた人々ばかりか辺りの大気すら飲み込み、大きな嵐を引き起こした。
最初の犠牲者はジダール本人だった。ゲートのいちばん近くに居た彼が真っ先にゲートに吸い込まれた。続いて特等席で見物したいと、そばにいたバークレー王とその側近たち。少し離れて控えていた重装備の近衛兵たちも、ゲートに引き寄せられた。互いに腕を絡ませ抗ったが、敵うものではなかった。金属の軋む耳障りな音、武具の中で人体の損なわれる不快な音。彼らの発する叫び声。それすらもゲートは飲み込んでいく。
「あなた!」
「皇后殿下! 危のうございます!」
側近たちは観覧席から闘技場へ降りようとする皇后を押し留めるのに必至だった。そのため王の孫娘が嵐に投げ出された時、そばで助けられる者はいなかった。
「リルムさま!」
闘技場には大きな風の渦ができていた。少女は観覧席の縁を周回する流れに捉えられ……人々の手の届かないぎりぎりを舞った。
観覧席から身を乗り出すと我が身を危険に晒してしまう。椅子にしがみつき、己の安全を確保しながら手を伸ばしたところで……そんな躊躇いがちに差し出された手が少女に届くはずもない。
「リルムさま!」
「リルムさま!」
少女が糸の切れた凧のように飛ぶ後ろを、人々の叫び声が虚しく追いかけていく。
その時だった。
一人の少年が。自分の眼鏡が吹き飛ばされるのも厭わず吹き荒れる嵐の中に飛び込んだ。
「つかまれ!」
少女は空を泳ぐように手足を掻いた。しかし、思うように距離は縮まらない。風まく嵐の中で二人は徐々に闘技場の中心へと引き寄せられていく。
中心部に近づくに連れて、二人の回転は増していく。ついにゲートが二人を飲み込もうとした、その時。
「サルト!」
少女の手が少年の指先に触れたその一瞬、少年が念を放つ。そして二人は闘技場から姿を消した。
☆
「うぅぅ……」
そこは闘技場のすぐ外だった。
少年が使った「転移魔法」は、自分を中心とした特定範囲を、離れた別の空間の物質とそっくり入れ替えるもの。二人での転移は初めてだった。咄嗟に転移範囲を広げたものの……少女の両足は……その膝から下は闘技場に置いてきてしまった。
ぱっくりと切断された両足を抱え、うずくまる少女。一方、少年は……。崩れた闘技場の外壁に体が埋まり、呼吸すらままならない。
「ごめん……こうするより他に……」
苦しい息の間から少年は少女に侘びた。
「私よりあなたの方が死にそうじゃない」
「平気……もう一度転移……から……」
年の近い女の子の前で、少年は精一杯強がった。
「そうして今度は木にめり込んだら?」
「もう一度」
「崖の上だったら?」
「もう一度」
「なるほど……」
「すぐに人を呼んでくる……サルト!」
少年は闘技場の外壁に兎の穴のような跡を残して消えた。
☆
ゲートはジダールを飲み込み十秒程で閉じたが、王や側近、たくさんの近衛兵を巻き込む大惨事となった。栄華を誇ったシュタークは、王と大魔道士を同時に失い、それまでの権勢が削がれてしまった。以来十年、辛うじて隣国からの侵略に耐えてはきたが、見る影もない弱小国家と化してしまった。
城塞都市国家シュターク。その中心にある王城の西翼の端に王立魔法省はあった。十年前の事件以来肩身が狭く、細々と基礎魔法の研究や、魔具の開発を行うだけの構成員僅か三名の機関だ。しかし、今日は突然の来訪者に、みんな浮足立っていた。
「皇女殿下。月って……あの?」
省長のジルギスが戸惑いを隠せないといった表情で天井を指差す。
「そう。あの月よ」
「よりによって、なぜ? 十年前の……」
「もちろん。忘れてなんかいないわ」
副長のオリディアにそう言うと、王女は車椅子に座ったまま、太ももを前に突き出して、膝から下の失われた両足を持ち上げてみせた。
その様子に、魔法省に入省したばかりの見習い魔道士カイトは眼鏡を曇らせ俯いた。
――僕のせいだ。
とても王女との十年ぶりの再会を喜ぶ心境ではなかった。
「隣国のガルス共和国とは、国境のラクーアの領有権を巡って長年争っているのは、皆も知ってるわね?」
省長のジルギス、副長のオリディア、そしてカイトはコクリと頷いた。
「もうね。このままでは戦争を回避できそうにもない情勢なのよ。そこで提案したの。シュタークとガルス、どちらが先に月の石を持ち帰るかで勝負しないか、とね」
「なるほど。代理戦争ってわけですか」
「理由はわかりましたが……あのジダール様ですら失敗したのに……」
ジダール……祖父の名が出たことで、カイトはぎくりと目を見開いた。
「見ていただきたい物があるの。ご足労いただけるかしら?」
そう言うと、リルム王女は車椅子の向きを変え、魔法省のメンバーに付いてくるよう促した。
☆
「始めてちょうだい」
栓の閉められたガラス管で繋がった二つのガラス球があった。一方のガラス球にだけピンク色のガスと沢山の紙片が入っていた。もう一方は手回し式のポンプに繋がっていたが、中には何も入っていない。
「えー、皇女殿下のご指示を賜り、本省で作成いたしました。ポンプで中の空気を吸いだせるようになっておりまして……」
物理科学省の職員がハンドルを回しながら解説を続けた。
「逆止弁がついており、どんどん空気が抜き取られます」
カイトたち魔法省の面々は、何が始まるのかと装置を食い入るように見ていた。
「こんなものかな。さぁ、眼鏡くん。真ん中の栓を回してくださる?」
指名されたカイトは、なぜ自分なのかと訝しみながら、おそる、おそる手を伸ばして栓を開いた。ポンッと大きな音と共に、ピンクのガスと細かい紙片が一方のガラス球から吸い出されて、何もなかったガラス球に充満した。
「うわっ」
その勢いにカイトは驚いた。
「ね?」
「なにが……?」
なにが、「ね?」なのか分からず、カイトは相手が皇女殿下なのも忘れて聞き返した。しかし、思い当たる記憶に触れた。
「あっ!」
リルム王女は、にこりと微笑み、もう一度言った。
「ね?」
今度はカイトにも分かった。
「月のゲート……」
「そう! 驚きよね。月には空気が無いのよ! だから、こんな風にゲートに吸い込まれちゃったわけ!」
☆
「月に空気が無いのは分かりましたが。そもそもジダール様ほどの魔道士は国じゅう探してもおりません……」
「月の石を持ち帰る勝負は分かりましたが……どうやって?」
省長と副長が王女に質問を浴びせた。
「ゲートは使えない。そもそもゲートを開ける魔道士もいない。なら。行くしかないでしょ?」
「どうやって?」
今度は省長の質問を聞き流し、王女はカイトに目配せした。
「行くのよ。転移魔法でね」
「ちょ、ちょっと待ってください。転移って……いったい月までどれだけの距離が……」
「知らないわ。まずは、そこからよね」
☆
ローリエの枝を芯材に、宝玉をはめ込んだ特別あつらえの杖を振ると、カイトの回りにゆらりと空気の流れが現れ銀髪がなびく。流れは徐々に強くなり、周囲に大きな風のうねりが巻き起こった。
「瑠璃の空を統べる精霊王エアリウスよ。琥珀の地を統べる精霊王ラグリスよ。我に空地渡りの力を与えん。サルト!!」
詠唱を終えた彼は、念を一気に開放した。
疾走! 飛翔! 鼓膜を破らんばかりの轟音! 身体の芯にずしんと響く振動! それらはすべて一瞬の出来事だった。……そして海水!
――海!?
魔法発動直後の硬直で身動きのできないまま、カイトは押し寄せる海水に包まれ、底へ沈んでいく。
転移魔法は、離れた二つの空間の間で物質を入れ替える魔法。今頃、魔法省の中庭には、すり鉢状の穴が開き、そばにいた省長と副長は、大量の海水を浴びているだろう。
――副長、服が濡れて怒ってるかな。
彼と一緒に転移してきた周りの空気は、細かい泡となり、海面目指し駆け上っていく。見上げるカイトも、硬直の解けはじめた手足をばたつかせ、泡を追いかけた。
――東へ転移して……海に落ちた。ざっと二百リーグは飛べたのか。新記録だ。これまで、せいぜい五十リーグだったから約四倍。さすが省長お手製の杖と副長が編み出した詠唱は凄い。
「ぷはぁっ!」
日の出前の薄明りの中、陸地は近かった。
☆
地理省から借りた計測器で空にかかる月を捉え、水平、垂直の角度を記録する。次は国の西端でも同じことを繰り返す。
こうしてカイトが持ち帰ったメモから月までの距離を計算することに成功した。その距離、ざっと八万リーグ。
「眼鏡くんの転移魔法が二百リーグだから……四百回繰り返せば行けるわね」
「無茶です」
「やるの。転移距離を伸ばして回数を減らす。空気が無いからそれも持っていく。他にも課題はあるだろうけど。一つずつ解決していくの」
「でも月は……先代の王がゲートに吸い込まれたのは僕の祖父のせいで……」
「まだそんな昔のことを気にしてるの?」
「……皇女殿下の足も……」
「そうよ。眼鏡くんが私を助けてくれたのよ」
「ですが……」
「今度は、この国を救ってくれない?」
そう言うと王女はニコリと微笑んだ。
その頃。隣国ガルスで内燃機関による飛翔体が打ち上げられた。