122 わかる事、わからない事
本日の練習会。
体の軸をコントロールする練習を行った。
師匠「体の外に軸を出してみろ、ポールの周りを回る要領で体を動かせ。
ポールダンスの要領だ」
できなかった。
………うーん、こまった。
師匠は、これまた習っている方が申し訳ないぐらいに、
とても懇切丁寧に指導してくれるのだが、
それでも出来ない。
しょうがないので、師匠はそれに連なる別の事を教え、
それは、何とか出来た。
しかし、何故、出来ないのだろうか、という話になる。
あれ程、師匠が頑張って教えてくれているのに。
でもって、昔、師匠が生徒の側に、聞いてきたことがあった。
「わからない、っていうのは、どういう風にわからないの?」
「俺は、この説明で、なぜ出来ない人間がいるのか、わからない」
「お前等は、わからない段階から、わかる様に変化した事を何回か体験している。」
「だから、わからない状態からわかる状態に、何が原因で変化したのかわかるのではないか?」
さて、これもまた、困った。
一緒にその質問を聞いた生徒一同わからない。
というか、
何でも「わかる」様な師匠が「わからない」事を、
何にも「わからない」生徒がわかるわけもなし(欝)。
昔、太極・陰と陽の理論で、
勘の良い生徒が、
師匠の説明………
物事には、『ある』と『ない』と『そのどちらでもない』の三つがある……
という事に対して、
生徒「じゃあ、『無い』ものってのは『無い』んですね」
と言って師匠を感心させたことがある。
確かに『無い』という存在がある。
無い、というものは確かに『有る』
無ければ、無いというモノは無い。
無いというモノが有るからこそ無い。
そのどちらでもない事も存在する。
(あーややこしい)
要するに『無い』という言葉で表現できる何かが『有る』
ということは、
「わからないと言う事はわからない」
のだろうか?
「わからない、という状態を具現化させる方法論はわからない」
と言うことなのだろうか?
量子コンピューターが、
「どちらでもない」を作ることができなくて、
結局、「ある」と「ない」の二進法しかできなくて、
夢の高速コンピューターが失敗したように、
わからないと言う事が、理解できないと言う事の本質であって、
わからないと言う事をわかることが出来ない、という事になるのだろうか。
『無知の知』があるじゃないか、と言う無かれ。
その無知の知を極限まで進めた師匠が、
生徒の『わからない』がわからないのだから。
いやでも師匠の、数少ない『わからない』事の一つである、
「生徒が、何故わからない」
これが何とかならないと、生徒の方も死活問題なので、
足りない頭を総動員して、考察。
………
アプローチ:1
師匠の『わからない』は、
生徒の『わからない』に対して、決定的に違う様な気がする。
師匠のわからないは、単に、情報が足りないだけ。
師匠は、見たモノ、体験したモノを、短時間で吸収、体現する。
出来ないのは、見てない、体験していないだけ。
対して、生徒は、正しいはずの師匠という情報を吸収・体現する事が出来ない。
アプローチ:2
………
師匠が『今まで俺は間違えていた』
という趣旨の発言をしたことがある。
数少ない、師匠の『間違い』
唯一に我々生徒が理解できるのは、
『間違い』しかない生徒の我々が理解できるのは、
師匠が『間違えた』その事例なのではないか?
ということで、こっちから探ってみる。
師匠曰く、
「一番最初に入れた、情報そのものが間違っていて、今まで俺はそのプログラムで、
芸事のその部分を色眼鏡をかけて見ていた(馬歩についての発言)」
アプローチ:3
一応、武術以外で、私が何故か出来るようになった事の、
体験談から考える。
出来るようにするための方法論。
車椅子の『キャスター上げ』という技術がある。
リハビリ関係の専門学校時代に出来るようになった技術で、
かんたんに言うと、車椅子の『ウイリー』である。
屋外での段差越えや溝越え(前輪はちっさいので引っかかる為)
若い車椅子生活の人が収得する技術なのであるが、
学校の先生から、
「患者に教えられる様に、出来るようになっておけ」
と言われて体得した。
方法、
車椅子の後ろに台を置いて、
キャスター上げの状態から、
バランスを崩して後ろへ倒れる距離を2~3センチに留め、
前方向は足でつま先で支え、
バランスを崩して前に倒れる距離を2~3センチに留め、
ただ、ぼ~っと二時間ほど、
その二つの前後2センチの間を、ギリギリ小さい振れ幅で
行ったり来たりしていたら、
出来るようになった。
前に駄目な位置←→良い位置←→後ろに駄目な位置
これを出来るだけ小さい振れ幅で2時間ほど、体に情報を入れ続けた。
*****情報入力?******
イメージで体をコントロールする方法も、
普段、さんざん体に情報が入力されている、
「AT車のギア変えの動き」
は、正確な動きが出来、
テレビで見たことしかない、
「ガンダムの操縦桿の操作」
では、まともな動きが出来ない、と言う事、
(人間離れしたイメージ能力を持つ師匠は別に、あくまで生徒レベル)
体に、ちゃんと正確な運動情報を大量に入力しておく必要があるか?
アプローチ:4
情報入力の観点から、
軸のコントロールが上手くできなかった事について考えてみた。
軸運動の体得について、色々考えているうちに、
一つ気が付いたことがある。
ポールの周りを巡る。
どうも、小さい頃の遊具
(あのぐるぐるまわるやつ、最近は指を子供が怪我をしたとのことで、
撤去や固定化されたのが殆どだが)
あれに掴まって「遠心力」を感じていたのが原因かもしれない。
ポールを巡る事をイメージすると、
どうも、体が遠心力を思い出す、
体に入った小さい頃の『情報』が、
遠心力のプログラムを走らせている可能性がある。
会の最大の原則の一つ、
「使う力は求心力」
ロケット衛星が地球に落ちながら、周りを回転する事で、
地球にぶつからない。
そのイメージが、求心力の一つだが、
ポールの周りを巡るときに、
ポールの中心に向かって、求心力のプログラムを走らせることが、
足らなかったのかもしれない。
現在、自己プログラムのポール運動に、
軸中心への求心力(というか重力?)を追加して、
ソフトウェア修正中。
これで上手くできるようになるかどうかが、
今回の考察がうまくいったかどうかを知る一つの方法。
わからない、というのは、もしかしたら、
会の持つ『原則的な体の使い方』
に対して反するプログラム、
『勘違い』と言う名のバグが、
師匠の指導の情報入力に対して、はじいてしまう方向に働いているのかもしれない。
軸運動の体得に対して、
師匠の指導をはじいてしまう致命的な、バグ『勘違い』
その除去作業が必要。
除去作業のためには、勘違いの入力にかかったデータよりも、
遥かに大量のデータを入力する必要がある。
この手の作業は、私的に、
「約半年のタイムラグ」
が有るのがわかっている。
(私の脳味噌CPUはかなり古いので余計)
しかも、おそらく、バグは、
もっとたくさんあるだろう事が予想される。
勘違いバグは、せっかくの師匠の指導プログラムを、
色眼鏡をかけて見るように、はじいてしまう。
さて、今回の話のオチだが、
これは、師匠自身が既に答えをはじき出している。
(間違いの所で、既に正解を発言している)
「わからない」というのは、
情報が足りない、(師匠の場合)
生徒が情報が足りないのは、
師匠から与えられた正確な情報を入力できない、
はじき出している。
それは、いままでの常人としての生活のなかでつちかった、
武術としては『勘違い』な体の使い方の情報が、
色眼鏡として、正しい情報が入力されるのをはじいてしまっている。
生徒にとっての『わからない』は、
『間違っている』と同義。
間違った情報が、常に正解の情報をはじいてしまっている。
とまあ、ここに到達。
到達した後で、ぶちぶちと、一人で文句をたれる。
「なんだよ~、結局また、『師匠の言うとおり』ってオチじゃないかよ~」
でもまあ、少し安心でもある。
このオチにたどり着いた場合、大概が『正解』だったりするから(笑)
というか、これ、『押すな』の時に答えを聞いている気がする。




