106 作為・無作為、自然・不自然
以前書いた、作為・無作為(自然・不自然)に関する考察。
藝事における、
『達人』を評価する言葉に、
「動きが自然で無駄が無い」
というのがある。
昔は気にも留めなかった。
というか、意味が解らなかった。
「人間だって大自然の中から生まれた生き物の一つでしかない。
だったら普通に動くそれ自体が全て既に自然ではないか?」
と思っていた。
後の
『作為、無作為』
で、ある程度理解できた訳であるが、
まだ、『どこからどこまでが、どのように無作為的・自然か』
が解らない。
故に考察してみる次第。
解く鍵となるのは師匠の実践する藝事そのもの。
作為的で不自然な技術は、相手の抵抗が発生する。
今まで藝事の師匠が教えてくれた事、
説明してくれた事が理解するヒントになる。
虎が獲物を狩る動きは自然。
しかし、藝事で、
相手に何かしようとする事は作為的で不自然。
飛行機が空を飛ぶのは自然、
飛行機は人間の意図により作られたものだが、
自然の法則に則っている。
でなければ、墜落する。
だから、自然。
航空力学という、自然の法則を調べ尽くし、それに沿う様に設計された訳で、
自然であろうと人が知恵を絞り尽くした、結果である。
藝事の達人も人が自然になろうとした結果かもしれない。
(自然の法則を調べ尽くし知恵を絞った)
特に象形拳。
人間ではない動物の動きは自然。
その動きの法則を観察し尽くしたものが、
螳螂拳等、
比較的人間に近い類人猿を模した猿拳
(人間は、いったいどこから自然を失ったのだろうか?)
なお、
藝事の『型』は、
K先輩によれば、
「師匠の行う、あるいは師匠の教える型、と注釈を付けなければならない。」
との事。
(あるいは芸事の達人クラス、ということだが、習える人間は
私には師匠しかいないので、
他の人間は参照不可能。
(そもそも私では自然・不自然が判断不能)
と言う訳で、
『師匠の教える型』
について。
「型は中道と言って、基本的に型どうりに動けば技はかかる‥‥‥
って、こら!型を変えるな!」
とは、相手に技を掛ける際に一番最初にされた注意。
型を使って技をかける練習をする時点で、
どうしても型の動きから外れてしまう。
師匠「目を閉じて、相手関係無しに型そのものをやれ」
と、勝手に型をやらせて、
そこに手を突っ込ませると、技が掛かる。
‥‥‥‥人と掛からない人がいる。
師匠「だから、触った瞬間に相手を意識して、相手をどうこうしようとするからだ!、
相手を無視できないな~」
と言われて十年余り。
ようやく、
相手をどうこうしようとしない、
無作為的な動きに話題が進んだ訳であるが。
(出来るわけではないのが悲しい)
さて、この辺で私の定番の一言。
『やっぱりこれも、一番最初の頃に既に教えられていた事かと
自分の聞く耳の無さにガックリする』
さて、落ち込んでいても時間が戻る訳でなし、
考察。
技の練習で、
『相手をどうこう』しようとしなければ、技は掛かる。
技は効く。
どう言ったレベルで『相手をどうこうしようとしない』
のか?
師匠がよく技の練習の時に指導するのは、
『違うジャンル』の動作。
一例として、
相手の手を取って真下に落とす動作。
(最後の部分だが、ここが不自然だと技が掛からない)
ここで求める軌跡は下への正確な直線
相手をどうこうしようとしていると、
軌跡は円弧になってしまい、効かない。
そこで師匠が指導したのは、
『バスケットボールのドリブル』
これも以前書いたが、
『相手をどうこうしようとしない‥‥』
と頭の中で『相手』という言葉を思っただけで、
自分の身体は相手に干渉してしまうという困った現象発生。
そこで師匠が指導した方法は、
師匠「はい、相手から目を離して~歌いながらやれよー」
あんたがったどっこさ~♪
師匠「やれ!」
すとん。
見事、正確な軌跡を描いて、技が掛かった。
技が、掛かったのである。
(大事なことだから二度書きました)
バスケットボール。
ドリブル自体は、ボールに対しては作為的だろう。
しかし、藝事で技を掛ける相手に対しては、無作為的と言う事になる。
その中で、
特に、身体に染み着いた動作がよく効くと言う事がある。
かつてA先輩を相手に試して(&試されて)見たこと。
A先輩は工業関係の仕事。
私は医療、介護関係の仕事。
やることは、
ただ相手を真っ直ぐ押す事。
やったのは、
私『車椅子を押すつもり』
A先輩『工業材料を押す台車をおすつもり』
両者、成功。
ところが、逆にすると駄目。
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ちなみに師匠の場合は、イメージをする事の技術そのものが卓越している為、
何をイメージしても大概上手く動けてしまう。
イメージの使い方は、無作為的な動きを作る方法論の一つを持っているのかもしれない。
私達の様子を見て、師匠が言う。
師匠「そういうイメージの貧困さを、『だだくさ』と言う。」
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話を戻して、
八光流柔術の『心的作用』
手を上げるのに、
『お化け~』とやったり、
手を返す動作に
『手鏡を覗く』とやる。
これも、また、
相手に対する作為を無くす為の方法論を含んでいるのではないだろうか?
イメージの中で、
食事の時の箸の出し方や、
ビールを飲む時の手の出し方、
というのもある。
酒豪で有名な大東流合気柔術六方会の岡本正剛宗師は、
「合気上げは酒を飲む動作、合気下げは酒を注ぐ動作」
と言っている。
(宗師にとっては最も自然かつ功夫のある動作であろう)
ちなみに、これ等の動きに対して、
技を受ける方が、
『意図を合わせる』と、『対抗』出来るらしい。
例えばバスケットボール
受ける方が相手のイメージしているボールを奪うつもりで動く事で、
『互いにボールを取り合う』
互いに『相手に作為的』になり、抵抗が発生する。
また、よりイメージがリアルな方が勝てる。
(もっとも、相手のイメージなぞテレパシーでも使えないと見えない。)
この上位に
『相手を無視してただ師の型どうりに動く』
があるのかもしれない。
さて、次、
自然の法則に則って動く事。
宇宙の真理、
法則
自然の法則、
真理
『世界のルール』
ルールブックで勉強して、
ルールを知って、
初めて行けるステップがある。
野球でも三振してまだバットを振ろうとしていれば、
試合自体に出してもらえない。
裁判だって適切な書類を出さなければ起こせない。
藝事を通して宇宙の真理に到達するには、
自然の法則を体現しなければならない。
自然という名前のお役所に提出する書類の、
書式や印鑑や手数料を知らなければならない。
自然界という業界の中で通用する通貨を持たなければならない。
藝事は楽屋裏、普段の生活が本番(心形刀流の達人の言葉)
双方向性で、
藝事を極めるには宇宙の真理、自然の法則を理解する必要がある。
自然である事。
相手をどうこうしようとしない、無作為的である事。
武壇の徐紀老師が武術誌で語った事
(おそらく劉老師から聞いたのだろう。)
何故あなたは武術をやるのか?
自己修練の為?
違う。
誰かを倒す為、
強くなって誰かに尊敬して貰いたい為
つまり、武術をやるのは、自分の修練のためではなく、
他人のためであった。
ただ、私の師匠によれば、
「そんなのは当たり前」
と言い切る。
そして、そこから先があると。
師匠の言葉、
「他人に勝ちたいから武術をやる。
その上で、他人をどうこうしようとすると勝てないから、
それを捨てなければならないから、捨てた。
他人に勝つためにそれしか方法がないのだから、
捨てるのは当たり前。
他人に勝つために、何でもやるなら、当然」
当然、必然、……自然。




