八月一八日⑤
労働基準監督官は、入省してから最初の七年間は全国の労働局のうち二箇所で勤務し、それを終えた後は、定住を希望する労働局で定年まで勤務するという人事慣行があった。なかには、途中で本省への異動を希望し、このルートから外れ、退職まで本省と全国の労働局を回り、幹部を目指す者もいた。入省してから、埼玉県朝霞市にある労働大学校で約三ヶ月間もの間、一緒に起居を共にした同期は、全国に散らばった後も仲間意識が強かった。
本橋は自席に戻ると、端末から山形局の職員リストを検索した。何人か見覚えがある同期の名前があった。職員数が多くポストが足りない東京のような大規模局と違い、山形局では本橋の同期も既に署の課長職に就いていた。
南陽労働基準監督署 監督課長 御子柴慎吾
その名前を見た瞬間、本橋の脳裏に、毎朝GIOSのロードバイクで研修所の門を出て行く御子柴の後ろ姿が思い浮かんだ。酒は飲まなかったが付き合いがよく、ウーロン茶を飲みながら二次会まで参加していた。高校の頃に自転車で長距離通学したことをきっかけに、大学時代はバイトで稼いだ金でカーボンフレームのロードバイクを買ったことを楽しそうに話していた。結局、研修中も自転車に乗りたくてたまらなくなり、最初の週末に池袋まで出かけ、鮮やかなブルーのGIOSを買ってきた。研修所では、自転車に十万円も費った御子柴をからかっていたが、御子柴の勧めで試乗させてもらうと、皆それまでの自転車とは異次元の軽さとスピードに感動し、一時期は夜になると集会室で自転車雑誌を見て、どの自転車が好きかとか欲しいとか歓談するのが流行った。本橋も一時期は購入を目論んだが、初任地の新潟では、車が無いと仕事も生活もままならなかったことから、選択の余地なく自動車を買うことになった。翌年、御子柴が地元の自転車競技大会に参加した時のスナップ写真を印刷した年賀状を送ってきた頃、本橋は先輩から格安で譲ってもらったホンダのインテグラタイプRで、ヒールアンドトゥーの練習に明け暮れていた。アクセルを踏むと乾いた音を立てながら回転を上げていき、カムが切り替わって狂ったように吹け上がっていくVTECの音が好きだった。
本橋は受話器を取り上げると、御子柴のアドレス帳に表示されている電話番号を押した。二回ほどコール音がした後、「南陽労働基準監督署御子柴です」と聞き覚えのある声が受話器から聞こえた。
「杉並署の本橋です。久しぶり」
本橋がそう言うと、御子柴は親しげな口調になった。
「本橋か。久しぶりだな。元気にやってるか?」
「どうにかな。相変わらず、元気に自転車こいでるか?」
「最近は仕事が忙しくてな。通勤で片道三十キロ位走ってるくらいだよ」御子柴は快活に笑った。
「俺に言わせれば、十分だと思うけどな」
「それで、突然どうした?」
「実は頼みごとなんだ。うちで発生した事故の被災者の遺族が山形に住んでいるんだが、その事案、どうもきな臭いんだ」
「きな臭い?」
「ああ、詳細は長くなるからメールで送るけど、御子柴にその遺族の身辺を洗って欲しいんだ。とは言っても、その遺族が実際にそこに住んでいるのか、それとその遺族がどういう感じの人物かを探ってもらうだけでいいんだけど」
「その遺族とやらに、俺が正面から会うのはマズイのか」
「そうだな。俺の勘が外れた場合、理由なく疑いをかけたことを非難される可能性がある」
「なるほど。どちらにせよ、協力するよ。具体的な情報をメールで送ってくれ」
「ありがとう」
「同期じゃないか。当たり前だろう。今度、こっちに遊びに来いよ」
「御子柴もな」
短い会話であったが、本橋はつい昨日、御子柴と顔を合わせたような錯覚を覚えた。受話器を置くと、本橋は端末に向かい素早くこれまでの経緯をまとめた。




