八月一七日⑬
「そうそう、そろそろ看板にしてくるわ」
ヒロが経営するバーには、LBGT(性的少数者)が集まってくる。自身もGID(性同一性障害)であるヒロは、同じようなマイノリティの苦しみや悩みを良き理解者だった。仲間が仲間を呼び、今やヒロはこの界隈のLBGTの有名人だった。仲間が安心して交流を楽しめるよう、ヒロは午後一一時に「CLOSE」の看板を出し、一般の客をシャットアウトする。それ以降は、ヒロから鍵を受け取った人物とその紹介者しか入れない。本橋もヒロに誘われたことがあったが、聖域に無遠慮に立ち入りたくない、と断った。ヒロは高校の頃、自分の中で日に日に大きくなってくる女性としてのアイデンティティが、男としての外見を激しく否定するようになり深く悩んでいた。本橋は、ヒロに自殺をほのめかされたこともあった。ヒロにとって救いだったのは、女手ひとつで育ててくれた母、春海が看護師でヒロのGIDに全くの無理解ではなかったことだった。「とにかく、大したことじゃないわよ」と慰められて救われた、そうヒロは言っていた。実際には外科の病棟看護師だったので、当時は同僚の看護師に聞いた程度の知識しかなく、良く分かっていなかったという後日談もおおらかな彼女らしかった。
本橋は、看板を掛け替えに行くヒロと一緒に店の外に出た。向かいの雑居ビルの壁面に無秩序に取り付けられている室外機からタバコの臭いと熱風が吹き出ていた。
「そういえば、春海さん元気にしてる?」
「元気元気。どこからエネルギー湧いて出てくるのかね、っていうくらい。エイジに会いたがってたよ」
ヒロは、タバコに火をつけた。
「最近、ご無沙汰してたからな。また特製のかつ丼をご馳走になりに行くかな」
「言っとくよ。最近、エイジが来ないから寂しがってる。今でも自分が学費出してあげるって言ったのに、何で大学行かなかったんだろうって、自分のことにように悔しがってるよ」
「行くたびにその話をされるよ」本橋は、苦笑した。「もうあれから十年以上経つのにな」
「母さんから見れば、私たちはいつまでも子供時代のままってこと。特にエイジのご両親が事故で亡くなってからは、自分の息子だと思っているのよ」ヒロも合わせるように苦笑すると、短くなったピースを親指と人差指で摘んで吸った。
「じゃあ、またな」
「気をつけて帰って。おやすみ」
本橋は、背後でヒロの店のドアが閉まる音を聞きながら、路地を歩き始めた。




