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八月一七日⑫

「あらゆる可能性を否定できないさ。しかし、現場にはもみ合った形跡はなかっただろう。ここだけの話、検死報告書でも抵抗痕はなかったんだ。大体、幅七十五センチ、高さ百七十センチの狭い足場の上で、年配とはいえ抵抗する大の男を、手すりの隙間から突き落とすことができるだろうか」

「自分から飛び降りたとか?」本橋は、グラスの中で黄金色に光る氷を眺めながらつぶやいた。ふと、店内にスティーブマックイーン主演のブリットのサントラが流れているのに気づいた。入り口付近にいるヒロを見ると、澄ました表情でライムを切っていた。「スリリングな音楽で二人の会話を演出しようと思ったんだ」、ヒロの悪戯っぽい顔が目に浮かぶようだった。

「同僚の作業員の証言では、その日被害者は明るく振舞っていたし、特段おかしなところはなかったということだった。それこそ、娘が見つかって生きがいを感じていた被害者が自殺する理由があるか?」

 桐生は、タバコの吸殻を灰皿に押し付けた。

「思い当たらないな。自殺の場合、労災保険からも補償されないし」

「仮に被害者に生命保険がかけられていたとしても、やはり自殺では保険金は下りないだろうな。真実が自殺だったとしたら、誰も得をしないことになるのか」桐生は、カラカラとグラスの中で氷を回した。「なあ、誤解して欲しくないんだけど、結局事故死ってことにするのが、一番収まりがいいんじゃないか?」

「皆がそう思っている。それを一番知っているのは白岩じゃないかな」

本橋は、残りのバーボンを一気に煽った。

「白岩か」桐生は新しいタバコに火をつけ、「本橋さんに、オレにも危ない橋を渡れと誘惑されている気がするよ」とぼやく様に言った。

「嫌いじゃないだろ?」

「その手には乗らないよ」桐生は、かすかに笑みを浮かべ、タバコを吸った。そして少しの間、逡巡し、天井に向かって勢い良く煙を吐いた。「どちらにせよ、うちはガチガチのトップダウンの組織だ。動くためには、上司を説得できるだけの材料が欲しい」

「それを探すのが刑事の仕事じゃないのか?」

「ドラマじゃな。しかし現実には、どのヤマを追うか決めるのは上の人間さ。あの事件は、うち(警察)の中ではもう済んだ話になってるんだ」

「うち(労基)でも、それは同じだよ」

「なのに、単独で千葉に行ってるじゃないか」桐生は、愉快そうな表情を浮かべた。「うちでそんな独断やったら、懲戒処分もんだ」

そう言うと、桐生はタバコを灰皿に押し付け席を立った。

「負けたよ。見透かされているようでシャクだけど、正直俺もあの件は腑に落ちないところがあった。もう一度記録を見直してみる」

「こちらも何かわかったら連絡する」

桐生は、グラスを磨いているヒロに「いい店だった。音楽の趣味もいいね。また寄らせてもらうよ」と声をかけて店から出て行った。

ヒロが本橋の方に寄ってきて、桐生のグラスを片付けた。

「あの男性、なかなか男前だったわね。私の勘だけど、刑事さんでしょ」

「よくわかったな。だから、ブリットなんてかけたのか」

「気分が盛り上がるんじゃないかって。太陽にほえろの方が良かった?」

「それじゃベタすぎるだろ」

二人は楽しげに笑った。

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