表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/156

八月一七日④

「ごちそうさまでした」本橋は礼を言い、コップをカウンターに置いた。

「もう一杯飲むかい?」女性の親切そうな言葉に、本橋は素直に頷いた。本橋の右側でコンプレッサーが作動した音がした。そこには食堂でよく見かける、前面がガラス張りの引き戸の冷蔵ケースがあった。照明は消されていたが、中には缶ビールや缶酎ハイが並べられていた。本橋がコップを手にしたままそのケースの方に近寄ると、脇にノートがぶら下がっているのが見えた。本橋が片手でノートのページをめくっていると、背後から「お酒を飲んだら、そこに記録することになってるの」と、テレビの音と競うように女性の大きな声がした。

「結構、みんな飲むんですね」

ノートにびっしりと書かれたツケの履歴を見ながら、本橋も同じように大声で答えた。

「そうよ、せっかく働いて稼いでも、皆んな家賃、食事代、お酒代で会社に巻き上げられちゃうんだから」

女性は厨房のカウンターの下の潜り戸から食堂に出てきて、てきぱきとテーブルを拭き始めた。

本橋はノートを手に取り、日付を追いながらページをパラパラめくった。「七月二三日」、陣内が新宿を去った日だ。陣内の名前はなかった。「七月二四日」、一行目に「じんない」と書きつけられていた。ワンカップ酒を五合も飲んでいる。翌日以降も一行目に陣内の名前とワンカップ酒の消費履歴が書きつけられていた。やはり陣内は、八月一日以前からこの寮にいたのだ。本橋がそう思いながらページをめくると、七月三〇日を最後に陣内の名前はノートから消えていた。

 そのとき背後で、「今田のおばさんお疲れ」と野太いどら声が聞こえた。本橋が振り向くと、食堂の入り口にアイロンパーマの大男のシルエットが見えた。テーブルを拭いていた女性は、その男に「お疲れ様。白岩さん」とへりくだった様子で挨拶をした。白岩はそのまま本橋の方へ、ベニア板の上に薄い床を張っただけの床の上をゴツゴツと重い足音を立てて近づいてくると、意外にも好意的な口調で「おたく誰?」と尋ねた。

「お邪魔しています。労働基準監督署の本橋と言います」

身長がほぼ同じためか、二人の視線がまっすぐ交わった。喧嘩を売っているように思われるのは避けたかったが、相手に主導権を取られるわけにはいかないと思い、本橋はそのまま白岩を直視した。「労働基準監督署か……」白岩は、つぶやくように言うと、「ここじゃあなんだから、事務所行こうや」と、背中を向け歩き始めた。「じゃあ、今日も美味い飯をみんなに食わせてやってよ」白岩は、女性に芝居掛かった明るい口調で言うと、本橋を伴って食堂を出た。

 本橋は、白岩の広い背中を見ながら事務所に向かって歩いた。昔柔道か何かをやっていた時の筋肉が、そのまま脂肪になったように背中だった。薄緑色の作業着は、クリーニングしたてのようにシミひとつなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ