八月九日②
「やれやれだ」本橋が腰を降ろした途端、電話が鳴った。電話の相手は、杉並東警察署の桐生刑事からだった。
「昨日は、どうもお疲れ様でした」受話器の向こうから、昨日と同じくてきぱきとした口調の桐生の声が聞こえた。「ところで、労基の方では昨日の件、事件として立件しますか?」
「現段階では、安全衛生法違反は無かったということで、立件する予定はありません」
「そうですか。うちの方でも、昨日のうちに関係者からひととおり話を聴いたのですが、事件性無しと判断する見通しです」
「警察では、原因をどう考えてるんですか?」
「そこはハッキリしないままなんです。何らかの原因で誤って転落……としか」
「誤って転落するような状態ではなかったと思いますが……自殺とか他殺とかの線はあたってないんですか」
本橋は、昨日からずっと気になっていることを思い切って口に出した。
「自殺とか他殺ですか。ドラマとか小説とかではありそうな話ですが、ガイシャはホームレスから復帰して働き始めてまだ一週間、また最近になってずっと音信不通だった娘さんの居場所が判った、これからは頑張って働いて娘のところに金を送って今まで苦労かけた罪滅ぼしをしたいって、周囲に話していたことから、自殺の線はないでしょうね」
桐生は、にべもなく否定した。
「しかし、敢えて手すりを乗り越えでもしないと、あの場所から墜落することはないと思いますが」
本橋がなお主張すると、桐生は気分を害した様子で、
「自殺とか他殺とかは、うちの領域だと思いますが。こちらも曖昧な部分を残したまま、事件を取りまとめることは本意ではありませんよ。だが判らないまま終えるしか無いことだって多いでしょう。もしおかしいというのであれば証拠でも持ってきて下さい。では」
と冷たく言い放ち、電話を切った。桐生の言うことはもっともだ。しかし、この事件をこのまま終えることに、本橋は漠然とした違和感を禁じえなかった。受話器を置くと、その手で電話の手前に置いてあった時任から引き継いだファイルを開いた。会社から提出された被害者の健康診断結果のコピーがあった。身長一六五センチメートル。誤って墜落するためには、手すり枠を乗り越えなければならない。身長一六五センチメートルでは、腰より上に位置するはずだ。それでは仮に足場上でバランスを崩しても墜落するわけがない。




