8 一安心お肉
「奥様、そんなに落ち込まないでください」
放っておいてちょうだい……
私は屋敷へと向かう馬車の中で、1人ズドーンと落ち込んでいました。
ちなみに、今はエマと二人きりです。
あの人と執事のルーカスは別の馬車に乗っております。
あの後、私の魂の叫びによって、乙女の秘密の花園が切羽詰まっている事を知ったあの人とルーカスは、申し訳なさそうに慌てて道を開けてくれました。
私は、必死の形相でエマにおトイレを訴えましたわ。
そんな私に返ってきたのは、「奥様、ここら近辺におトイレはありません」というエマの非情な宣告でした。
ですが、そこで諦める私ではありません。
エマにドレスの後ろを持ってもらって必死に走りましたわ。
少しでも山小屋から遠ざかるように。
そして山小屋から大分離れた草むらで、私は無事に用件をすます事ができたのです。
……口に出して突っ込まないでほしいですわ。
淑女の恥です、黒歴史ですわ。
漏らしてドレスを濡らすよりはマシだと判断したのです。
戻ってきた私を出迎えたのは、あの人とルーカスの何とも言えない空気でした。
目をあわせられませんでしたわ。
むしろ、羞恥心で顔をあげられませんわ。
誰からともなく馬車に乗り込み、こうして屋敷への道をガラゴロと移動しているのですわ。
ええ、忘れてしまいましょう。
何もありませんでした。
何も、ありませんでしたのよ。
「今度から携帯トイレを持参いたしましょうか?」
「傷口をピンポイントでえぐらないでちょうだい!!」
「そんな事より奥様」
そんな事じゃございませんわ!
「遅れましたがこちらを」
そう言ってエマが差し出してくれたのは、包装紙に包まれた物体。
これはもしかして……
ガサガサと開けて見たら、中からは小さめのクルミパンが出てきました。
「冷めてしまいましたが、お腹が空いていらっしゃるでしょう?」
もちろんですわ!
私はクルミパンを口に運びます。
冷めて固くなってしまっていますが、それでもとても美味しいですわ。
こんなに美味しいクルミパンは初めて食べました。
「ありがとう、エマ。とても美味しいですわ」
「さようで。遅くなりましたが奥様、ご無事で何よりです。本当に、心配したんですよ」
私の手を取り、穏やかな微笑みを見せてくれるエマ。
その温もりに包まれた瞬間、私の瞳から涙が溢れ始めました。
エグエグとえづきながら、エマの手を握りしめます。
怖かった。
とても怖かったんですのよ。
乙女の花園が危機に瀕しているせいで、何だか余裕があるかのように振る舞えましたが、本当はとても怖かった。
貴族の矜持として、誘拐犯の要求に応じる事はできません。
拐われてしまった場合、『家』の名を汚さぬよう『死』を覚悟しなさい。と教わってきました。
その通り、教えに殉じようとも思いました。
ですが、怖かった。
とても怖かったのですわ。
生きていたい、死にたくない。
まだやりたい事がある、思い残した事がある。
会いたい人がいる、伝えたい思いがある。
「覚悟なんて……できなかったですわ……!」
子どものように泣きじゃくります。
「覚悟なんていりません。そんな覚悟しないでください。怖くて当たり前なんです。私は、奥様がいなくなるなんて考えたくもありません。生きてください。最後まで、諦めないでください」
私は、エマの手を握りしめながら、ずっとコクコクと頷きました。
私が泣き止んで落ち着くまで、エマはゆっくりと話をしてくれました。
さっきの執事のルーカスは、あの人が小さい頃からの専属執事らしいです。
見た覚えがあるような気がしたのは、私とあの人の結婚式の時に見た事もない男性が乱入した時に、エマと一緒に男性を引きずってたからでした。
何故私を見つけられたのか。
どうして、誰に誘拐されたのか等々は、屋敷に帰宅してからあの人が説明してくれるそうです。
エマが、「許せなかったら許さなくてもいいんですからね。仮面夫婦上等です。私が奥様を守ります」って鼻息荒く臨戦態勢だったのがとても気になります。
許すとは、誰をでしょう?
仮面夫婦がどうこう言ってるという事は、やはりあの人の事でしょうか?
ですが、許すも許すまいも私は嫌われているのでは…
……ああ、でも先ほど必死に助けてくれて名前を呼ばれましたわね。
そこで私は先ほどの事を思い出しました。
色々あって頭が働いていなかった&忘れていましたが、名前を呼ばれて抱き締められたのですわ。
赤面ものですわね。
イレーネ嬢ではなく、イレーネと初めて呼ばれたんですのよ。
私も、あの人の事を初めて名前で呼べましたわ。
緊急時のパワーというのは、すごいものがありますわね。
今は……無理ですわ。
平時では、まだ恥ずかしさの方が勝るようです。
……あら?
そう考えると、私はあまり嫌われていないのかしら?
大嫌いな相手を必死に助け出したり、名前を呼んで無事を確かめるかのように抱き締めませんわよね?
少なくとも、私は無理ですわ。
でも、そうしたら初夜の件はどういう事なのでしょうか…
私の頭の中を、疑問ばかりがグルグルグルグルと駆け巡ります。
考えすぎて、頭が痛くなってきましたわ。
「奥様、お屋敷まではまだもう少しかかります。今のうちに身体をお休めください」
……そうですわね。
今日は色々ありすぎましたわ。
私は束の間の平穏を味わうかのように、ゆっくりと目を閉じました。