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6 恋しいお肉を夢に見る

 


 初夜をかわしていない事は、疑われずにすんだようです。

 夕方起きてきた私を、お義母様が迎えてくれました。


「イレーネさん、身体はもう大丈夫なの?」


「お義母様? いついらしてたのですか? お迎えできずに申し訳ありません」


「ああ、いいのよ。いきなり来てごめんなさいね。もう、あの子ったらせっかくの初夜の日に遅れてくるなんて! ちゃんと叱っておきましたから。本当にごめんなさいね、イレーネさん」


 なんて返すのが、正解なのでしょう……


「大丈夫ですわ、お義母様。遅れてもちゃんと来てくれたんですもの」


「そう言ってくれて助かるわ。もう、オルトマン家との全面戦争になるところだったわ」


 それを聞いて、私が両親に訴え出ずに、内々ですませた事は間違っていなかったのだと思いました。

 私も、ブルタン家との争いなど望んでいませんもの。


「それで、どうだったかしら? あの子はちゃんとできたかしら?」


 ……正念場ですわ。

 なんて答えればいいかは解りません。

 だって、経験してないんですもの。


「大丈夫ですわ、お義母様。とても優しくしてくれました」


 ええ、あの人はとても優しい人ですもの。

 きっと、この答えは間違えてないと思います。

 だってほら、お義母様がとても笑顔ですもの。



 お義母様の帰宅を見送り自室に戻り、1人ため息をつきます。


 コンコン。

 外扉がノックされます。

 エマかしら?


「どうぞ」


「失礼します」


「ああ、エマ」


 この家で……いいえ。

 家でも外でも、私が気を抜けるのはエマの前でだけになってしまいましたわね。

 他の人の前で気を抜いて、ボロが出てしまっては困りますもの。


「うまくやってくれたみたいね。ありがとう、エマ」


「いいえ、奥様の為ですから。朝から何も食べておられませんし、ずっと気を張っていらっしゃったでしょう? どうぞ、こちらを」


 差し出されたのは、ホットミルクとチョコレート。

 ああ、懐かしいですわね。

 小さい頃は、よくホットミルクを飲んでいましたわ。

 叱られて泣いている時や落ち込んでいる時。

 エマは、よく私の好きなホットミルクとチョコレートを持ってきてくれていました。


 少し大きくなってからは、私が大人ぶってハーブティーや紅茶をリクエストしていましたのよ。

 でも、本当はホットミルクの方が好きなんですの。

 贅沢に、少しハチミツを入れたら絶品ですわ。


「たまには、いいのではありませんか?」


 ホットミルクを受け取り、そっと一口。

 口に広がる、この甘味。


「ハチミツ?」


「はい。奥様が小さい頃から使っていらした、ティリシアーノ産です」


 チョコレートも一口。


「これも……ね」


「はい。奥様が小さい頃大好きだったチョコレートです」


 甘いハチミツ入りのホットミルクと、甘い甘いチョコレート。

 大好きでしたわ。

 泣いていた私はすぐに笑顔になって、夢中で飲んで食べていました。


 求められるものが多くなるにつれ、私はホットミルクとチョコレートを遠ざけました。

 だって、甘えてしまうんですもの。


 大好きだったホットミルクとチョコレートの甘い匂いが、私を幼き日の思い出へと誘います。

 嫌な事も、悲しい事も、泣き出したくなる事も、逃げ出したくなる事もありました。

 それでも耐えられたのは、笑えたのは、確かに私が愛されていたからです。


 私を愛してくれる人は?

 この家で、私を愛してくれる人は誰なのですか?


 あの人は、私をとことん嫌って恨んでいるのがわかりました。


 お義母様?

 あの方は、私というイレーネ個人を見ているわけではありません。

 ブルタン家にとって益になって、害を成さなければ誰でもいいのです。


 エマだけ。エマだけですわ。

 この屋敷で私を見てくれているのは……

 エマがいてくれて、本当に良かった。

 そうじゃなかったら、昨日の時点ですでに終わってしまっていましたもの。


「エマ、あなたがいてくれて本当に良かったわ。ありがとう。これからも迷惑をかけるだろうけど、一緒にいてもらえるかしら?」


「もちろんです、奥様」


 その言葉が、今の私には何よりも嬉しい。




 その日からの私は、自室以外どこでも緊張していました。

 ボロを出してはならない。

 バレてはならないと。


 自分から好んで、ブルタンのスイーツをで食べる事もなくなりました。

 どうしても、あの人とサリーナ様を思い出してしまうのです。

 外出先で出されたらもちろんいただきますわ。

 お茶会で招かれた時の手土産は、どうしてもブルタンのスイーツになってしまいますから、1週間に1回は確実に食べる事になります。


 困ったのは、お茶会や社交界でのご婦人達との会話ですわね。

 やはり、夜の生活の事とか自身の配偶者の話に焦点があたる事が多いんですのよ。


 初夜に失敗した後、エマに参考書籍を取り寄せてもらいました。

 恥ずかしすぎて読むのに大変でしたわ。

 書物からの知識の流用ですが、まあなんとかこなしています。


 基本、「あの人は優しい人ですから」でかわしていますの。


 悲しいのは、他のご婦人達からの「あの体型ですもの。愛人の心配はないですわね」


 という嘲笑です。

 あの人の体型含めて、愛しているのはここにいますわ!

 それに……実際、あの人に愛人はいるのでしょう。


 初夜の日からすでに1ヶ月。

 あの人は、まともに帰宅すらしていませんわ…


 時々、私がすでに休んだ夜中に帰宅する音を聞きます。

 内扉が開くかどうか、いつも緊張してしまいます。

 怖いのか、まだ期待しているのか…

 きっと両方ですわね。


 そして、陽が昇った頃にあの人はまた出掛けていくのです。


 お仕事がお忙しいのだと聞きましたが、どこまで本当の事かはわかりません……

 それでも、心配してしまうのですわ。

 ちゃんと休めているのか、食事は取れているのか、体調は大丈夫なのか。


 エマに託したあの人への手紙にも、何のアクションもありませんでしたわ。

 あの日から、顔をあわせてすらいません。

 怖いのです。


 あの人に侮蔑や嫌悪の瞳で見られるのが。


 嫌われているのは嫌というほど、解っています。

 けれども、思い出の中の優しいあの人を思えば、癒されるのです。

 優しいあの人の思い出を消されたくないのです。


 現実を見る事ができない、愚かな私ですわ。



 そんな時に、知らせが届きました。

 あのウエディングケーキ『イレーネ』がとうとう完成し、近々お披露目の試食会が開かれると。


 私は震えました。


 私の名前がついたケーキですもの。私の出席は必須です。

 夫であるあの人も。


 確実に顔をあわせる事になります。

 それに、『イレーネ』はウエディングケーキだったのです。

 仲睦まじい夫婦が求められますわ。


 できますの?

 製作者であるサリーナ様もいますのに。

 今の私とあの人に、仲のいい夫婦の役が。


 震える自分を、ギュッと抱き締めます。


 大丈夫、大丈夫ですわ。

 ブルタンにとっても、新作ケーキのお披露目は重要なイベントですもの。

 妻の名を冠す新作ケーキ。

 愛人をつくる貴族が多い中、夫婦仲を強調して平民にもブルタンのスイーツを浸透させたいはずです。


 あの人も、ブルタンの為なら、きっと優しい顔を見せてくれますわ。

 大丈夫、大丈夫ですわ……


 私は、自分に言い聞かせるように繰り返しました。



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