10 お肉との話し合い
応接間につくと、既にあの人はソファーに座っておりました。
シンプルな部屋着に羽織ったガウン。
こんなゆったりとした格好は初めて見ましたわ。
キッチリとした正装もいいですけれど、部屋着なあの人もいいものですわね。
「お待たせしてしまって申し訳ありません」
「いえ、私も今来たばかりですから。ルーカス、イレーネ嬢にもコーヒーを」
眠気覚ましのコーヒーですわね。
あ、私の分はミルクたっぷりでお願いしますわ。
苦いのは得意じゃありませんの。
私も、あの人の向かいのソファーに腰かけます。
あの人の後ろには給仕が終わったルーカスが。
私の後ろには何故か臨戦態勢のエマがおります。
他には誰もおりません。
エマ、殺気をあの人に向かって飛ばさないでくださいな。
縮こまってしまっていますわ。
まあ、そんなあの人も可愛いのですが。
「真夜中に申し訳ありません。ですが、なるべく早く伝えておきたい事ばかりですので。……えーと、そうですね。何から伝えればいいのか……」
ああ、エマがいらついていますわ。
殺気が更に鋭くなっております。
「慌てなくても大丈夫ですわ。時間はありますもの。ゆっくりで構いません」
私は、そんなあの人に優しく声をかけます。
パアッと安心したかのように明るくなる顔に、嬉しくなります。
やはり、私はあの人に笑っていて欲しいのです。
「旦那様。奥様の優しいお言葉に甘えてばかりではいけませんよ」
「わ、解っているよ。ルーカス」
専属執事のルーカスはあの人が幼き頃からの付き人らしく、教師役も勤めていた為、あの人にはとても厳しいです。
お仕事のお手伝いもしているとか。
気心しれている為か、あの人もルーカスには敬語がありません。
……ちょっと羨ましいですわね。
「僭越ながら、発言よろしいでしょうか?」
エマ?どうしたのです?
ああ、怒りのあまりソファーを握りしめて、ミシリと音をたてるのはやめてほしいのですが。
「ど、どうぞ」
あの人が若干青ざめてますわ。
「先に、初夜の件を奥様に説明してはいかがでしょうか。そこの食い違いを正さないと、どうしようもないと思います」
食い違い?
何か、誤解があるのですか?
「……一番言いにくいのですが」
「奥様が、どれだけ傷ついたと思っているんですか?」
「ヒイッ!」
殺気が、殺気がこぼれてますわ!
怖くて後ろを向けません。
ですが、きっとエマはあの皆が震え上がる恐怖の笑顔をしているのでしょう。
私もよく、震え上がったものですわ。
初夜の事を思い出すと、切なさと怒りで身体が震えます。
ですが、何か誤解があるのなら…
「……えーとですね……貴族の初夜のやつなんですが」
あの人がとても言いにくそうに喋り始めます。
「形骸化してしまっているというかなんというか……もう、そんなに初夜が重要視されてないんですよね」
……え?
「初夜が重要視されていたのは、もう2~30年ほど昔の事なんです。今も重要視している貴族はいますが、それは極々少数なんです。大多数の貴族はもう重要視していなくて、初夜がどんな感じになろうとも家同士が敵対するという事はないんですよ」
……え?
じゃあ、私が繰り返しお母様に教育されていた事はなんだったんですの?
「オルトマンの奥様は封建的でしたから……」
エマ曰く、お母様は昔の貴族の古き制度を大事にしていて、子どもである私とお兄様にもそう教育したと。
初夜を重視し、夫の仕事の邪魔をせず家庭で待つ、夫に尽くす貞淑な女性。
自分の意見は押し殺し、父や夫の意見に従うようにと。
ですが、時とともにそういう価値観を持つ貴族は激減。
女性であろうとも、自分の意見を述べる事が当たり前。
むしろ、そういうハッキリとした女性の方が今はモテモテらしいです。
……今までの価値観が、足元からガラガラと音をたてて崩れていきますわ。
いえ、私も友人は多い方ではありませんでしたが、数少ない友人達も私と同じ考えでしたわよ?
「それはオルトマンの奥様が、友人関係を制限していたからです」
昨今の貴族情勢を嘆かわしく思っていたお母様が、私が影響されて染まってしまわないように、同じ価値観を持つ貴族の息女以外とは友人関係にならないように、私が出席する社交の場を制限していたらしいです。
「……全然気がつきませんでしたわ」
「奥様はそういう所、鈍いですからね」
でも、お母様はお母様で私の事を思ってしてくれた事です。
恨むとかそういう感情にはなりませんわ。
「それでですね、ブルタン家は初夜を重要視してない家なんです。初夜の事も、昔はこういう事もあったんですよ。くらいの軽いさわりでした。オルトマン家は重要視する家という事で、婚姻時にしっかりするようにという話はありました。ですが……あの時は色々立て込みまして、すっかり忘れていてしまったんです……」
目に見えてあの人が落ち込んでいます。
「申し訳ありません、奥様。あの時は私の落ち度です」
「ルーカスのせいじゃないよ。親御さんが危なかったんだから、帰省するのは当たり前だ。忘れていた私が悪い」
初夜制度について教育したのは、家庭教師も勤めていたルーカス。
初夜を重要視するオルトマン家と結婚が決まった時、ルーカスは初夜制度を重要視する家にとって、初夜がどれだけ重要か知っていた為、あの人に念押し。
実際の初夜の時も、あの人にしっかりと忠告するつもりだったのですが、初夜の3日前にルーカスのお父様が事故に。
一時は意識不明にまでなったそうです。
なので、ルーカスは慌てて一時帰省。
お父様の意識不明という重大時で慌てていた為、帰省する前にあの人への念押しを忘れてしまいます。
すぐに戻るつもりだったけど、お父様の意識が中々戻らない&王都へ向かう馬車が混みすぎて席がとれない。
で、やっと戻ってこられたのは、既に失敗した初夜の翌日。
エマに私からの手紙を渡されて、やらかしてしまったと顔面蒼白なあの人が、ルーカスに泣きついたのです。
ルーカスも、この時ばかりは天を仰いだらしいですわ。
一刻も早く誤解をとかなくては!と焦るあの人とルーカスをエマが一喝。
「奥様をあれだけ傷つけておいて、ただ謝罪するだけですむと思ってるんですか! ちゃんと、ブルタンのゴタゴタを片付けてからにしてください!」
ブルタンのゴタゴタ?
それも確認しなくてはいけませんが、取り敢えず……
「悪気があって初夜を放棄したというわけではありませんのね?貴方は、私と夫婦でいる気はあるんですのね?」
「それはもちろん!! ……イレーネ嬢が許してくれるのなら……悪気がなかったはいえ、離縁を申し込まれても仕方のないくらに酷いことをしてしまいましたから……」
それは、返答次第ですわ。