5 - キアン -
カロリーナは出会った時から俺の中で特別だった。
小さい時はいつも笑顔でにこにこと後をついて回り、大きくなると次第に柔らかで女性らしくなってきた。本人は童顔であることをかなり気にしていたが、俺は感情豊かなその顔がとても好きだ。
時折話を聞いてくれないと拗ねたり、小さなことをおねだりしたり。
頑張っているのを褒めれば、満面の笑みを浮かべた。感情を抑制しているつもりでもなかなか上手くできていないのだが、本人には内緒の話だ。
何故かとても怖がりで、ありもしないことを想像しては逃げようとする。変に頭がいいせいか、逃げるための計画はかなり本格的だ。具体性がありすぎて、目が離せない。
一度、その目を潜り抜けて逃げ出したことがある。
小さな猫をどうしても飼いたくて、でも飼いたいと言ったら子猫が殺されると思ったらしい。どうやらそんな話を侍女の誰かが話していたのを盗み聞きして知った様だった。もちろん、子猫が殺されたのではなく、子猫を殺そうとしていた野良犬を追っ払っただけであったのだが。
拡大解釈した10歳のカロリーナは子猫を殺されまいと、共にどこかへ逃げようと考えた。食料やお金、抜け出す道順、目的地、細かに計画していた。抜け出すところまではよかった。
だけど、10歳の貴族令嬢だ。体力がなく屋敷の外壁近くでへたり込んでいたところを警備の者が見つけた。荷物を背負い、子猫を抱いた状態で泣いていた。両親に怒られて、ますます泣いた彼女は何故か丁度居合わせた俺の後ろに隠れていた。えぐえぐと泣く彼女が可愛いと思ったのは秘密だ。
そんなどこか飛んでいてしまいそうな彼女を捕まえ、宥め、安心させてきた。俺の愛情を疑う余地がないほど、態度に示し言葉にしてきた。
いつだって大切だし、側にいたい。
何からも守りたいと思っていた。
それなのに。
「カロリーナ?」
目の前で、彼女が落ちて行った。
何かに縋る様に手が伸ばされる。白い手が空を掴んだ。
信じられない光景に、何も考えれなかった。咄嗟に走り出し、階段を飛び出してカロリーナの手を掴む。ただ自分さえも勢いがあるから、そのまま一緒になって落ちていった。
周囲のざわめく音が消えて、落ちていく感覚だけが妙にゆっくりと感じた。
彼女を胸に抱きかかえ、自分の背中から落ちるように体を捻る。痛みに備えて体をぐっと硬くした。一応受け身を取ったつもりだったが、落ちた時に足が段差にぶつかった。
「ぐっ」
叩きつけられたのと同時に痛みが襲う。背中を強かに打ち、息が詰まった。
そして、一拍置いた後、周りの音が一気に聞こえてきた。
甲高い、悲鳴。
それと医者を呼ぶ声。
大丈夫かと怒鳴る様に掛けられる声。
俺たちを助けようと生徒が動き始める。
「キアン!」
そう怒鳴っているのはダニエルだ。彼は騎士らしく、素早く階段下へと駆け降りてきた。
「カロリーナ、ケガはない?」
腕に抱えた彼女の顔を覗き込む。顔は少し青ざめ、奇麗に結っていた髪は解けている。お腹を守るように両腕を体に回し、腕の中で丸くなっていた。
「キアン」
彼女の瞳からぶわっと涙があふれ出た。
「キアン」
言葉にならないのか嗚咽が漏れる。優しく慰めるように髪を撫でた。
「痛みはない?」
「うん、うん……!」
泣きじゃくるカロリーナを胸に抱き寄せた。こうしてぬくもりを感じられてほっとする。
「立てる?」
「キアン、そのまま座っていろ」
顔を上げたそこにはダニエルが難しい顔をしてこちらを見ていた。いつもは揶揄うような表情を浮かべているのに、眉間に皺をよせ唇を引き締めていた。彼は騎士科であるがゆえに、ケガをした人間への対処法を俺よりも知っていた。
「大丈夫だ」
「お前、足、痛めている。言うことを聞け」
ぐっと足首を押され顔を顰めた。確かに少し痛めているようだ。
「キアン、ごめんなさい。わたしが太っているから……」
「は?そこ?」
カロリーナの消え入るような言葉に思わず笑った。
「はあ、カロリーナは相変わらずだ」
ダニエルも脱力している。だが、カロリーナは真剣に首を左右に振った。
「だって、わたし、二人分だし、他もちょっとお肉が付いたわ」
「それくらいなら大丈夫だ。いくらでも支える」
気の抜ける会話をしているうちに、マクシミリアンが医師を連れてきた。
治療するから手を離せと医師を連れてきたマクシミリアンが言っていた。本当ならば俺がカロリーナを抱き上げたかったのに、許可されなかった。何故かいい笑顔でマクシミリアンが抱き上げていた。
許せん。
******
医師の診断を受けた後、カロリーナが寝ている医務室へ入っていった。医務室のベッドに横たわるカロリーナは少し顔色が悪い。
「大丈夫なんですか?」
思わず不安に思って医師に尋ねた。
「今のところは出血もしていないので、様子を見るしかありません。もし、腹痛や出血がある様ならすぐにでも医師を呼んでください」
「そうですか」
あれだけの高さから落ちたのだ。カロリーナが無事であることは奇跡だった。
「間に合ってよかった」
「そうですな。ですが、貴方も無茶をしますな」
医師は微笑ましいと言う様に笑みを浮かべた。少し気恥しく、視線を逸らす。
「何も考えられなくて」
「素晴らしいことです。咄嗟に動けるなんてなかなかできない」
肩をポンと叩かれて、足の捻挫も無理をしないようにと一言告げてから帰っていった。二人になった診察室でカロリーナの枕元にある椅子に座る。
ほつれてしまった髪を優しく指でほぐし、整える。
「キアン……?」
カロリーナの目がゆっくりと開いた。不安そうに揺れる瞳は俺を捉えるとほっと安心する。
「気分は悪くない?」
「大丈夫。ねえ、キアン」
「ん?」
カロリーナがそろそろと手を伸ばしてきた。その手を握りしめる。
「助けてくれてありがとう。もう助からないかと思った」
「無事でよかった」
「本当にありがとう」
彼女の頬が涙で濡れる。優しくその涙を拭い、そのまま目を閉ざすように手を置いた。
「ゆっくり休むといい」
「家に帰りたいわ」
「そうだな。もう少ししたら帰ろう」
カロリーナはそれを最後に、眠りに落ちた。
「本当に無事でよかった」
俺はいつまでもカロリーナの寝顔を見つめていた。
キアン、ヒーローになる。距離とか、色々細かいことは気にしちゃダメ。