五話 足踏み
「つまり、こういうこと」
大助は切り出した。
ざっと纏めるとこう。さっきのやり取りで少女の名がニクスだと判明したが、何故かニクスは大助のことを『マイ』という名だと思っていた。
「ニクスが自己紹介だと思った『マイ』っていうのは『迷子』の『マイ』、名前じゃないの」
発端は僕の拙い自己紹介。ジェスチャー交じりで話そうとしたら、『迷子』に相当する言葉がなくてフリーズしたときのやつだ。
ニクスは、僕の日本語をゆっくり、ゆっくりと解釈する。そうして、飲み込む。
ニクスは、きょとんした表情から、徐々にひくついた笑いを浮かべるようになり、そうして、段々と顔を赤らめ、視線が下がっていった。
そりゃあ、恥ずかしいだろうな……。めっちゃ『マイ』って間違えた名前大声で呼びまくってたもん。
大助の見た感じだと、ニクスは文字通り小さくなっている、というか小さくなり続けている、という感じがした。
このままでは埒が明かないな。コミュニケーション。
名前、ちゃんと教えないと。
そう思った。自分を救ってくれた相手には、自分を見捨てなかった相手だから、そうしたいと思った。
だから、
「……あの、ニクス、さん?」
ニクスを見る。目線が上がる。視線がぶつかる。
一瞬、謎の圧力が襲い掛かる。心臓がギュッと絞められた感じがした。負けるか、くそ。
「えっと、その……僕の名前は、」
「だめ」
僕の自己紹介はニクスに遮られた。
「あなた、日本人?」
二単語の簡潔な疑問文。
「う、うん。そうだけど」
僕は訳も分からず答える。
「じゃ、あなた、名前はマイ。えっと、あなたの名前はマイ、マイよ」
「へ?」
なにこのナオン。僕の名前は佐倉大助なんだが。
いやいやいや、新世界だからといって名前を正しく認識してもらえないのはいただけない。
「えっとね?僕の名前は佐倉大助!佐倉が姓で大助が名前!」
「聞くこと、しない。あなたの名前はマイ」
無慈悲かな?
「僕は佐倉だけど」
「マイ」
「なんで!?」
このナオン、自分の恥ずかしい間違いを隠すために僕の本当の名前を聞かなかったことにするつもりなのだろうか?
「その理由は話す、後で」
ニクスの瞳に真剣な光が宿る。やめてほしい。もう、僕の名前はマイでいいやって気分になっちゃうから。
「……わかった」
「あと、名前を間違えること、恥ずかしい、わけない」
はい。そうですか。
ニクスと「マイ」という名前をもらった僕は並んで歩く。
日が昇る。夜明けだ。
人生で最も長い夜だったのかもしれない。そう思った。
太陽が昇る。
じわじわと地平線を染めていた赤い光は、やがて、広く広く空を塗りつぶしてゆく。
異世界にも太陽ってあるんだな、と思った。
「ねえ、ニクス……さん。これからどうするの?」
思いが、口から溢れる。
「えっと、村。村に行く。ここから、遠くに行く」
うーん、と思う。
ニクスの日本語能力は簡単な日常会話程度に限られているうえ、大助自身もニクスの言葉を知らない。
この世界の状況だって知りたいけど、これじゃあどうしようもない。
とりあえずこの敵意のなさそうなよくわからん美少女についていこうと思ったとき、その当のニクスが口を開いた。
「マイ、『さん』、とは、何?」
「えっ、うん、えーと『敬称』」
「……『ケイショウ』?『軽……傷』。『軽傷』!?
マイ、私、傷ついてない!!」
「へ!?」
相互理解の道は遠いようだ。
「日本語、難しいな……」
ニクスはそうぼやいた。
少女は高い高い大豆を掻き分け、道を作る。
僕は、その後ろをついて行く。
転生して、何もわからない僕の前に降って湧いたように現れた少女。
何をしたらよいのかわからないまま彼女の作る道をついてゆく。
このままでよいのか、自分で何かするべきではないのか、という思い。今の自分にできることがあるのか、という思い。それから、何となくこの少女から離れたくないという思いが混ざり合って、まあこのままでもいいやという気持ちになっていた。
ぼさっと少女についてゆく。眠いけどせめて遅れない程度には頑張ってついてゆかねばなるまい。
やがて、ニクスが振り向いた。
「この先、村、一日かかる」
はいはい、と返事する。そこに行くぞ、という意味なのだろう。
そのニクスたちの目的地の村では────
「誦ぜよ、わが娘『子曰く、……』」
なんと白熱した日本語の講義が行われていた。
「お父様、少しいいですか?」
娘は大陸公用語で問いかける。
「今は日本語を使え、娘よ」
父親はあくまでも日本語を使う。熱血指導だ。
「わかりました父上。では、……日本語とやら、学びとうございませぬ」
娘は淡々と言った。
畳敷きの書斎は静寂に包まれた。
「何故?」
やっとこさで父は答えた。
「だって日本人がこの村に来たこと、歴史上一度もないでしょ」
沈黙。
「されど、されど日本語を学び人はより多くの信心を得る。それ故──」
「普通に豆腐拝んでたら生活できるだけの信心の力(信仰エネルギー)は手に入りますが」
「娘よ」
「それにもう十分日本語文書読めるし私としては満足したわよ、別に日本語で話す力なんていらないし部屋に戻っていい?」
「娘よ」
「私はこのまま部屋にこもって日本語で書かれた教養本を読みつつ、大陸公用語で書かれた娯楽本を読んで余生を送るわ。バイバイ、お父さん」
「舐めんなや引きこもり!!!!!!」
何という白熱した日本語教室。もう二人とも大陸公用語を使用している。
よく見なくても娘の肌は生っ白い。これは相当な引きこもりである。
一人白熱している父親を適当にあしらって、娘は、この家の養分を吸いに吸って膨れ上がった寄生虫の巣とも呼ぶべき自室へと向かう。
「うーん。いつの日か源氏を全巻読んでみたいものね」
そう呟きながらふすまを開いた。
この世界の源氏は転生者が持っていたごく一部の巻の写本しか流通していない事実は知っているものの、そう思わせてしまうのが物語。物語の持つ力。
日本、どんなところなんだろうか。
彼女のためだけの要塞の戸は、閉じられた。
村唯一のちょっとした日本風の庭から、夕暮れを眺めながら父親はため息をついた。
「知識欲とやらは、毒だなあ」
このぼやきを、娘は知らない。
「ねえマイ」
「何、ニクス?」
かわいそうな佐倉大助君は、ニクスに『さん』付けで呼ぶたびに「私はケガしてない」と散々怒られたため、敬称をつけてニクスを呼べなくなっていた。
「私、次の村で嫌な予感ある」
「実を言うと変なものに邂逅しそうな不穏な感じするよね」
「ねえマイ」
「何、ニクス?」
「おやすみ」
「はいはいおやすみ」
焚き火を消して眠りについた。
夜が明ければ、村に着く。