四話 名前
銃を持った男が目の前の少女に襲いかかる。華奢な少女とは対照的な隆隆たる肉体、そこから振り下ろされる打撃。少女に勝ち目は無いように思われた。
その瞬間を見たくない。少年は目を瞑った。
崩れるような音がした。
恐る恐る目を開ける。そこには、信じられない光景が広がっていた。
あれほどの屈強な男が、地面に転がされている。そうして、少女が、男に銃の尻を突きつけている。
「え……?」
何か言おうとした。でも、言葉が出ない。
男が何事かを呻く。少女は短く、冷たく答えた。
「待っ……」
ヤバい。止めなきゃ。
そんな思いで吐き出された言葉は少女の背には届かずに、
男の鳩尾に銃床がめり込んだ。
怖かった。走り出した。
僕は何をしているんだという思い。
逃げてどうするんだという思い。
でも、頭の中はめちゃくちゃだった。
わけも分からず走り続けた。
大豆を分け入って走る。掻き分けて、顔に擦れて、腕を引っ掻いて、それでも走る。
なんで僕は逃げているんだろう。訳がわからない。
それでも、今の僕に勇気は無かった。回れ右して少女に会おうとする勇気も、立ち止まる勇気も無かった。
自分を取り巻く状況を変える勇気がなかった。
だから、情けないことこの上なく走り続けていた。
やがて、変に開けたところに出た。
そこだけ、半径3メートルほどの円形で、大豆が倒れていた。
そのスペースの真ん中に出る。
「月が綺麗……」
背の高い枝豆の群生が遮っていた蒼い月光が、自分を中心とした円の中を照らし続ける。
ミステリーサークルとはこんなもののことを言うんだろう。
そんな神秘の真ん中に座り込んで、ようやく、彼は違うことをする気分になった。
一方そのころ
「おい、ちゃんと祝詞詠んでんのか?」
これまた大豆畑を進む若い兵士は司祭兵に問いかける。その兵士の身なりは草鞋、襦袢にたすき掛けした和装。ありふれた豆腐教団の治安維持部隊の格好だ。
「詠んでるよ」
「は?」
若い兵士は聞き返した。というのもこの修験者のなりをした司祭兵、さっきから大豆畑を踏み分ける際の聖句を唱えていないのである。
「いいや、唱えてるよ。心でな」
司祭兵は意味ありげに応える。
「最高に胡散臭いが、体から力が抜け落ちる不信心者の呪いにかかっていないから、まあ、信用している」
だが、不安なもんは不安だと、その顔は語っていた。
「心技体の『心』さ。ふふふ…」
つやつやとした丸顔の若い司祭兵はニヤニヤと笑った。
若い二人は、『たった一人』のために原隊を離れ聖地の大豆を掻き分けて進む。
「不切の野郎、どこ行きやがった…」
若い兵士が呻く。
「信じること、心技体の『心』だよ」
司祭兵は振り返らずに応えた。たぶん、彼は笑っているのだろう。
ガサガサ音を立てて、彼らは進む。
月が綺麗。
蒼い月光を前に少年は無力に座り込む。
月明かりに照らされて、火照った体が冷めていく。
昇っていた血が降りる。すると、止まっていた見向きをしなかった思考が再開した。
僕は、どうなるんだろうか……。
僕の名前は佐倉大助。
でも、そんなことはどうでもいい。
だって、僕の名前はありふれたもので、自分でも気に入っていないから……。
それに、この世界で誰にも知られていない名前なんて、たった一人の女の子にも教えられなかった名前なんてなんの役にもたってない。
どうしたもんか……。さっきの少女にビビッて逃げ出したことといい、これから行く場所のアテが何一つないことといい……。だってこの世界初めてだもん。
こうして際限なく自己嫌悪は続く。
この世界。
この世界という考え方。"元の世界"と断絶された自分の生。
もう、戻れないのだろうか……。
兄弟、友達、好きだったひと、そして親。
会いたくても会えない人になるのだろうか?
わからない。僕はどれほどのものをトラックに轢かれて失ったのか。
わからない。この手に取り戻せるものは何があるんだろうか?
ここから先、何のために生きるのだろうか?ここから先どのようにして生きるのだろうか?
生きていたときは家があった。生きていたときは親がいた。生きていたときは親が小遣いも、ご飯も用意してくれた。
じゃあ、僕が死んじゃったら?小遣いもご飯もどこからもらえるのだろうか?
わからない。ただ、お腹がすいたな、と思った。
「母さん……」
声に出してみる。声は夜に消えてゆく。
「あれ?」なんでだろう?涙が溢れた。
「なんで……?」
止まらなかった。
「……泣いている?」
ニクスは、立ち止まった。
逃げ出した少年を追いかけた。
彼の進んだ道をたどるのは簡単だった。不自然に枝豆の茎が折れていたり、緑色の枝豆が鞘ごと落ちていたりするほうを辿って辿って少年を見つけた。
そうして、不自然に大豆の倒れた円の中で、月明かりを浴び、涙している少年を見つけてしまった。
なんで泣いているだろう?
彼の前に姿を表わすべきだろうか?
また逃げられたらどうしようという思いよりも、今出たら気まずい気がした。
じゃあ、このままじっとしているべきだろうか?
そうこうする考えるうちに、彼女は少年の嗚咽を聞いてしまった。
「母さん……」
ニクスは、すべてを理解した。
そして、群生する大豆にしゃがみこんで隠れて、『今になってようやく見つけた』とどうやって日本語で伝えようかと、息を殺して考え続けるしかなかった。
「おい不切、不切起きろ」
若い兵士は呼びかける。
「……う〜ん」
不切は目を覚まそうとしない。
「……意識はあるみたいだが?」
と、丸顔の司祭兵。
「そうみたいだな」
若い兵士は安心したように応える。
そして、
むにゅう!
若い兵士は躊躇なく不切の頬をひねった。
「神敵ーーーー!!!!!!」
大豆畑に不切の絶叫が響き渡った。
「……雪花、空殿。なぜそなたらがここに?」
おずおずと不切が口を開く。
「わかっておろう不切。おぬしを探すためじゃ」
空殿と呼ばれた僧形の司祭兵はさも当然、といったように答えた。
「そうゆう訳だ。帰るぞ、不切」
雪花と呼ばれた若い兵士は呼びかける。もともと、上官に掛け合ってまで彼の捜索を実行しようとしたのは彼なのだ。
だが、
「帰らない」
不切はそう言った。
「は?」
と雪花。
「俺は帰りたくない」
「何拗ねたこと言ってやがる。帰るぞ!」
怒る雪花に向かって不切は言った。
「帰れないんだ。見てくれよ、これ」
自分が歩いてきた、切り開いた道を指し示す。
そこには、神聖な大豆たちが滅茶苦茶に踏み荒らされていた。
「ああ」
そうか、雪花は気づく。
こいつは帰れないんだ。自分が神聖なる大豆を踏み荒らす、破戒の徒になったから。
同期の兵卒の中で一番信心深かった不切のことだ。自分のやったことが何よりも許せないのだろう。
「わかったろ、雪花。俺は帰れない。さっきから廻ってる信気(信仰エネルギー)も量が減ったまんまだ。それに、帰ったところで他の信徒たちが俺を受け入れるとは思えない。俺はこのままここで干からびるしかないんだ。それが贖罪だ」
不切は弱々しく、今にも泣きそうな声で嘆く。
こんなの、長い付き合いになる雪花にさえ見たこともない。
どう、声をかけたもんだろうか……。
雪花は迷っていた。
そのときだった。
「そう言い出すと思ってな」
空殿はぽいと不切に特徴的なフォルムの拳銃を投げ出す。
「豆腐拳銃?」
「そう。豆腐拳銃」
空殿は続ける。
「この銃は『信徒のための銃』。聖なる豆、大豆の絞り水とにがりを混ぜ合わせるだけの機構を持つもの」
「そして大いなる大豆の神聖を信じる者のみが銃口から豆腐を出すことができる」
雪花は、不切を見据えて言った。
「撃ってみろ、不切。日本人の言う『踏絵』だ」
そうだ。撃ってみろ、不切。
その銃口から豆腐が出る限り、お前の信仰は死んでいない。
お前が信気を持つ限り豆腐銃を正常に機能させることができる。
そして豆腐の弾丸の発射は目に見える形の「信仰証明」だ。
くよくよするな、お前の信仰を示せ。
お前の信心は誰よりも知っているんだから。
伏し目がちだった不切の視線は、銃から雪花の目へと上ってゆく。
銃口を空に向ける。そうして、引き金を引く。
外付けのマガジンから銃腔内に豆乳とにがりが流し込まれる。それらの液体は"不切の"信仰エネルギーによって一瞬のうちに固形化。豆腐となった『それ』は神聖なる存在として信仰エネルギーを獲得、その力で夜空に打ち上がった。
『信仰証明』
それは、不切の力で打ち上がった豆腐。
不切は、豆腐教徒なのだから……。
空殿は不切に語りかける。
「『踏絵』という日本人の風習を知っておるかな?
もともとは『異教の神を踏む』という行為を通して世界に対して信仰証明をする儀式であったのだが、それを我らが教団が『原典に寄せる行為』として取り入れたものだ」
「それは、俺があの異教徒の女を殺そうとしたことを踏絵とやらになぞらえているのか?」
「そうではない。そこではないのだ。
踏絵の本質は異教徒を踏んで潔白を示すことではなく、『儀式』によって世界に対して信仰心を示せば良い、ということだ。
今、お前の見ている世界は狭い。
今、お前の考えは浅い。
そうではない。そうではないのだ……」
「つまり空殿は、」雪花が引き継ぐ。
「お前は思い詰めて自棄になる前にきちんと落ち着いて考えて、ちゃんと賢い選択ができないものか。と言ってるんだ。わかったか」
「浅慮でした」
不切は、涙を流した。
「神は、私を見放しませんでした。
友は、私を見捨てませんでした。
それなのに、自分は、自分は……」
宗教に赦されたことを知り、救いを差し伸べる友を知り、不切は男泣きに泣く。
雪花は、そんな不切を暖かく見守るのだった。
泣き止んだ。
良かった。マイ、もう泣き止んだみたい。
ニクスは、少年の泣きながら呼んだ声を聞いてある種の決意をしていた。
「母さん……」
それは、ニクスにだってわかるかんたんな日本語。
『母』
それは単純かつ最も根源的に大切なことば。
子供にとって何よりも大切な人。
今の彼にはそんな大切な人が手に届かない存在になってしまった。だって、転生しちゃったから。
だから、守ってあげないと。そう思った。
(今のマイはひとりぼっち……。だから、私が)
思いは募る。何かしてあげたい。
だって、寂しいことには耐えられないでしょう?
お母さんの代わり、なんて思い上がったことはしたくない。でも、この世界での初めての友達としてなら、彼を孤独から守って、そして、彼の力になってあげられるかもしれない。そうじゃない。そうならなければならない。
だから、関係を取り戻さないと。
だから、この大豆の壁を破らないと。
(でも、マイ、初対面の人に泣いてたとこ見られたって気づいたら嫌がるだろうなあ。なんとかして今来た感じを演出しないと)
よし、と気合を入れる。そして、泣きやんだ少年に気づかれぬよう、そろりそろりと少年から遠ざかる。
彼にかける日本語は決めてある。あとは、失敗しないように頑張るだけ。
「ちょっと、ドキドキするな」
ニクスは、助走をつけて走りだした。
泣き止んだ。
泣いたらスッキリした。我ながら単純なことだ。
そうして、ほうっと息をつく。うーん、と一つ伸びて、視線を落とす。
さて、これからどうしようか?
あの少女のもとに戻るにしても、単独行動をとるにしても、ここから動かないことには話にならない。
もっとも、危険少女に助けを求めるのが賢明なのか、それとも知らぬ地で一人さ迷い歩くのが賢明なのか自分でもよくわからないので、何をすればよいのかわからないが。
ともかく、立ち上がらないことには何も変わらないよね。
そう思って大助は立ち上がろうとした。
瞬間。
視界に、細い脚が入った。
「へ?」
驚いて視線を上げる。そして見た。
月明かりに照らされる黒いズボンに包まれた脚を。男物のシャツを着た華奢な胴体を。月夜の小川のように輝く黒髪を。
そうして見とれた。今まで走ってきたのであろう。肩で息をする様子に。そして、紅潮した美しい白い顔に。
「マイ!」
少女は呼びかけた。もしかしたら、彼女は少し興奮していたのかもしれない。
「私、ニクス。ニクス・フリーギドゥス」
少女はそこで大きく一息つく。どうやら名乗ったらしい。
なにか言い返さないとと思ったが、言葉が出ない。どうして?
目は、ニクスという名の少女に、美しい少女に釘付けになったまま。
「探してた!今までずっと、探してた!」
大助はぽかん、としてしまった。
探していた?僕を?今までずっと?
言葉の意味を反芻する。胸が熱くなるのを感じた。
でも、それ以上に、頬が熱くなるのを感じた。
何か言葉を返さないと、と思った。
でも、何も思いつかなかった。
そうだ、名乗り返そう。
「えっと、僕は大助。僕の名前は佐倉大助」
「?どういうこと?あなたの名前はマイでしょ?」
「へ?」と大助。
「え?」とニクス。
これが始まりだった。
この時から、宗教と科学が支配するこの世界で、関係性の魔術が二人を包み込んだのだ。