二話 拙い賭け
ニクスの放った発火弾は、治安維持部隊がいると思われる地点の真上で弾け、炎の花とになって夜の闇を赤々と照らした。
少年はそのあまりの眩しさに目を瞑り、そうして、隣に立つ美しい黒髪と華奢な肉体を持った、この凶行を為した人形のように美しい少女を見た。
たった一つの大きな火の玉は、無数の火の粉になり、まだ青々とした、彼らにとって神聖な大豆畑に降り注ぐ。それは発火に至ることはなくても、大豆教徒に与える衝撃は大きい。
神聖な大豆に降りかかる火の粉を払おうと半狂乱になる兵士もいれば、絶叫し、見えぬ神の敵に向けて銃を乱射するものもいる。大人たちの陰に隠れ、空から降る火の粉に怯える少年の面影を残した新兵、そんな彼らを落ち着かせ、体勢を整えようとする指揮官の号令に近い絶叫。
そんな声が、絶叫が、呪詛が、生い茂る大豆の向こう側からニクスに向けて飛んでくる。
ニクスは、待っていた。少年の頭を押さえ、自分も姿勢を低くして、治安維持部隊の兵士たちの罵声に耐えた。仮に目論見が外れ、兵士たちがこちらに向かって来たらどうすることもできないという不安と恐怖、逆に上手く行ったらどう動くべきか、という思考の重圧、それら全てに耐えて「それ」を待った。あらゆる重圧に耐えながら……。
ふと、手を引いてきた少年と目が合う。もしかしたら、この少年を巻き込んで殺してしまうかもしれない。
このまま「それ」が起こらなかったら、待っているのは怒り狂った兵士たちの銃剣突撃。では今すぐ逃げるべきか?いや、下手に物音を立てて兵士たちを刺激するのは危険だし、なによりもまず、どんな危険を冒しても、ここで「それ」が起こるか否かを見届けなければ、次の手が打てない。
もっとも、「それ」が起こらなければ二人まとめて死んでしまうのだが……。
こんなことを考えながらニクスは発火弾を放ったことを後悔した。自分は「信仰の守護者」の戦士として、交戦時の判断を誤ったのではないだろうか。最も簡単な手段に思われる発火弾という手段に頼り、身動きの取れない状況を自分の手で作り出してしまった。
「お前は見てくれが繊細なくせに大事なときに粗雑だ」という師の言葉が思い出される。
自分がとっさに連れてきた少年の目をのぞき込む。自分と同じ高さの位置にある日本人特有の黒い目が二つ。確か、「マイ」と名乗ったっけ。
自分から少年を巻き込んでおいて、自らのミスで危機に晒す。「自分は戦士」「自分は守護者」という信念が揺らいだ。
信念とは自らへの信仰。信仰が揺らぐと、弱くなる────
だいぶ頭も呼吸も落ち着いてきた。黒髪の女の子に手を引かれ、息が切れるほど走らされた。
トラックに轢かれて死んで、起きて生き返ったと思ったら、逃げ場のないダッシュを強いられる。
本当になんなんだ。さっきから目の前で走る少女の揺れる黒髪を見ながら、繋がれた左手の感触を感じながらずっとそんなことを考えていた。
そうこうするうちにだんだん冷静になると、美少女の前であのジェスチャーはちょっとなかったんじゃないかという脳内反省会が開かれるとともに、いくら美少女とはいえ大概な人数の大人から銃ぶっ放されるようなやつにくっついていって大丈夫なのか、僕はさっさとこの少女から離れるべきではないか、という疑念が湧き上がってきた。
でも、そんな疑念を抱きながら、同時にこんなことも考える。
一人になったところで自分にできることはなさそうだ、ということ。銃ぶっ放してくる正体不明の敵の真っ只中で放り出されたくない、ということ。何よりも、この少女はこんなヤバい状況で足手まといのはずの僕を、律義にも見捨てようとしないこと。
だからだろうか。繋いだ手を離すことができなかった。
そう思っていたらその美少女は見るからに凶悪な銃をぶっ放した。凶悪な弾だった。火の花が咲いた。ヤバナオンだと思った。さっさと逃げるべきなんじゃないかな、これ。
彼女の放った銃弾が、暗い夜空を斬り裂く。僕はその光と、炎に目を奪われる。それらは一瞬で消え、このあたり一帯は闇に戻ったが、すぐに異変は起こった。暗闇の中から悲鳴、罵声、絶叫が響く。それらの声は全て火の玉を打った彼女に向けられているのだと、現地語を理解できない僕でもおぼろ気ながらにわかった。
そう、炎が空にはじけた一瞬、その瑞々しい黒髪と、白い横顔が照らし出された彼女。この一人の美少女が何人もの銃で武装した大の大人たちを翻弄し、すべての怨嗟の声を集めているのだ。
くらっとした。そして、もう一度彼女を見た。
そこにいる彼女は夜の帳の向こうにいる見えぬ敵を見据え、月明かりの下で歴戦の戦士さながら泰然と仁王立ちしているのだろう。そう思ってこわごわと視線を彼女の顔へ上げる。
そうじゃなかった。彼女の表情は、戦士のものではなかった。驚いたことに、彼女は妙に緊張しているように見えた。
その白皙の横顔の唇の端は強く結ばれていて、透明な汗が彼女の頬を滴り落ちる。
視線が、僕の目に吸い込まれる。
その視線は、僕に何かを訴えかけている。……「不安」?
彼女の自信が、揺らいでいる?
僕に、何かできることはないだろうか?
自然とそう思った。なんでだろう?異世界転生したばかりの自分を助けてくれたから?恩を返すため?
ううん。違う。それは、言語化できないほどに、もっと単純な理由だと思う。
声をかけよう。そう思った。
そうして、語りかける。たどたどしかった彼女の日本語レベルに、合わせるように。
「あの、僕は、ええと、あなたを、信じてます。信じてるから、頑張って」
はっとした。そう、「信じる」という言葉。
ニクスは思い出す。「信念とは、自らへの信仰。信仰が揺らぐと、弱くなる」というこの世界の格言を。
この世界では信仰が法則を書き換える。信仰第一の世界で信仰を失ってどうするんだ。
そうだ、自信を失ってどうする。私は「信仰の守護者」。だから、何よりもまず、神と神に仕える私を信じなければ。
「マイ、私は」
私は信じる。そう、言いかけたとき、彼女の待っていた「それ」は夜の中で“鳴り響いた”。
ぶおおおおおおっ!
司祭兵の鳴らす法螺貝の音。それは、治安維持部隊の撤退の合図。
聖なる大豆畑に火の雨を降らせるというニクスの「蛮行」に、司祭兵はこれ以上「蛮族」を刺激すると何をしでかすかわからないと判断、部隊に撤退を命じた。つまり、
「私、あなた、助かった」
ニクスはたどたどしい日本語で、唐突に聞こえた法螺貝の音に混乱する少年に、事態を説明する。でも、興奮と安堵のあまり、一人称複数形表現を忘れてしまって、とっさに出てこなかった。だけど、
「助かったの……?そう、ええと、……ありがとう」
少年は安堵したようだった。もっとも、まだ何が起こっているのか良くわかっていないようだが。
無論、このときニクスは、目の前の少年が、直面していた危機が去ったという事実よりも、どちらかといえばニクスが平静を取り戻したことに安堵しているなど露程知らない。彼にとって、成り行き上とはいえこの世界の案内人になっているニクスには平静でいてほしい気持ちが心の大半を占めていたのだ。
「ありがとう」ニクスは言った。
本当は、「私のほうこそ、貴方に感謝を伝えたい」と、伝えたかった。
でも、言葉が足りない。日本語を知らない。伝えたい思いが、言葉が、届かない。そんな、歯がゆい思いだった。
そう、ニクスは日本語があまり喋れない。そして、この少年は、大陸共通語を知らない。だから、会話が続かない。それ以前に、できない。
「あの、」
少年は、会話を試みようとした。でも、何を話すべきかわからない。いろいろ聞きたいことがある。どうして、この世界の大豆はこんなに高いのか、さっきの敵が時々日本語を叫んだのか、さっきの法螺貝はなんなんだ、とか。
そして、この少女の名前はなんなんだろう。知りたいな、と思った。
じゃあ、聞いてみるべきだと思った。僕はどうやって初対面の異世界人に話しかけたらいいか知っている。そう、有史始まって以来の異文化コミュニケーション・バイブルといえる、中一向け英語教材の第一文は「ハロー。マイネームイズ○○」から始まるのだから……。
「初めまして、こんにちは。あの、僕の名前は……」
「えっ。だけど、あなたの名前──」
僕の言葉を遮って少女は何か言おうとした。しかし、
「─────────!!!」
聴きなれぬ音素の羅列が、夜の闇と二人の始まりかけた対話を切り裂いていく。
「またさっきの敵!?」少年は立ち上がる。
「マイ、下がって!!」
ニクスは立ち上がりざまに少年を後ろに張り飛ばし、拳銃をその手に取った。
トラックに轢かれて以来の久方ぶりに、少年は後ろへと吹っ飛ばされていく。
そういやさっきまで気にならなかったけど、闇の向こうの敵はどんな形をしてるんだろう。ここは異世界だし、人外であることも考えられるな……。
後ろへと飛ばされながら少年はそんなことを考えていた。