一話 ダイズとキュウリ
僕の知る限りの文脈では、最もありふれた死に方が、「トラックに轢かれる」というものだった。そうして、死んでしまった自分のことを平凡な一般人だと思い込んでいるオタクは、無償でチート能力を偉い人に貰って、テンプレートを基盤にしたような異世界に転生して……。という存在しないありふれた生を送る。
そんな生き方は、ライトノベルの中でのみあり得るもの。普通に地球に生きて、普通に物理法則に従って、普通に社会に従って高校生してたらチート能力なんて持つことは無いし、まずそもそも滅多に死ぬことが無い。
そう思っていた。
不幸というものはいつも向こうからやってくるし、全速力の大型トラックの質量なんてもう耐えられたものではない。
飲酒運転か何かだったのだろう。学校からの帰り道、歩道に乗り上げたトラックに真正面から突っ込まれて、僕は文字通り跳ねられた。
衝撃。そして、後ろへ───。
その一瞬、死ぬんだなと思った。今まで最も実感から遠かったものが、一瞬で最も強い実感として自分に突きつけられる。
「死」。それは圧倒的に想像を絶する非実感であり実感。
「死」。この一文字を眼前にしてそれ以外のことが考えられなくなる。
死ぬのか。死にたくない。死んだらどうなるんだろう。
そう、死んだらどうなるんだろう───。
来世ってあるのかな?天国ってあるのかな?かみさまっているのかな───。
そんな疑問が駆け巡る。そして、
崩れ落ちる音がして、途切れた。
背中にゴワゴワとした感覚がして目覚めた。そう、さっきまで眠っていたかのように。
見慣れぬ背の高い植物が群生する真っ只中、夜空の下仰向けになっている自分に気づく。どこだここ?というかさっき僕はトラックに正面からぶつかって……。
あれ?僕はなんで生きているんだ?
おかしい。そう思いながらよっこらせと体を起こす。青々とした葉っぱがうっとおしい。あんな事故に遭ったのなら病室で目が覚めるべきだし、最悪死んでも遺体は棺桶の中に安置されているはずだ。はっきり言ってトラックに跳ねられて見知らぬ土地の舗装されていない大地で目が覚めるのは最高におかしい。
ん?
「事故死したはずなのに生きてる」?「見知らぬ土地」?
様々なオタク・メディアでよく目にした文脈に、自分が置かれているのではないだろうか?
要するに、異世界転生しちゃったかも、ということである。
実際一つ気になっていることがある。この自分が取り囲まれている植物の群生だが(いくらかは自分の体の下敷きにしちゃっているが)、木でもないくせに全て自分の背丈より高いのだ。要するにこんな植物見たことが無い。植生が違うのだ。ついでに言うとこの植物、同じ種類のものが等間隔に生えていて、なおかつどれも成長具合が同じように見えるあたり、畑の作物なんじゃないかな。こんな植物を植えている畑は見たことも聞いたこともないし完全に異世界の畑に飛ばされてしまったんじゃないだろうか。
そう、今話題の「異世界転生」をしてしまったのではなかろうか?
まずどうしよう?異世界人へのコミュニケーション手段の確保?でも夜の畑で周りに人いないね。
うーん。何か自分の中で主人公っぽい文脈を作り出さないと。じゃあ何しようか?うーん……
「異世界キター!」
お約束のセリフを言ってみることにした。
……。
すっごい恥ずかしいなんとも言えない気分になった。
やっぱりラノベ主人公のメンタルは鋼だわ。あいつら恥知らずだろ。
……どうしよう。
そう思っていたときのこと。自分の足元に倒れている作物に実がなっていることに気づいた。見たことがあるぞ、主に年末の酒の席で親父がパクついていた。これは……
「枝豆?」
あれ?
背丈以上の高さを持つ枝豆が群生する異世界?そもそも異世界と地球で同じ植物が生えているのか?え、僕の地球にはない種類の植物が生えてるから異世界理論が崩壊しない?いやでもこんなにでかい枝豆は見たことないしそもそも僕は死んだはず……。
終わりのない思考は続く。
ともかくここから離れよう。農家の人に怒られたくないし。
そう思って腰を上げたときだった。
ガサガサガサッ!
目の前の繁茂する枝豆の海を割るように誰かが駆け込んでくる。まるで何かに追われているように。
その人は必死になって枝豆の葉を払いのけてこっちに向かってくる。あれ?必死すぎて僕の存在に気づいてないんじゃないかな?あの人、見た感じ女の子じゃね?
そんなことを考えながらぼんやりとぼけーっと座り込んでいると、当然少女はその人は僕の存在に気づかず突進して、僕に躓いて、転んだ。
目の前で、艶やかなセミロングの黒髪が、揺れた。白い横顔が、見えた。半袖のシャツから伸びる華奢な腕が見えた。手が見えた。細い体が見えた。しなやかによく動きそうな四肢が見えた。そして、──
情けなく転んだ姿が見えた。
どうしよう。
白いワイシャツと黒のズボンを着た少女は、無防備な背中を見せて転んでいる。
声でもかけようか、と思って立ち上がろうとしたそのときだった。
「──────ッ!!」
聞きなれぬ音素の羅列。それは少女が振り向きざまに拳銃をこちらへ向けながら叫んだ言葉だと理解したのは、ほんの少し時間が経ってからだった。そうして、自分が今いるところはもう異世界なんだという事実の刃が、心臓に突きつけられた感覚がした。
もうここでは日本語が通じない。聞いた感じだとこの言葉は学校で習っている英語でもない。そう、ここで僕と言語を共有する相手は存在しない。とんでもなく寂しくて重大な事実。
つまり、誰の言葉も理解できず、誰にも理解されない。この広い世界の一つの異物になってしまった感覚がする。僕は一体どうすれば────
「──!」
押し殺した声で少女が誰何する。嫌が応にも目に入る月光で黒光りする拳銃。そしてマジな少女の目。
いかん。このまま黙っていたら間違いなく銃殺される。せっかく拾った命だ。こんなところで失ってたまるか。
いやまあ生前日本で「黒髪美少女にゼロ距離で銃殺されたい」とかツイッターに書き込んでたけど。
一か八かで口を開く。でも、この世界では日本語も英語も通じないのでは?意思疎通なんか可能なの?まさか秒で異世界言語を習得するわけじゃないだろう?
大丈夫。秘策があるんだ。
成功への確信がある。なぜなら僕は言語を超えた言語を知っているから。
少女の目を見て、発声のために深く息を吸う。そうして、すっと両手をパーにして伸ばして……
「待ってころさないで(両手を前に突き出しながら)」
ジェスチャーも立派な言語だ。
音声言語が通じないなら、聴覚に訴えることができないなら、視覚に訴えればいいじゃないか。
ほら、ご覧。目の前の少女を。彼女の整った顔には疑問の色が浮かんでいるし、銃口が下がって……ないね。
むしろ銃口から自分の心臓にかけてまっすぐ一本の糸が張られている感覚が増したなあ。これはあかん。
なんとか自分が無害だと証明しないと。ジェスチャー交じりの対話を試みる。
「(人差し指で自分の顔を指す)私」
少女の目に明らかな敵意が浮かび、整った眉がきりりと上がる。銃口はそのまま。このままじゃ死ぬ。まずいまずいまずい。
続けないと。
「迷……子」
僕の動きがはた、と止まった。
なんてこった……。
迷子に相当するジェスチャーが無い。
あたふたと腕を振りながら「あー」だの「えっと」だの連呼する。「迷子」に代わる言葉を探しながら。でも、銃口を前に出来上がってしまって何も思い浮かばない。あ、これ死んだ。
ちらりと少女を見る。こちらを見る目に少し迷いがある気がした。そうして、瑞々しい唇が開く。このときの「言葉」は、僕にはあまりにも衝撃的だった。
「あなた、ひのもとコトバ、わかる?」
「え?」唖然とした。
嘘でしょ?「ひのもと言葉」って「日の本の言葉」で、つまり「日本語」だよね?
藁にもすがる気持ちで応える。
「わかる!わかる!日本語わかるの!?」
少女の表情はよく見えなかったが、それでも、なにか言おうとしているのは伝わってきた。
「あの……、ここって一体」沈黙に耐えきれず問いを発したその刹那、
「旧教徒、声、聞こえた!!!!!」
男のものと思われる拙くて野太い日本語。そうして聞こえてくる銃声。
え?銃声?日本語???
そのとき、彼女は、混乱する僕の手を掴み、有無を言わせず引っ張り上げ、こう言いざまに走り出した。
「逃亡する」
僕は少女の手のぬくもりと、日本語が通じるという事実と、後ろからめくら打ちの銃弾が飛んでくる恐怖を感じながら走り始めた。
意味の分からないことに、その少年は敵性の無い日本語話者だった。そして、大陸共通語を理解しない日本語話者だった。
もしかして、日本語母語話者?などとバカな疑問を考えながら、走る。そう、ともかく走らないと。この少年のことはそのあとで考えよう。
彼らは、聖なる大豆畑を踏み荒らした大罪人たる私を殺すために、司祭兵を先頭にして畑に分け入り、実弾を打ってきているのだから。
逃亡を始めて一日、とうに彼らは鎮圧用豆腐銃を捨て、殺傷能力抜群「ムラタシリーズ」の小銃で私を狙っていた。
ともかく、何の罪もない勢いだけで手を引いて連れてきた彼を道連れにするわけにはいかない。それは信徒としての良心に反するから。
繁茂する改良品種大豆を掻き分けて、掻き分けて走る。眼前の茎や葉を引きはがす左手と状況をさっぱり把握できていない顔をした謎の少年を引っ張る右手、疲れを訴える両足、そうした四肢の感覚とこちらに向けられた発砲音に「信仰の守護者」たる彼女、ニクスが高揚していないと言えばウソになる。
「あの、一体これって何が起こってるんですか」少年が口を開く。
それは公用語たる大陸共通語ではなく純然たる日本語。治安維持部隊の連中の「原典に寄せる」行為のためのたどたどしいものではなく、流暢に流れ出るもの。そう、彼は母語話者のレヴェルで話せるのだ。
このことから導き出される事実がとんでもないものであることをニクスはわかってしまった。
この世界で日本語を母語話者のレヴェルまで使える人間は二種類に限られる。それは、今ニクスたちに向けて発砲している治安維持部隊やらを始めとする大豆教の高位聖職者か、もしくは伝承・伝説レベルの存在である日本人の転生者かのどちらかだ。
ニクスは彼を伝説的な存在たる、そして仇敵たる大豆教を創始した種族の転生日本人だと睨んだ。
ただ、それを判別するのは私ではない。だが、彼は連れていく価値のある人間だ。
銃声に怯えている少年に精一杯の語彙で声をかける。
「大丈夫。逃亡可能。信仰、つよい」
彼は私の言葉をどう感じただろうか?
本来はその教義故に大豆畑に足を踏み入れることのできない治安維持部隊の兵士たち。彼らにとって大豆畑に立ち入って踏み荒らす行為は万死に値する行為だ。だからそこを衝いて私は大豆畑に飛び込んだ。それが私にとって最も合理的な逃亡への最適解だったから。
だが、兵士たちは違う。兵士たちにとって私は討ち果たすべき宗教上の敵だが、宗教上の敵を討ち果たすためには宗教上の禁戒、すなわち大豆畑に立ち入り踏み荒らすというタブーを犯さねばならない。そうした彼らの葛藤の果てが司祭兵。兵士たちは司祭兵の踏んだ足跡を踏むことであらゆるタブーの地に踏み入ることを、宗教的側面から許されるのだ。これが、彼らの出した最適解。
もちろん、いくら最適解とはいえこの手法は合理性から程遠い。部隊は司祭兵より早く動けないし、部隊の展開や陣形も、司祭兵の人数によって制限される。彼らは実用を信仰に縛られているのだ。
「ムラタ」小銃やら鎮圧用豆腐銃やら、私たち「旧教」勢力よりはるかに優れた科学技術を持っていながら、豆腐や豆を神として崇めるあまり合理性に欠けた行為に走る、今や国家宗教たる大豆教の教徒たち。
その科学技術的側面と精神的側面の両方の形成に計り知れない影響を与えた種族、日本人の一人たるこの少年は、この矛盾に満ちた科学と宗教のかかわりをどう見ているのだろうか?
そう、ニクスは思った。
ニクスは立ち止まると、発砲音がするほうを振り向いて、肩掛けカバンから、手持ち筒、と呼ばれる非常に太い口径の拳銃を取り出し、これまた団子ほどの大きさのある弾を装填した。
星明りの頼りない夜。
それでも、発砲音が止むことは無い。
兵士を引き連れて、こちらへ歩を進める司祭兵の聖句も聞こえる。
大丈夫、当たらない。相手はめくら打ちだし、そもそも私は神の祝福を受けた「信仰の守護者」。邪教の銃弾は当たらないんだ。
少年が息を飲む。ニクスは、そんな少年に質問したくなった。「あなたは、この世界に信仰と科学のどちらをもたらすのか?」と。
「科学」って日本語で何だっけ?ああ、「窮理」か。「宗教」、ええと……。
うろ覚えの語彙と文章で言葉を紡ぐ。
もしかしたら、これが初めて私が発する、彼と交し合う目的を持った言葉なのかもしれなかった。
「マイ、大豆と窮理、あなたはどちらを持ってきた?」
「へ?キュウリ?」
そうか、キュウリは科学と野菜の同音異義語だった。きょとんとする少年の顔を見て可笑しな気分になった。
「えっとその僕は」
「耳、塞いで」
少年に告げる。刹那。
手打ち筒が火を噴いた。
夜空に、大輪の火の花が咲いた。