はじまり以前
そこは異世界だった。至る所に大豆畑が広がるその大地は異世界だった。
その世界の物理法則はある一点を除いて地球と同じだった。そう───
「いたぞ!ヤツは大豆畑のほうに向かっている!!捕獲処置を開始!!」
小さな村落の一角で新政府治安維持部隊の兵士が叫ぶ。そして、手にしていたTohu二一式鎮圧小銃を、逃走する少女に向けて、引き絞った。
Tohu二一式鎮圧小銃の内部では、二つの外付けマガジンから注ぎ込まれた二種類の液体が凝固し、白色の加工食品へと変化した。その瞬間、大いなる信仰の対象たる「それ」は「信仰エネルギー」を獲得。信仰エネルギーは物理エネルギーに変換され、そのままそのにがりと豆乳と化学薬品を特殊配合し、超強化でんぷんでコーティングされた大豆加工食品を猛然たる速度で打ち出した。
この世界の物理法則はある一点のみ地球と異なる。それは、信仰がそのままエネルギーになり、信仰の力が物理法則を塗り替えてしまうことであった。そのため、技術レベルが産業革命期の地球に近いレベルにあっても、エネルギー源たる宗教が衰えることはない。
飛翔するこの世界の信仰対象である「豆腐」は、追われる少女を掠め民家の壁に着弾し、四散した。
殺傷力は無いとはいえ、その威力は凄まじい。
少女はそんな弾丸の嵐に目もくれず一気に村の外へ駆け出た。
そうして、見渡す限り広がる大豆畑を背にして立つと、不思議と弾丸の雨は止んだ。何故か最愛の妻を人質に取られたような表情をした兵士は、引き金に指をかけたまま、動くことができない。
「やっぱり大豆に向かって打てないのね」
少女は初めて口を開いた。
「私だってかみさまの像に向かって発砲できないわよ」
「旧教徒め!」
兵士は叫んだ。
「神と平和の守護者たる我々に向かって神性の象徴たる大豆に銃口を向けさせるとは何事か!」
彼らにとって大豆は命を繋ぐ食品でもあり、何よりも神聖な存在そのものであった。彼らは最も神聖な存在である大豆を傷つけてしまうことを強く恐れていた。
周囲には続々と治安維持部隊の兵士たちが大豆畑を背にした少女を半円形に取り囲むように集まってくる。だが、少女は臆することなく言い返した。
「あなた方にとって私たちの神が何の価値も持たないのと同じように、私にとっても大豆や豆腐に食べ物以上の価値は無いわよ。豆腐に豆腐性以上のものは無い。納豆に納豆性以上のものは無い。当然大豆に大豆性以上のものは無い。神性なんて付加されるわけないでしょ。あなた方は私たちの神を貶めた。だから私にだってあなた方の神を貶める意思くらいあるわよ」
話続けて感情が昂ったのだろうか。少女はつかつかと大豆に歩みよるとまだ枝豆にもなっていないそれを一房無造作にちぎり取った。
一瞬の静寂。そして、
「外道があっ!!」
絶叫とともに年若い兵士が銃剣を構えて突進してきた。少女は一瞬びくっと膠着したがすぐに大豆畑の中に逃げ込んだ。
背丈上の高さを持ち群生する青々とした第三十世代型品種改良大豆を掻き分けながら、少女はやりすぎたな、という思いと勢い余って大豆を傷つけてしまった青年兵の嘆きの声、聖なる大豆を貶し、踏み荒らしている自分に対する轟轟たる非難の声を背にしてどこかへ逃げてゆく。どの方角へ逃げればいいのかしら……。
このとき、誰も夜空を流れた一筋の流星に気づかなかった。