荒野征く旅の途上 - 02
大声を突然上げたバルデスくんに、僕はビックリして訊ねた。
「きゅ、急にどうしたんですか?」
「いや、マリアの話で思い出しちまった……あん時の風呂場のこと」
彼女の云う「あん時の風呂場」とはきっと、二週間前に起こった大浴場での出来事のことだろう。僕が女の子の姿になったのを、バルデスくんに初めて見せた日のことだ。
「マリアのヤツさ、本当に男になっちまったんだなぁ」
あの日――とある事件をきっかけに、バルデスくんは男から女へ、マリアさんは女から男へ変わってマルスさんになった。
そして昨日、僕が男から女に変わったことで、あの場にいた幼馴染全員が性別をあべこべにシャッフルしたことになる。ちょっと不思議で衝撃的で、刺激的な日だった。
部屋へ戻った僕はあの後すぐに男へ戻ったけれど、バルデスくんはまだ女の姿のままだ。決心というか覚悟というか、気持ちがちょっとまとまらないらしい。
「アイツあんな、くっそ……ブラブラと見せつけやがって」
とか呟いて、きりきりと歯噛みしている。
何かを思い出してるようだけど、何の話だろう。
「久々に見ちまったけど、あんなのだったかな……」
「ええっと、何がですか?」
バルデスくんの云っている話が、全然見えてこない。
「もうちょっと、こう、違うカンジだったと思うんだよ」
「何がですか?」
「あんなごりっとしたすげぇ怖いンじゃなくてさ」
「あの、何がですか?」
「オレだってもう一年経ちゃあ、もっとこう」
「バルデスくん?」
「ああ、もう……やるせねぇ……」
急にろくろを回す様に手を動かしたと思うと、肺の底から溜息を突いた。
どうやら明確に思い出せない、何かのイメージがあるらしい。
「何この、喪失感……」
「はぁ」
そう云われても何だか分からない僕には、相槌を打つことしかできない。
「なぁ、タクミィ」
「はい、何でしょう」
「オレだって、負けてねぇよな?」
「何がですか?」
「男だったら、負けてねぇよな?」
「ええっと、何がですか?」
「だーかーらー、ナ、ナニがだよ!」
「……ナニが?」
僕がこくんと首を傾げると、バルデスくんがキレた。
「だーっ、もう何でもねぇよ! わかれよ! わかるなよ!」
「え、ええっ……?」
わかって欲しいのか、わかって欲しくないのか。
相反することを云われてしまったら、僕はただただ戸惑うしかない。
バルデスくんとマルスさんで比べるものなんて、何かあったっけ?
「それにしてもオマエさ、スゲェ美少女だったよな……」
ああ、急に話が変わりました……気まぐれなバルデスくんらしい。
徐々に六脚馬の速度を緩めると、じーっと僕の顔を見つめてきた。馬の背に座る向きまでわざわざ変えて、口をへの字に曲げたまま大きな吊り目で僕をじっと覗き込む。
鼻っ面を突きつけてくる彼女の、ショートパンツからはみ出した白い太ももや、チューブトップブラ姿の胸元が眩しすぎて、僕はつい目を背けてしまう。
「と、突然どうしたんですか、バルデスくん」
「うーん……」
不意に顔を離すとバルデスくんは、困った顔をして腕組みをする。
表情からして「どうしていいのか分からない」という雰囲気だ。
「オレが男ン時は気付かなかったけど、オマエってさ」
「はい」
「すっげーカワイイ顔してんだな」
ええと……困りました。今の僕は男の子なので、そう云われてもあまり嬉しくない。むしろそれはみんなが二次性徴を迎えてから、ずっとコンプレックスの部分でもある。
でももし僕が女の子の時にそう云われたら、どうかと問われれば――どうなんだろう。
「オレが男から女に変わってから、カワイイんだって分かった気がする」
「そうなん……ですか?」
戸惑いながら訊ねると、バルデスくんは「たぶんな」と呟いて続けた。
「オレが男ン時はさ、正直云ってオマエはなよっとして気持ち悪ぃと思ってた」
「はい、確かに……前々からそう云ってましたね」
「嫌悪感っていうか、性に合わねぇから気に入らねぇってカンジだ」
そんなバルデスくんは手の付けられない暴れん坊で、街で一番のいじめっ子だった。恐らく大した理由もなく、気に入らないってだけで僕のことをいじめていたんだろう。
「それが今は、女になって一年経って……まぁ、仲良くしてくれてるしよ。オマエのことがだんだん分かってきて。今じゃカワイイ顔した男の子だなってカンジ……だった」
ええっと……あれ? だった? はて、だったとは?
ちょっと変な調子で言葉尻に過去形が付いてきた。
「オレの身体が男から女に変わってさ、見えるもんが変わったかな」
「そういうものですか」
「ああ……男の頃にはさ、イライラするってゆーか、ムカムカするってゆーか、何でもかんでもぶっ壊してやりたくなるよーな衝動があったのが、いつの間にかなくなってさ」
そこでピタリと声が止まると、バルデスくんの表情が神妙になった。
「そん時にフッと思ったのがさぁ……」
「はい」
「去勢された牡馬って、こんな気分なのかなって」
そう云って、悲哀を感じさせるほど、物悲し気な表情で遠い目をした。
バルデスくんの云う、去勢された牡馬――それをセン馬と云う。気性の荒い牡馬などを発情期に興奮させぬよう去勢を施すのである。乗馬として扱いやすくするよう、軍馬に於いて良く行われている習慣だ。
「それがさ、あの風呂場ン時にさ」
「はい」
「オレの身体の中で何か……」
「はい」
「うずいた」
「はい?」
ちゃんと聞こえていたのについ、つい聞き返してしまった。
「オレの下っ腹を、きゅんって、何かが直撃した」
「はいぃ?」
声が怪訝な調子になってしまったけれど、これは仕方がないというものだ。
大粒の汗をたらたら零しながら、バルデスくんは何を云っているものやら。
「や、その、オメーなら抱けるかなーって」
口先は捻くれてるクセに、根が素直なものだから本音なのだろうけれど。徐々に混乱し始めて、おめめをぐるぐるさせながら、何だかとんでもないことを云い出している。
たぶん男同士のノリで語り始めて、引っ込みがつかなくなったのだろう。
「下半身に、その、あったら勃ってたかも……ないけどさ」
「ふぅ……」
そこで僕は、声が出るほど大きな溜息をついた。
ビクッとしたバルデスくんは、ばつが悪そうで盛んにもじもじとしている。
「なっ、なんだよ」
「信じてた僕がバカでした」
「なんでだよ!?」
「女同士なら大丈夫って、油断したのが間違えでした」
「バッカ! ち、違う、そうじゃなくて、例えだよ!」
慌てて手足をばたつかせ、みっともない言い訳をし始めた。
彼女が男の子だったなら、襲われてしまったかも知れません。
「見苦しいです、バルデスくん」
「そっ、それくらい可愛かったんだって!」
でも――あわあわと慌てるバルデスくんこそ、ちょっと可愛い。
今の僕が男の子じゃなかったとしても、たぶんそう思ってた。
「でも、あれ?」
「な、なんだよぅ……」
「これってどうなるんでしょう?」
男の子と女の子、ではなく、元男の子と女の子……でもなく。
元男の子と元男の子で、女の子同士になるのかな。その場合の恋愛って、どうなるんでしょうか。そう考えると可笑しさが込み上げて、僕は「くすっ」と笑った。
「ええと、心は男の子同士なので、薔薇でしょうか?」
「はっ、はあぁぁっ!?」
「それとも、身体は女の子同士なので、百合ですか?」
「ばっ、ばかっ! 知らねぇよ、ばかっ!」
バルデスくんは慌てた様子で前へ向き直ると、六脚馬の腹を蹴った。盛んに「ばーかばーか!」と悪態をつきながら、愛馬を駆って土煙を立てて荒野を疾走する。
そんな彼女の耳を後ろから覗き込むと、よく熟した果実の様に真っ赤になっていた。