未踏 15号 「私対世界 Ⅰ」
「私対世界 Ⅰ」
私対世界の構築はやはり書き継ぐ必要がある、あと何年になるか、きっとこれで生きて行くと思えるから、益々世界は私というものを圧迫してくるだろう、人における私という記憶はさらに希薄となっていくだろうから、私対世界の中の私こそが問題となる、私、私、私、私対世界としての私、進歩と発展の社会は疲れる、世界が鈍行列車のようであるのなら、途中下車し、少しは考えられるのに、そして私対世界の意味も、人に自明なものとなり、人は独立し、世界の親として、見守り、慈愛を持つ存在に、世話をするだけではなく、育むという考えが私対世界、私が常に世界の主体と成って、この世へ私は何をしにやってきたのかと、別に意味や目的を考えてではない、意味や目的は社会が私に感じ求めている
「私対世界 Ⅰ」
私対世界の構築はやはり書き継ぐ必要がある、あと何年になるか、きっとこれで生きて行くと思えるから、益々世界は私というものを圧迫してくるだろう、人における私という記憶はさらに希薄となっていくだろうから、私対世界の中の私こそが問題となる、私、私、私、私対世界としての私、進歩と発展の社会は疲れる、世界が鈍行列車のようであるのなら、途中下車し、少しは考えられるのに、そして私対世界の意味も、人に自明なものとなり、人は独立し、世界の親として、見守り、慈愛を持つ存在に、世話をするだけではなく、育むという考えが私対世界、私が常に世界の主体と成って、この世へ私は何をしにやってきたのかと、別に意味や目的を考えてではない、意味や目的は社会が私に感じ求めている
だけ、私のこの世界への突入は、私が私において存在していくということなだけ、孤独の認識から、世話飼育という存在者としての意識へ、生まれてきたからには意味へと、そして今、世界の飼育者としての、主体としての私の自覚、私の意味、目的へと、人は愛する能力を持ちながら、虚無から自身を理解共感出来る者などいないと考え、神を見出し、神となら共感できると、かつて神であった私が神を得、しかし、神の子となって、私も人と同じ虚無、淋しさを生きているのだが、私に私の記憶も薄れ、共感ばかりが求められ、共感など、しかし、私の飼育法、世界観は何も変化せず、共生、共楽へと向かい、世界に対し、飼育、世話という関係は考えられず、かつて人間はどのよ
うに世界を飼育し、愛し、関わって来たのか、イエスの、仏陀の、先人の方法は、清清しい、喜びに満ちた、自然な、慈愛に満ちた心、微笑みを浮かべ、親のよう、子に対するもののように確信的、このプロセスは必然であって、一人に成って、世界を愛し直そううとした者にとって、私も語り始めなければならない、元気になっている、私は世界に責任が持てそう、全てにメッセージを、私の世界、私の愛
している大事なこの世界に対して、最後まで責任を持って、私という生命はやはり、今ここに生まれて在り、この時空の中の生身の、世界がどのようであっても、私を感じられる私であり、それが存在の全てであり、意味で、あり、蘇る愛、変わらぬ愛、尽きない愛、世界は優しいものに、人は私と同じ心に、あと少しの楽しみと、死んだ人々の笑顔が思い浮かび、私は私を追求しているのではない、私の意味を追求しているのだった、これは私の本質、存在理由、私に対する使命、今在る事の意味、在ることそれ自体が意味であるのだから、世界に無意味は存在せず、あらゆる事は意味であり、この存在への指向、又は生きたいと思う生きものの心、この心を信じ、これは本能だから、これがある限り、人は生き進むのだから、何も必要はないのだが、万年青が日々変化する、それらを楽しんでいる私が居る、世界が日々変化する、それらを楽しんで見ている私、こんな事が私の存在への喜びではある、私の変化は、人類の総和を知ることでこと足り、私は小説が書きたいわけではない、意図されたものではない、感じられ
た所のものを、定着したいだけ、小説の中を生きたいとは思わない、生身の私以上でも、私以下であっても詰まらない、一つの発見を柱に、物語るだけなのだが、一つの発見を確かな姿にしたいというだけ、私が書けなくとも、感じてはいる、得てはいる、あとは味わうだけなのだが、この世界を、この私を、日常の中の私、私が私に関わる存在に対して、意味を与えると、私にとって意味があることが、人にとっての意味となり、私が愛しているから、人に意味が生まれ、私が世界を愛し、世話をしているから、世界は意味を持ち、喜びとなり、私が無名の花を見る、すると私が見たから花は意味を持ち、意味とは私に於いて生まれ、それ以前は無意味、私の意味において、けっして有用性からではなく、根源的意味、始源的意味における、私の意味において存在する意味、汝と吾でもあり、存在の発見でもあり、私対世界の意味、生き始めること、人に書くことはなく、語ることもなく、安らかな私対世界の中の存在、自在な、目的地までの、ゆっくりとした、楽しい歩みの中の日々、あと何千日かの、世界との戯れ、語
らい、笑い、実に楽しい下山の道のり、現実観察、現実味覚、現実嗅覚、現実旅行、現実貫入、現実一体、現実賛歌、生身の私の味わい、誰に遠慮もいらない、何に依存もいらない、私は私を生きている、が、世界は核、原子力、あの力、あの破壊力、人の心を蝕み、人の愚劣への、涙が止まらない、人が手にしたこの力、この力が今人を滅ぼし、人は知るのだ、自らの愚かしさを、十年はあっという間、十年を感じ、生きた私には、実感できる、たとえあと二十年生きたとしても、人なんて未体験なことを、仮想実験していくようなもの、私対世界を生きている者には、何の必要もなく、私が私に於いて出会うだけ、私が私以外に於いて出会うなど、そんなものは私ではなく、夢、眠り、彗星のごとく現れ、消え
ていく者、しかし私の知らない所を飛んでいき、そして、いつの日かまた生まれ、皆で讃えよう、皆で助け合おう、人は助かり、生きていくのだから、生命とはそういうもの、君の深さ、ひたむきさ、君を聞いていると、どこまでも優しく、孤独になれる、私対世界の気配が取り巻き、私の肉体からの、私の怒り、私の孤独も、それがどうしたの、それでどうなのと、自明の、当たり前の私の生きる意味に包まれ、健康、妻、家族、気が狂うほど好きと、常にこの感情に立ちもどれ、私の体と心、愛の追求が、愛の実感が、私の生きる意味に、世界はその結果、その触媒ほどのものに、生まれ出た時の、緑葉の輝き、死んでゆく時の、紅葉の彩り、これが木々の生と死、愛し過ぎて気が狂うことなどないのだと、一日一日がいとおしく、君の喜びを喜ぶことが私の意味、この喜びの意味は私の存在そのものの発見、これが私対世界の自在さの保証、そうした私の、苦しみ、痛みに、私はその人を抱いて、共に泣いて、人の無常を共に感じ、愛とは、私のピュアなもの、君がピュアな時だけ、その愛は伝わるように、記憶され、存在の意味はその一瞬の輝きのこと、その喜びのこと、愛は、いつも私に用意されていて、その用意が私の意味と、最後に人は孤独、その時大切なものが愛の記憶、愛への共感だけ、君が今死ぬ、私は大丈夫だなと、充分に生きたよねと、存在と意味を私が問うのは、ただ明日死ぬかも知れないからだけだった、一緒に死ぬという愛を持ち、いつ死んでもいいという覚悟を持ち、存在するだけでいいという喜びを持ち、愛する君と、万年青と、存在と、自在さと、静かさと、人としての最高の、究極の意味と、喜びを味わい、これで何か不満があるとするなら、それは私の勢ではなく、人の本質的なもの、君も、子も、ブンも、植木も、そして私の体も、全て順調、喜び何もいらない身一つ、心一つで居られる喜びを所有している、死を待って生きている、愛、人が共感できる愛、生き更新される愛、この何と困難で得難いものだったか、人は強かに、愛に生き、生きて来た、誰もが毎夜、ベッドを伴にし、概念ではなく、実体のある、現実感情であった、現代とは、認識はあっても実体が薄れ、ある特殊が必要なのだった、死の疑似体験のようなものが、生と死の融合の中からのエロスのようなものが、不安から、解放から、自由から、超越から、神秘から、何ものかから、目で見、口でしやべり、足で歩き、自己完結の一日を持ち、生きるとは、生きかえること、生きるとは、生まれること、生きるとは、存在そのものの力、美しいと感じるものがあり、その美しいものと同じようなものを私が持ち、また美しいものになる可能性を秘め、尽きない探究、変化の喜びを持ち、私は万年青の育種をやっている、私は純粋に私の喜びの為にやっている、他人に価値があろうがなかろうが、私は知らない、共感は何ら必要なく、私の喜びなだけ、自在な天からの贈り物としての楽しみ、年々歳々、私は一日を楽しんでいる、元気な身体が空間を、
耳が音楽を、目が緑を、足が散歩をと、私の喜びであるだけ、私は、私だけで、この銀河の片隅で、存在を味わい、左肺尖腫癌影、要精密検査の診断が誤診であった日、蘇った一日の意味のように、二人の意味、存在の意味、それは引力の発見のように、今、私は見ることができる、話すことができる、私は生き始めた、存在を無限の喜びとして、この日常にエクスタシーを感じ、私対世界の喜びがあり、生きていく意味は、この喜びの中に、蘇る日常が、性と同じように、存在へのエロスとなって、意味、これがなかったら、二人の意味はなく、生きものたち、エロス的存在の中を生き、いつ死んでもいいと、今だけ、明日は知らないと、私に存在理由などいらない、私には私対世界の、生きていく理由があるのだ
から、私は喜びの追求者ではない、可能性の中には、殺人も、強盗も、あらゆる非道をも犯す者として存在し、瞬間を生き、存在にエロスする者として、世界に一人住み、意識していくだけ、喜びを存在していくだけ、人の意識は、殆ど闘争によって占められ、そして一生を終え、私は瞬間の中に生き、存在の喜びの中に、朝起きて、生きて在ること、これにしく喜びはなく、満足の喜びではなく、存在の中に私が在ることだけの喜びの、存在への、一日への、全てのことはこの一日の中に、この存在への、私の目、耳、口、心、あらゆる状況に、たとえ私が死に向き合おうと、私対世界の意識は揺らぐことなく、この意識は、私の本質、私の規定、性の喜びが、肉体だけ、の喜びであるのみならず、心の自由、存在の喜びであるように、存在との一体、自在、思考の停止、原点であるように、この私というものの考えは、けっして歴史的なものなどではなく、人が人になった時に、立ち現れた始源の感情、あたかも猿人が、夕陽を見て発想したような、それは、何ら価値や、思想をもつようなものではなく、何の尺度もない、絶対的認識、私を私で見るという、意味の始まりであり、全ての出発、人が帰る故郷としての理想、自在さの、自由な偉大な喜びの故郷、これが始源の私、この私と世界の関係こそが人の意味、先端とは、新しいということではなく、人の意識の先ということ、かつて人は、今も、神を、何かを待ち、待ち続け、私は何も待つことはなく、不幸さえ待つこともなく、今日、今を生き、生きるとは、私の生命の存
在を私が生きる、存在であり、自在であり、先端である私が私において存在させていくという、これが永遠な存在というものの全て、世界がどのように圧迫してこようと、自在な私にとって、何ら存在と変わりはしないが、私の生命を私の先端でとらえ、けっして世界を甘やかしはしない、徹底的に求め、共に生く、意味をその現実に見い出し、私は時は見い出した、いま必要なのは、見い出した意味、この意味を、見い出した時へ、日常の中へと、残された私の時の中に、意味を感じ、味わい、覚悟しているのだから、悔いはないと、私の地点に立っているのだから、全て理解出来ているのだから、人は純粋なものにはいとも簡単に返事が出来るように、私とは、もう一人の私なのだから、私対世界の中を、全て明るみに出し、明確にさせ、誠実に、私のこの生命こそ、力であり、源であり、美であり、始源であり、完全であり、生身であり、唯一であり、全てであり、厳密性などに意味はなく、私は私であって、私の自在によって、私は今を存在し、私は私で私の生命を生きているのであって、私の生命だから、誰の喜び悲しみでもなく、私の喜び、私は本当に世界に一個なのだから、私は一度死んだはず、そして二度まで、今、生き帰った私は、以前と同じようには生きない、私を一度死だものとして、世界に向きあい、世界の全てを、私の関係で、問い直し、私対世界の感情の中に、孤独、利己心などはなく、もっと自由で、自在で、意志、理性の力を頼りにしないで、自在な、自然な、人の日常のような、全てが存在、全てが意味、人の中を自由に、自在に、存在のバリエーションのように、私対世界は有限の私の生命が捉えた、ポジなもの、全て私のポジ、私がカメラ、心はフィルム、しかし、私の生命は全てを焼き付け、存在なのだと、二度も見る必要はない世界は私の一期一会、私は一日の中に小説を書き、この一日が私にとっての永遠なもので、街を行く人々、皆若く、顔見知った者はなく、人は人知れず死んでいくのだが、その人の、私というものは、どのような時代にあっても、絶対のものであり、それは、進歩、発展によって発生したものではなく、太古にあっても、未来にあっても、在る私というものであり、けっして近代自我の産物などではなく、私が私で手に入れたもの、この私が消滅するということの感情と意味は、物は風化する、物は汚れる、引き換え、生命は輝き、絶えず消滅、生成を繰り返し、死という物化を通して蘇り、やはり生命は、物の一瞬の夢、快楽、私が消滅するという感情は、物化するということ、しかし、無数の私が生成されて行き、死とは私の物化、しかし、今、私は私の生命の奇跡性を生き、かつて石であった私が、今、ここに生命として在り、状況に潰され、救い難い人間などではなく、世界
は世界、それに対する私ということ、状況とはこの私対世界のことを言い、生きているとは、この一個の私が世界に対して向き合っているということ、この一個の私という感情は、私において突然現れたもので、以前は、私といえど、ただの世界に過ぎなかった、存在一般に過ぎなかった、病気、死、私の意味の自覚を通して、世界と分離した私が現れ、私は私を生きてやり、世界を存在と捉えるようになり、世界は昔と変わらず在るのだが、私だけが誕生したのだった、身一つで、生命一つで、この時空に、この生命を、五億年の進化の視点から眺めると、私対世界の時間ではなく、時空を越える意識の頂点を、生命は生きているのだと感じ、この生命とは、再生、消滅が本質ではなく、輝き、運動、連続、存在
の先端、時空を越えた、存在の全てを含んだ、宇宙そのものであり、この存在を真に存在さすとは、この私の生命対世界となる、存在への神秘と絶対、音一つ、色一つの絶対性、私が認識しようが、しまいが在るこの絶対と、神秘、私は考え続ける中で出会うのだった、草や、木、生きものを表現して、何に成ろう、生きものを冒涜するだけのもの、私こそは存在を世界として、あと十年か、二十年かの生命を生命として、世界に対して、糾弾も、免罪もしない、病気に対しての態度と何ら変わらず、世界は私に対しての世界、私は私が信じられる程のことだけで、私を信じてやり、私の意志が伸びるときは伸ばし、休むときは休んでやり、そのうち又自在に、長い一日としての、私の生命を生きていき、病気と死だ
けが、私の全て、反抗しようが、肯定しようが、私対世界の意識をもって、石がバクテリアを、バクテリアが虫をと、みな存在として共生してきたように、私も同じ、彼等は私の親であり、彼等が私を育んだ結果、私が在り、この認識が実感出来て、初めて人に共生が可能で、私が万年青に水をやる、私が家族を世話する、私が今日を存在する、全て私の愛、親しみ、喜び、この存在に寄せる私こそが私の意味、生きものたち、今日も生きている、彼等の希望を私がまた生きている、この私が愛の正体、真実、私対世界の関係、けっして、死、存在へのはかなさではない、生きものたち、死を遥か後方に見据え、今を生き生きと存在している、彼等のように私もまた、人は充分に、自分に於いて意味があり、生命を懸
けることは、今日のこの一日にこそ、この私の生命限りこそ、存在とは表現以上のものであり、存在がある限り、表現などいらないもの、私が明瞭であるなら、世界も明瞭、全ては存在のバリエーション、表現があるとすれば、私対世界の、呟き、一人ごとだけ、神にではなく、私が世界との対話の中に、木や、石との対話のように、木や石に私が語るように、ただ私が私の存在を確かめるように、私と私の生命との同時性の営為が、私対世界の絆となり、私が私を語るのではなく、生身の時空に存在している私に出会うだけ、私が私を語れることなどあり得ず、どこから来て、何処へなどと、それらは、ただ人の余裕、人の真の疑問などであり得ず、今在ることに人は気付いていないだけ、死刑囚、エイズ、癌の私にあって、世界は私対世界であるばかり、私はこの私だけの身体だけが頼りで、この身体が生かす間だけの意味で、生とは意志でコントロールする所の、自死までのことで、核兵器の作り方といい、あらゆる科学、芸術といい、私対世界の前では単純、明快、子供の遊びのようなもの、何も怒る程のことはない、私の身体、心にしても、単純な作用によって成立、宇宙、世界、存在にしても、大きいか、小さいかだけ、生も、死も、人との関係において成立しているだけ、私においては何も成立していない、ただ、存在なだけ、人に知識が、記憶が、過去が、しかし、私対世界の、一本一本の木のような喜びはなく、私には何も詰まってはいない、私対世界なだけ、世界は常に無意味な意味で成り立っている、善と
悪、喜びと悲しみ、生と死、どちらも意味で、人が望むと、望まないに関わらず、それが存在で、今のこの瞬間の中にだけ私の意味は、世界の解釈とは、人の趣味、人の楽天、私には私の生命の消滅が気がかりで、死がせつない喜びに思え、この死があるから、世界を愛せると思え、この死があるから、私を生きれると思え、この意識世界に登場していることの、意味と喜びが理解され、この死だけが、私の生きる基準、全ての力と思え、私対世界の中の、私の存在の確認、日々の確認、俄には信じられない、私の生命の確認作業なだけ、私を根源において閉じ込め、世界に投げ出し、時に私と一体となった、確固たる世界の存在者としてあろうと、この私に、愛の生存の意味とは、病人の親が子の花嫁姿を待つようなもの、希望もおそらくは、その本質において、親が子に寄せるような、世界が愛で構成されるような関係の中に、人が愛によってのみ生きていける存在としての方向の中に、父、母、子、友等の愛の上に私が生きていることの、彼等が存在しないなら、私も存在しないだろうといった関係の中にあり、私は私の喜びの中に生きているのだった、私は生くことの中に在る喜びを知っているのだった、世界がど
のように圧迫してきても、在る希望、喜びが信じられ、耐える意味も、この私とは、考え、感じることを条件づけられた者としての存在を許され、その上での私対世界のことで、一度死んだ者にとって、かく生きるしかなく、私対世界、私が考え、私が世界を生きることにおいての生き方以外、私とは希望、私を生くとは希望の中を生くこと、私は死の直前まで、世界を生く存在者であるのだった、絶望しても尚などの意味論的なものではなく、存在や、永遠、時間と同じような、私は私の手術を承認したように、私は私の苦痛に耐えたように、私は私の不安に耐え、私を存在させるのだ、私がもういいよと言うまでは、かつて石であった私が、私も存在、お前も存在、私は意識して、お前は意識せず、でも同じ存在、お前がそこにこうして、今も生きていることが私の希望、私はお前と共に生きている、この喜びはお前のものと、私は越えて在らねばならない存在、この生命、魂といったものは、私一個で、世界と繋がった存在だと、生命、魂とは、私が介在するようなものではなく、この存在、世界と向きあって、人の意識とは別の、神秘の姿で存在しているもの、一日というものが、この生命の存在のように、私が触って、味わって、喜べる、実体のある、生きもののように、生きて流れている一日が、今私に与えられているという、生命のような今日という一日が、私は喜びで夜半眼が醒めるのだった、生きて流れているこの時間というもの、この時間と繋がった私の生命というものが、透けて見えて来て、私はこの生命、この時をこそ、味わい、喜び、感謝し、求めていたのだった、この一日の感じは、生命の驚きのように新鮮で、この一日に包まれただけで満足で、何もしないで、この時の中に横たわっていたい程に、一枚の葉を、水の粒が変化したものと、神秘を見るように眺め、死の淵から蘇った私のように、牢獄から出た日
の私の朝のように、妻を得た日の私の喜びのように、時間が生きて流れている、生きもののように光って、ホラ昨日の木の枝とは、今日の枝は違うだろう、新芽が伸び、花も開き始めている、これが、時を私が泳いで来た証拠、太陽が明るい、風が暖かい、私は旅をしているのだった、時間という空間の中の旅、生きて流れている時空の旅、この旅に、私は、眩暈し、喜び、踊っているのだった、私が観念に陥らないのは、これら生きて流れている時間を、私の肉体から離しては考えていないからだ、私を生き、その途上を言葉にしているだけ、私は私の言葉を、常に私の最後の言葉としているから、私において生きているのだった、私とは世界から生まれ、世界へ帰っていくもの、自在さに至って初めて我在りと
確信し、何々への、何々からの自由ではなく、何かの方法、知性がなくとも、唯在ることの中に感じられる自由、私の死との内包において、感じられ所有された、誰のものでもない私の時というもの、私と花、私と鳥、私と人と、私は熱烈に求め恋する、そして、意味を与え、与えられる、私対世界という、絶対的な愛、世界の息子としての私、私の実在感は、日々生まれては死んでいく、私というものへの神秘の感情である、愛するとは共実存すること、私に希望はいらない、現在、瞬間のこの存在に全ての意味と、喜びを感じ、一本の草に木に共実存を持ち、手と、足と、目とがあって、今というこの時があって、私への愛を受け止めて、価値が、美が、喜びが、存在するだけで感じられる、私と生命、明日死ぬ
かも知れない私の生命は、全て許された、自由の、幸福の源、これが実存であり、全所有の存在、私対世界の、私は私が今感じられるということの、一週間前、この木は裸だったのよと、存在ということ、何処まで探っても、存在ということ、大も小も、存在が全てということ、人が神で、犬や木が、人だとする、犬を、木を、子細に検討しなくても、何が意味で、何が喜びかは直ぐ解る、変わりはない、存在か全てということ、私は、私という存在が宇宙の彼方にあって、和朗という存在を見ている感じがして、私は自分を和朗はと言うのだった、旅行に、妻が一緒に行って欲しいと、妻の一緒に行って欲しいという感情が好きで、私は旅行に、私の意味の存在のために私は行き、死を越え、生を越える方法として、
私は私の自死の意志を共有した妻と、いつ死んでもいいように、毎日性の営みを続け、最高、いつ死んでもいいと、この一年間を生きている、これが私の生きていることの意味と、喜びであり、死を越える、死に対する武器であり、これは口にするものではなく、二十五年間を共有してきた者との、生き、死になのであって、自然、必然さなだけ、私とは頂点であり、五十億光年の先端であり、私の存在とは輝きであり、天国であり、ただ、この天国を生きることの、あまりの喜びに耐えられず逃げているだけ、人は元素に名前を付け、元素を分割し、元素を融合しと、利用において意味を、利用が出来なくなれば、全て意味はなく、その時無意味に気付き、芸術、科学が、名前の付けやっこで、人間の幅なんかではなく、この天国に、世界、宇宙の統一理論など必要なく、かつて、私は石であり、存在そのものであった、その私が、いま意識をもって、ここにこうして存在している、このことの喜びと、確認、これが天国であり、先端、私が神秘であり、私への集中が私の生であり、私の声を聴くこと、私の姿を見ることが旅であり、私は私を存在させることが意味で、もう一度自分の足で歩いてみたい、もう一度自分の口で食べて見たいという友に、私は桜の一枝を手向けただけ、今、私は生きて、歩いて、食べて、友の奇跡を存在している、この私の存在が奇跡でなくて、何であろう、もう充分に生きた、今年も、何度も歩いて、食べた、こうして春にも出会った、もう何時死んでもいいなあっと、人間は神の前で間違っている、不条理な存在、けっして愛せない存在などではなく、いずれ人の存在とは夢、夢見る人の夢としての存在、私は夢を見て、私は稀人、私とは世界、存在そのもの、永遠なるもの、絶対なるもの、その私が和朗を活かしている、私は和朗ではない、あの癌の告知の時の私と和朗との一体、和朗が癌であると、私も癌に成ってしまい、あの時の記憶を越えたいと、私は和朗の外に私を創ってきたのだった、私対世界も、この私を創る方法、覚悟であった、私を世界と切りはなし、私を高みにおいて、常に私を分割し、私を世界の中心頂点と見て、これが神に繋がり、ひいては神そのものとなり、人の意識、発達の各段階を
経て、和朗と私は真に一体となり、私は和朗だと言え、世界はこうした私の意識の物質化である、このビル、この自転車、この街、私の意識の存在化である、これら世界の存在とは、私の夢の産物、夢の物質化、私の超越、私が光照らした物、和朗はしゃべる、和朗は死ぬ、しかし私は存在する、それら存在の中、永遠に、和朗も忘却していてはいけない、和朗の一回性において、この私の世界を生きていかなければ、生きる喜びの頂点を、私の創ったこの世界を、喜び味わって、機械がいくら精巧につくられ、いろんな働きをしても、私の創った一匹の蟻ほど面白くも、神秘もないだろう、生命の感じられる、生命の進歩、発展の感じられる私というものの存在の形、私の意味がそこに、成すことによって存在し
て行く者、自らを創る存在であるところの、存在そのものとしての和朗を生きてこそ、私と一体になり、和朗は日々私をはっきりと感じ、和朗に不実な時はなく、あと十年と決めたその時に、私からの賜物としの時の中を、雨上がりの三日月、ほの暗い闇、雫が、木の葉に光り、空気は重く景色を包み、十年の中の一日を感じ、時はこれら風景と溶けあい、私に嫌悪はなく、全て許されてあり、私の一日において出会った全ての物、神秘と一体の、私の時の中、私の自死の覚悟とは、私の意味が和朗において感じられなくなった時、それは必然、しかし、存在としての私に於いては、自在、特別な事ではなく、どちらでもいいもの、存在としての確かさの私、この時空間の私の確かさ、有の確かさ、無や消滅、有機体としての不確かさの和朗ではなく、存在者としての、物としての私、その中に私と和朗が在り、目、耳、心、存在としての私を感じるための、私は私に於いて意味があるのであって、私に於いての絶対的意味の中に、和朗は存在し、和朗は見える、聞こえる、歩ける、食べられる、私において存在し、考えられるもの、私とは死者の上に、死者の中で生くもの、私の身体は、私のものであって、私のものではなく、私は私が必要とされて、存在の意味が出て、何処にいても、何をしてても、私は必要によって生かされ、私という存在とは、祈る行為や、希望が、私以外のものに於いて意味を持つように在るもの、世界に対する雰囲気があり、常にその世界を呼吸をし、和朗は幸せでしょう、何よりこうした自分の愛する世界を持てたことが、二十四時間は苦しいでしょうが、時々は以前の空気も吸い、私との世界を生き、世界は幸せだよ、和朗が何も言うことはない、彼等の苦しみも可愛いい、彼等の満足も可愛いい、世界は喜びに満ち、私が世界を愛す、ビッコの足は愛す、ビッコの足は和朗に愛されないから、私が愛してやる以外にない、誰かが愛してやらなければ、世界のビッコはすべて私が愛す、私は和朗がいつ死んでもいいように、貪欲に愛するのです、鳩のカップルが互いに首をもたせ掛け、グラウンドのフェンスの上で眠っていて、私を見つけると、一匹が私を見つめる、私は「君たちは存在と意味だね」と、頷き、彼等
はまた二人で首をもたせ掛け寄り添う、グラウンドの芝生が薄明の中で、黄緑に照り、挟竹桃が朝露にぬれて光り、雀の親子が餌をあさり、彼等は私に「現存を生きている、私達は共実存を生きている、存在の秘義を味わっている、聖なるもの、今を、自由を味わってる、私達は実存」と、彼等によって、私が考えられ、伝えられ、共感せられて、彼等が光の源泉なのだった、世界とはこうした彼等、存在者たちのもの、人のやっていることは、私の事ではない、人の世界は、私の世界ではないと、鳩、挟竹桃は私に言い、和朗に解れば、私に解る、和朗が実存すれば、私が実存する、和朗は世界存在の地点に常に立ち、和朗に私が立ち現れ、自在に、木を、風を、世界を、風に吹かれてみたらではなく、雲に乗りたいではなく、風になり、雲になり、かつて洞窟に住んでいた和朗が、今音楽と、文学と、遺伝子と、ロケットと、人間に対しては、神秘と、奇跡と、自由と、神と、問題は、観念や抽象ではなく、具体、現実、生身の問題でなければならない、虚構ではないのだ、反抗も、孤独も、掟も、社会性も、自在さがどのようにして得られるかは、現実の生身の私を通した思考、経験の中、誠実な努力によってのみ可能で、批判することなどなく、その人の人生、その人の生命で、哲学が、弁証法の擁護と批判が一般的で、結局集団的、社会的に世界を思考し、捉えようとしていて、おもしろくない、私はどこに在るのか、私は何者で、何を考えているのか、政治と結びつく文化、哲学は抽象だ、具象の顔をした抽象、兄弟、家族、夫婦の愛といった、身近な、具体の、生身の、個人の感情を忘れ、排除、無視し、本質を、私の真実を、平然と、臆面もなく語ること、自己嫌悪はない、和朗の語ることは人の本質、人の真実、本質に先立つ、和朗も解らぬものが在ると、知っている和朗には、語る事は全て肯定され、未だ語れない、
知らないものへ向かうばかり、人が、芸術、科学が求めて来たことの無意味、不思議、けっしてニヒリズムからではなく、無気力からではなく、人の徒労を感じる、生きて在る、そのことに於いて喜び生きられない人としての徒労感、存在から世界を、私対世界から存在を、もはや存在は問うまい、存在とは私自身なのだから、ヒヨドリは自分を問わない、元気だ、朝だと喜んでいるだけ、発見と創造が一体である彼等、存在とはそうしたもの、それが存在の声、擬人化、抽象化出来るものではなく、ぼくらは、しいのみ、まあるいしいのみ、おいけにおちてあそぼうよ、こぶなになって、およごうよ、およごうよ、この歌の心、擬人化された、存在の声、存在の経験、人は、あまりに幸せ過ぎて逃げているだけ、逃げる心とは、存在からの逃避、存在の分身、私が存在そのものとなって、生命そのものとなって、言葉を発するなら、私は光、私は水、私は石、私は草、私は沈黙、私は世界、人が言葉を発する時の詰まらなさは、対話者が人で、時に神で、存在としての自己、存在そのものに対してではなく、存在者であること、妻を美しいと思う感情を、誰かと共有する必要はなく、私の万年青の美しさ、楽しみもまた、私の文学も、私の喜び、私の意味なだけ、それが独断でも、偏見でも、安易でも、無意味でも、私の存在そのもの、誰のものでもない、私の生命、私が何を言っても、何を考えても、私を楽しんでいるだけ、自らの存在への神秘、苦悩、喜び、神秘とは、私にとっての、存在としての、私の神秘なだけ、世界は
私の子供としての感情、私はあくまで親の感情を、子供は自立し、旅立ち、私はどんな子供も愛そうと、親とは、子がどうであっても、愛していく存在、親を押し売りするものではなく、意見、行動するものでもなく、最後まで親を生きる、それが自立した世界の、親としての態度、私は詩、私は音楽、私の音楽は心の現れ、記憶され、残され、伝えるためのものではなく、ただ私の心の現れなだけ、私は常に作曲している、私は常に口ずさんでいる、言葉とは違った、直接的な感情の表現、子供がでたらめな歌を作り、唄うように、大人の鼻歌のように、私の時と、私の心、一回性の、即興の、私の存在そのものの現れ、私は人の喜びを喜び、人の悲しみを悲しみ、私は雨、雨に澪れる私を喜び、雨を避ける理由は何も無く、存在と意味から、私対世界への、そして存在の声へ、あの頃、私は親を生きれる存在ではなかった、一匹のか弱い生命なだけであった、今元気になり、生命へ言葉は繋がり、一と多ではない、充実と虚無、問題と秘義、意味の剥脱に抵抗しているのだった、解放と潜心、自己還帰、絶望とは支払不能の公正証書、希望とは、押さえがたい完成への確信、人の中心、完成への意志、一つの秘義の感情、自らの意志ではないものへの意志、美の創造とは潜心を前提として、存在への根付ぎ、人の心に現存して、心や知性、存在自体の現存によっての、私は貴方がたが見ることも出来ないときでさえ、貴方がたと私は共にいるのだと、真実の共在、内属、内在、聖愛、精神の自在性、現在とは、限定することが出来ない、超問題的な私の生身、存在そのもの、まなざし、微笑であると、自我に夢中になつていた頃の、非自在性、自在性とは、自分が自分に所属していないことを知っている心、創造し続ける、体験し続ける心、いつの日か、今日は良い天気だ、うん、死ぬには良い日だと、病の床に就いたなら、ほどなく死に、私をそういうものに、時間、存在、空間を、永遠なものと感じられるなら、自己の存在が奇跡的存在であると、直感的に感じられるもの、万物が、奇跡的、瞬間的な存在として、しかし、私は真に見てはいない、感じてはいない、聞いてはいない、万物の息苦しいほどの、意味、歓喜を、私の存在は未だ、
その点では、私も草木、他の生きものと同じ、たとえ死ぬ事を知っていても、私を私であると知っていても、それは何も知らぬと同じ事、誰かのことを考え続けていると、その人のことが良く解るように、木のこと、犬のこと、あらゆる生き物のことを考え続けるなら、彼等が何を考えているかが解ってくる、存在からの声とは、その中から聞こえてくるもの、和朗が私のことを四十九年間考え続け、私のことが良く解るように、私が木のことを考え続けたら、木のことは解る、解るとは、私において解ることであって、和朗に私が解ると言うことと同じように、現前とは、和朗において私が現れること、和朗がたとえ居なくなっても、私に於いて存在しているということ、和朗は私の中に、超越を見ていく、葛藤し越
えて行く人として、本質に先立った、私の生きざま、私の実存、自らの生命を選択的に生きる人、単独で世界と向き合う中の、そのようなことは、私は知りません、私には解りませんと、私は私の生活、一日の意味において、掛けがえのない時の意識において、私の生命を生きているだけです、世界のことは、私の大切な意味として、喜びとして、関わり、考えはしますが、基本的には、存在を存在していくばかりです、世界は私の子供、私の目の中で生きている、私は見守り、楽しみ、私は親であり、世界の子供でもあり、子供と手毬つきをしと、腰が二十年振りに治っている、この熱い夏に、快適な、健康な、和朗の肉体があり、この健康は私がいつ死んでもいいなと感じさせる、この快適は、私の喜びを、一日の味わいを、充分にもたらし、いつ死んでもいいなあと、この世界に、生まれ出られた、私というもの、あと十年位い、この私というものを生き、味わっていたい、泣いてもだめ、訴えてもだめ、助けを求め、罵ってもだめ、すべて意味であると、今日のこの今に、あそこで、ここで、何万という生命の死が、死こそ人の意味、身一つの意味、生き物は死んで蘇る、あの木の葉のように、生き物の輝きとは、あの死と再生の中に在り、死が再生の喜び、輝き、田んぼは緑、緑の稲田拡がり、朝露のオパールの粒、栗の木には、栗の子供が、まだ柔らかな刺をつけ、緑色した髪で、鐘の音が朝の街に、田中の道を、一人、二人と歩き、漆、ススキ、カシ、山があって、川があって、その中に人が居て、みな生きていて、日は照って、風は吹いている、鳥は歌っている、エミコは無事だし、私は元気だし、今や私は、人の考えたことが、言葉、詩、絵、音楽、etc、人の文化と言われるもの全てを理解し、感じる事が出来、我が事として、理解、感じ、伝える事が出来、人がある何ものかに向かって進んでいるとするなら、それは
存在との一体、自在に向かった、共実存の社会、与えることの喜びで構成された社会、喜びが当たり前の、自然なものへ、楽園に向かった、心も肉体も、満たされた世界へ向かった、人は足元において、家族において成されるように、世界に向かって成され、未来が、足に、手に、目に、心に、私一人で喜べるものに、私に存在の意志があって、喜びがあって、十年という時間が、どのようなものであるか、知っているから、生命を生き、十年とは三千六百五十回の散歩、私は世界を孤独に愛し、私対世界で結んで、この世界、彼等、一人一人がこの世界を作っている、私が作っているのではない、私はただ許されて在り、来年の夏、私はここに所属していないかもしれないと、私はかつての何倍、何十倍の時を生きているのだった、私は、生まれ出た時から、私の時を生きているのだった、あの田舎へ帰った時の、母に会った時の、山へ行った時の、旅に出た時の、人への、夏への、秋、春の、朝の、夜の、子供への、犬への、物への、初体験の感情、記憶の数だけ私は蘇る、良い記憶は、良い時を生み、自己への誠実は、
見るもの、聞くもの、会う人、会う時、全て喜びに、存在の喜びが、現在に、未来に、重ねられ、世界がどうであれ、社会がどうであれ、私が親の立場で愛していく限り、世界は我が子となって、私対世界の、その世界とは抽象ではなく、現実の生身の、刻々の、日常の、対話の、生活の、その中に感じ、見、味わうもので、言葉や、何か形にするものでもなく、私の時間、私自身が表象、表現で、私自身が、私を表現していく、創造などいらないのだった、必要もないのだった、この私の感じて在る心、人との共感を求めることもあるが、私は私に向かって、私であると感じるばかり、私は私で自己完結して在り、私は私で世界と対して在り、世界が私に、私対世界を感じてくる関係なだけ、滅びゆく世界には涙するが、滅び行く私自身に、も早や涙しないように、心して最後の喜びを、喜んでいる私を見る、抵抗、受容、希望、受容と、人の死のように、世界の死を見守り、進歩と発展、管理、科学、合理と、人の本質は致し方ない、本質なのだから、私に於いて解決するとすれば、やはり受容をおいてなく、私の死と、私の生と同じように、あっ、あっと言う間に死んでいってしまう人のように、若い時には骨のある発言をしていても、いつしか私の社会ではないと、社会を考えに入れなければ、どんな難問も簡単に答えが出せる、私がどうするかだけ、動物たちがそう、天敵がいる、しかし、仕方がないと、戦争、公害、病気、etc、私を殺そうとする奴が、しかし、仕方がないと、私対世界の私が、社会、全体に依存、期待した関係であっては、自らに所属しないものをあてにして、考えているなら、それは私ではなく、私達であり、それでは何の解決もなく、かつて子供であった私が、大人に、そして社会の一員として、社会の名のもとに、暴力を行使したとしても、それは当たり前のこと、私達として行われ、本来、私に
於いては暴力などいらないもの、集団が必要としているだけ、私においては、苦しみ、悲しみが、受容されるばかり、人は生き、人は死ぬのだと、私対世界からの見方は、私は知らない、私には関係がない、私にはどちらでも良いといった、殆どが私の関心以前のものと化し、私対世界における単純化、私として考えた、社会、歴史、文化、人を計算に入れない、私の生理、私の意味に於いて考えられた、シンプルさ、それでなかったら、それは私の考えではなく、私達の考え、私の意識から発せられた、私独自の、生き方もそう、私と私の人生という、社会への依存、寄生、といえど、私の意識において、私対世界としてそれは在り、私は山であり、私は川であり、私は風であり、私は経験されていく者であり、私は神秘であり、私は意味であり、生命とは、生きなければならないものでもなく、ただ生かされてあるだけのものであって、この地球の紙のような薄い表面での、生き死に、同じDNAのバリエーション、なんら創造でもなく、進化でもなく、有機物のただの変容、生き死に、絶滅、誕生、絶滅、誕生、と、オゾ
ンの薄い被膜の中の、全て質量不変の存在、物質の夢、それは、DNAの限界で、全ては何んの意味も持ち得ず、チリ、浮遊するチリとしての生命、夏の暑さの感覚が、今年も項に残り、不思議な記憶の世界が、眠りに就く頃おとづれ心地良い、存在と意味を生きていた、透んだ空の青、田んぼの緑、日盛りの時、夜の闇、山の匂い、止まった時間、異邦、しっかりと形の在る、感じられるものがそこには在り、項に残る汗の感触のように記憶されて在る時間、ここには私がこれから生きていく、私対世界の核心が潜んでおり、存在と意味は、存在から向けられる意味によって、私が意味を持つという関係から、私が意味を投げかけることによって存在が意味を持つ関係に、私が私対世界の自律した感情において、世界、対象を、意味をもって、不思議をもって、喜びをもって、形をもって、味わいをもって、奇跡をもって、眺め、接した時、立ち現れる存在と意味、私が主体となった、私によって成され、在る、存在と意味が、ここにおいて初めて可能となり、誤ることのない私の内なる声、私が私の生命を生きているという感覚、時々おとづれる、エクスタシーの、人との、存在との共感、誠実な心の状態、私独自の位相、私対世界の、一人対世界、存在の、私の外の私、存在そのものの私、私が石で、私が木で、私が物が在ると感じられるように、私が在ると感じられる、かつては無かった私が今在ると感じられ、この有機体を生きていることの、この私の私を在らしめる肉体を借りて、その間だけだが、私を生きられることの、存在としての私が、有機体の力を借りて、意識を生きられることの喜びが、私とは意識、困難も、痛みも、私の生命の現象、私の発見、私の確認、これが私という意識というもの、意味というもの、この私とは、派遣された者、存在の希望、存在の夢、存在のお祭り、私という生命、私という魂、私という始原、自我の私とは明らかに違う、私が私の生命を生きる、私の目は見える、私の耳は聞こえる、私の手足は動かせる、私の頭は記憶出きる、色、光、音、一つ一つの喜び、生きているだけで喜びな、私の生命、朝がくれば蘇り、これらの喜びをあと何千回か、私が私のこの生身を生きていることの恍惚、私は生きている、時間は生きている、石が、空気が、あらゆる感じられものが、生きて在る、生身で、私の目の前で、私の本質とは、この存在が非在ではなく、実在、生身であるという私への過程、唯一、絶対の生身の世界存在への、神が私の生命を生きているように、私がこの世界を生きていることの証、神とは人
のこと、私のこと、この私を創造したところ、の、絶対的な、意味を与えられたところの存在、私がこの肉体としての私に対して絶対性を持つ時、感じられるもの、私に対する絶対性の意識こそが、私は神を持つと意識されるところのもの、神は私であり、私は神であり、明日死んでもいいではないか、満たされてある今日があるなら、私と人、私と世界が満たされて在るなら、それが生きていることであり、この時空の存在感というもの、偉大な発見でも、人の賞賛でもなく、この時空を味わい得た者、それが人の意味、味わい得た者が在ったという、それが人の存在の形、私は生きたと、明日死んでもいいと、晴れでも、雨でも、私は今日生きたのだから、世界を見た、世界の子の声を聞いた、万年青を見た、世界を世話した、私を見、聞き、語り、生きた、私が眠りたい、疲れたというばかり、この眠りは快感、喜び、私の最後の味わい、私は時間の中へ、私は空間の中へ、抗い得ない快感に包まれ、私は私を眠ろうと、