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六月二日 隆司、朝食を作る

 朝の六時。

 佐藤隆司は、半ば反射的に目覚めていた。辺りを見回し、ため息をつく。そう、自分はもう刑務所を出たのだ。今日は特に用事があるわけでもない。昼まで寝ていても、叱られるわけでもないし懲罰房に送られるわけでもない。にもかかわらず、未だに六時に起きてしまう。

 刑務所に居た時の生活サイクルが、まだ体に染み付いてしまっているのだ。この先、就職したとして……普通の会社で、上手くやっていけるのだろうか。上司に向かい、片手を挙げて「お願いします! 仕事の手順における交談をお願いします!」などと言いながら話しかけてしまうのではないだろうか。隆司はそんな馬鹿なことを考えながら、自嘲の笑みをうかべた。


 基本的に、刑務所の中では……受刑者は作業中に、誰かと話すのにも許可が必要なのだ。

 そのための手順もまた、極めて面倒なものである。まずは、片手を挙げる。同時に「お願いします!」と、刑務官に向かい叫ぶ。

 すると、刑務官はこちらを向き「用件は?」と言いながら隆司を指差す。

 それに対し隆司は、「離席りせきお願いします!」と刑務官に向かって叫ぶ。そして刑務官の許可が出た時点で、刑務官のそばに走って行く。

 さらに刑務官の前で立ち止まった後、こう言わなくてはならないのだ。

「称呼番号○○○○番、佐藤隆司、班長の○○さんと作業のための交談をお願いします!」

 そう、まず席を離れるのに刑務官の許可が必要だ……さらに、班長と作業の話をするのにも許可が必要なのである。こんな不合理かつ馬鹿馬鹿しいルールがまかり通っているのも、刑務所ならではだろう。

 こんなやり取りが必要なシステムは、無駄としか思えないのだが……刑務所の中で事情通から聞いた話によると、このシステムは実は考えて作られたものなのだという。


「こういうアホなやり方に、何の不満も口にせずハイハイ言って従える……それこそが、お上の望む矯正なんだよ。こんな理不尽な環境の中で、何の問題も起こさず、上からの命令に従って過ごしました……だから、社会へ出てもやっていけるだろうと上の人間は判断する。刑務所には、そういう一面もあるんだよ」


 にわかには信じがたい話ではある。しかし、なるほどな、と思う部分があるのも確かだ。

 もっとも、そんな環境にも人間は慣れることが出来てしまうのだ。それに、同じ犯罪を繰り返す人間は幾らでもいる。事実、累積犯罪者が出所後に再び同じ犯罪を繰り返す確率は、八十パーセントとも言われているのだ。人間は喉元を過ぎれば、熱さを忘れる生き物なのである。

 結局のところ、隆司から見た刑務所は……矯正施設ではなく、ただの強制施設だった。不自由な暮らしを強制させるだけの。

 いや、もっとたちが悪いかもしれない。ある意味では……犯罪者同士の情報交換の場にもなっているからだ。刑務所は良い人間を悪く、悪い人間をさらに悪くする側面もあるのは間違いない。


 隆司は隣で眠っている美礼を起こさないよう、そっと体を起こした。平和そうな寝顔を見つめ、思わず微笑む。

 だが、その時……複雑な思いが胸を掠めた。

 あの日、あの時、自分と彼女があの道を通らなかったら……自分は誰も殺さずに済んだのかもしれない。

 犯罪者として裁かれることも無かったのかもしれない。


 隆司は台所に行き、朝食の支度をする。今の自分には、これくらいしか出来そうにない。美礼に食べさせてもらっている、ヒモ同然の男なのだから……。

「隆ちゃんて、こんな早起きだったっけ?」

 不意に声が聞こえた。隆司が振り向くと、美礼が上体を起こしてこちらを見ている。

「いや、早起きにさせられたんだよ。困ったもんだね、まったく」

 そう言いながら、隆司はトーストとハムエッグ、そしてコーヒーの入ったカップをテーブルに並べる。美礼はまだ眠そうな表情を浮かべてはいたが、テーブルに着いた。




 芦田美礼アシダ ミレイは隆司の身元引き受け人である。もともとは隆司の彼女だったのだ。

 そして隆司が人を殺めた時……彼女はすぐそばに居た。間近で隆司の犯行を見ていたのだ。


 美礼が出勤した後、隆司は部屋の掃除をした。テレビは消したままだ。この時間帯に放送しているのは、ワイドショーの類いがほとんどである。そういった番組では、否応なしに殺人事件を扱う。聞いていて、あまり気持ちのいいものではない。


「あなたには、被害者に対する明確な殺害の意図がありましたね?」


 裁判の時、検事はそう言っていた。隆司は、いいえと答えた。殺すつもりはありませんでした、とも言った。

 だが、それは嘘だ。もちろん、殺意があったに決まっている。自分が奴を殺らなければ、美礼を守ることは出来なかっただろう。自分には、あの状況で他の手段など思い付かなかった。


 事件の日。

 ひとけの無い裏の路地を歩いていた隆司と美礼は、三人組のチンピラにいきなり因縁をつけられた。挙げ句に隆司は突き飛ばされ、蹴飛ばされたのだ。さらに目の前で、美礼が強姦されそうになっていた――

 もはや無我夢中だった。美礼を守る、その想いに隆司は支配されていた。

 隆司は咄嗟に落ちていた角材を拾い、美礼の上に乗っていた男の頭を、後ろから殴りつけた。殴って殴って殴りまくった。さらに、呆然としている他の二人にも殴りかかって行った。角材を振り回し、狂ったような形相で襲いかかる――

 すると、二人は怯えた表情で逃げ出したのだ。

 だが、その後の展開は悲惨なものだった。騒ぎを聞きつけた近所の住民の通報により、警察官が駆けつける。

 被害者のはずの隆司は、傷害の現行犯で逮捕されてしまったのだ。

 やがて容疑は、傷害致死へと変わった。隆司が殴った相手は、病院で死亡してしまったからだ。


 裁判の時、判事は隆司に尋ねた。あなたは反省していますか、と。それに対し、反省していますと隆司は答えた。

 自身の言葉に嘘はない。隆司はあの時のことを思うと、今も身を引き裂かれそうな後悔の念に襲われるのだ。ただ、それはあの男を死に至らしめたことに対して、ではない。

 あの日、美礼を連れて、ひとけの無い道を歩いてしまったこと。奴らと遭遇し、美礼が凌辱されそうになったこと……その二点だけだ。

 奴を殺したことなど、何とも思っていない。もし生まれ変わり、同じ目に遭ったとしたならば……また同じことをするだろう。






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