六月九日 義徳、大いに腹を立てる
「さて、これで準備は整いました。後は、奴が動くのを待つだけです」
西村陽一の言葉に、緒形義徳は顔を上げた。
「そうか。陽一くん、君のお陰で予想よりだいぶ早く片付きそうだよ」
「いや、義徳さんにそう言っていただけると光栄ですね。ところで、今後はどうなさるんです?」
「今後? いや、どうするも何もないよ。いつもの、満願商事の幽霊社員に戻るだけさ」
そう言って、自嘲の笑みを浮かべる義徳。すると、陽一は大げさな仕草で首を振った。
「おやおや、何をおっしゃいますやら。こんな会社の幽霊社員やってるくらいなら、俺の仕事を手伝ってくださいよ」
「悪いが断る。私は、静かな生活に戻りたいんだよ」
そう言って、テレビへと視線を移す義徳。
その時、いきなり扉が開いた。ここを訪れる者などいないはずだ。と同時に、弾かれたように立ち上がる陽一。まるで危険を察知した野良猫のように、素早い動作だ。
その動きを見た瞬間、義徳は数日前の出来事を思い出す。この部屋に迷い込んで来たOLを、何の躊躇いもなく始末しようとしていた陽一。放っておけば、何をするか分からない。
「陽一くん、座っていたまえ」
鋭い声を発しながら、立ち上がる義徳。しかし、入口にいたのは住田健児だった。地味な紺色のスーツを着て、革のカバンを片手に持っている姿は普通のサラリーマンにしか見えない。軽薄な態度で、ヘラヘラ笑いながら挨拶する。
「どうも義徳さん。いやあ、助かりましたよ……神威の坊っちゃんが、ようやく出ることが出来ました。これも、義徳さんのおかげですね」
そう言って、大げさな仕草で頭を下げる健児。
「いえいえ、私なんか大したことはしてません。全ては陽一くんのお陰です。彼が動いて、面倒な事を全て一人でやってくれました」
義徳の言葉には、感情がこもっていなかった。何をしに来たのだとでも言いたげな目で健児を見つめながら、義徳は再び椅子に腰かける。
「いやいや、それも義徳さんの的確な判断と指示があればこそです。本当に助かりましたよ」
言いながら、馴れ馴れしい態度で義徳に近づき、肩をばんばん叩いてくる健児……義徳は、露骨に嫌そうな表情を見せた。
「こんな所に、何をしに来たんです?」
表情を歪めながら、尋ねる義徳。すると、健児は愛想笑いを浮かべる。
「そんなに嫌わないでくださいよ。それより、駅前で有希子ちゃんをお見かけしました。いやあ、綺麗になりましたねえ――」
「それが、あなたと何の関係があるんです?」
険しい表情で、健児の言葉を遮る義徳。
すると、健児は意味ありげな視線を送った。
「確かに、今となっては関係ないですな。ですが十年前、一緒にデボン共和国に行った時……あそこの売春宿にいた幼い女の子が、まさかあんなに大きくなっているとは――」
健児はそれ以上、言葉を続けることが出来なかった。義徳が音もなくスッと立ち上がり、健児に殴りかかって行ったのだ。
完全に不意を突かれ、義徳のパンチを避けることが出来ず殴り倒された健児。派手な音を立て、床に倒れた。
一方、憤怒の形相で追い打ちをかけようとする義徳。しかし陽一が黙っていなかった。後ろから音も無く近づき、義徳の腕を掴む。
「クソが! 離せ!」
振り向き、怒鳴る義徳。すると、陽一は冷静な表情で腕を離した。
だが次の瞬間、陽一の手は義徳の喉を掴んでいた。そして、凄まじい腕力で壁に押しつける――
「離せ陽一!」
喚きながら、必死でもがく義徳。だが、陽一の腕力は尋常ではない。まるで機械仕掛けのようにビクともしなかった。串刺しにされた昆虫のように、義徳は壁に押し付けられる。
「健児さん、今日のところは帰った方がいいですね。義徳さんの事は、俺に任せてください」
陽一の言葉を聞き、健児は不敵な笑みを浮かべて立ち上がる。
「痛いじゃないですか。そう言えば、昔はよく義徳さんに殴られましたね。懐かしいですよ。じゃ、また今度」
とぼけた口調で言うと、健児は大袈裟な仕草で深々と頭を下げる。そして去って行った。
健児が立ち去ったのを確認すると、陽一はようやく手を離した。義徳は床に崩れ落ち、ゲホゲホと咳き込む。
「大丈夫ですか? 義徳さん」
言葉をかける陽一。しかし、その表情は冷たい。義徳は、憎々しげな表情で陽一を見上げた。
「ああ、大丈夫だよ。しかし、凄い力だな」
「商売柄、普段から鍛えてますんで。それに俺は、真帆の絞殺魔よりも大勢の人間を殺していますし」
すました顔で答える陽一。義徳は改めて、目の前にいる男の恐ろしさを思い知らされた気がした。
もっとも、自分も似たようなものだが……直接的には殺していなくとも、間接的に人の死には関わっている。
そして、数多くの死体を見てきた。
その時、義徳は疑問を感じた。
「陽一くん、君は……私の娘の話は聞いているのかい?」
「あなたに有希子さんという娘さんがいることは聞いています。しかし、それ以上のことは知りません。興味も無いです」
淡々とした口調で答える陽一。義徳は一瞬、躊躇った。
だが気がつくと、言葉が勝手に飛び出ていた。
「娘の有希子はね、私とは血が繋がっていないんだよ。有希子は、デボン共和国の売春宿で働かされていたんだ」
何故、そんな言葉を吐いてしまったのかは分からない。だが、いったん流れ出た言葉は止まらなかった。
「有希子はね、まだ十歳だというのに売春宿で客を取らされていたんだよ……あの国では、そんな所業がまかり通っていたんだ。私は許せなかったよ。だから私は、あの子を日本に連れ帰った。娘として育てる事にしたんだよ……その結果、仕事を辞めた」
義徳の脳裏に、当時の記憶が甦る。デボン共和国は狂っていた。独裁者とその一族が、長年に渡り力を背景とした恐怖政治で民衆を弾圧していたのだ。
やがて革命が起き、独裁者は処刑された。しかし、政情は不安なままである。さらなる革命を望む者が次々と現れ、法治国家としての体を成していなかったのだ。
十年前、義徳と健児はデボン共和国へと飛んだ。到着後は、すぐさま売春宿に行く。もちろん女を買うためではない。デボン共和国にて、革命を起こそうとしている者たちと接触するために。
そこで、義徳は一人の少女と出会った。
「私は、有希子のためなら何でもする……有希子には幸せになる権利があるはずだ。もし、その幸せを踏みにじろうとする者が現れたなら、私はどんな手段を用いても、そいつを潰す」




