六月八日 義徳、自分の体について考える
「最近、痩せたんじゃないですか?」
不意に、西村陽一が言葉を発した。緒形義徳は、訝しげな様子で顔を上げる。陽一の口から、そんなセリフが飛び出すとは思わなかったのだ。
「いや、どうだろうなあ。近頃は、体重も計ってないから分からないよ」
「そうですか。まあ、体調にはお気をつけ下さい。四十歳を過ぎると、ちょっとしたストレスから、一気に体調を崩すらしいですからね」
そう言って、陽一は微笑んだ。しかし、その目は笑っていない。義徳の身を案じて言っている訳ではなさそうだ。あくまでも、仕事の遂行のためなのだ。
「そうか……まあ、この件が片付いたら健康診断にでも行ってみるよ」
そう言って、義徳は苦笑する。もし痩せたのだとすれば、それはこの仕事のせいだろう。
言われてみれば、これまで病気の事など考えもしなかった。もともと体は丈夫な方だったし、健康管理には気をつけている。たまに風邪を引いたりすることもあるが、基本的には体調を崩すような事はない。
もっとも、かつて現役だった頃は風邪すら引かなかった。仕事そのものは、命をも磨り減らすような内容であったが、そのハードさが神経を張りつめさせ、病気すら遠ざけていたのかもしれない。
当時の事を考えると、義徳は不快な思いと……相反するような懐かしさとを感じる。
「どうやら、あの坊っちゃんは近い内に釈放されるようだな」
義徳の言葉に、陽一は頷いた。
「ええ。これでひとまず安心です。後は、奴が動くのを待つだけです」
「奴?」
「はい、奴です……真幌の絞殺魔ですよ。まあ、後は時間の問題ですがね。事態は全て、義徳さんの計算通りに動いています。いやあ、ここまで来るとアートですね」
いかにも楽しそうに、笑みを浮かべる陽一。
だが、義徳は思わず顔をしかめていた。陽一は、本当にこの仕事が好きなのだろう。闇に紛れて動き、策略を練り、時に人を地獄に突き落とす、この仕事が。
もっとも、昔は義徳も同じ事をやっていたのだ。罠を仕掛け、そこに獲物が掛かるのを待つ……それが日常であった。その仕事に対し、何の疑念も抱いていなかった。
今にして思えば、当時の生活がいかに狂ったものであったか。大勢の人間を欺き、丸め込み、そして破滅させてきた。人間の顔が恐怖に歪み、そして勝手に自滅していく様を間近で見てきた。
有希子の存在がなかったら……義徳は今も、あの仕事を続けていたのかもしれない。
いや、間違いなく続けていた。
「まあ何はともあれ、これで神居家からせっつかれる事は無くなった訳だな」
嫌な気分を振り払うため、義徳はあえて明るい声を出した。
「そうですね。健児さんも喜んでいることでしょう。何せ、神居家の連中はしつこいですからね。特に岸田真治は面倒ですから」
「岸田? いや、聞いたことがないな。何者だ?」
義徳が尋ねると、陽一は口元を歪めた。
「いや、本当に面倒な男なんですよ。神居家の神居宗一郎が愛人に生ませた子なんですがね、父親の権力を傘にやりたい放題です。まあ、それは岸田に限った話じゃありませんが……神居家の人間は、みんなクズですよ。出来る事なら、神居公彦にもそのまま入っていて欲しかったですがね」
吐き捨てるように陽一は言った。その表情には、苛立ちがある。
もっとも、その気持ちは分からなくもない。そもそもの発端は、神居公彦が都内に出てきた挙げ句に逮捕されたことなのだ。
そのせいで、引退していたはずの義徳までもが駆り出される羽目になったのだから。
「しかし、この面倒な仕事も……もうじき終わりですね。義徳さんとも、お別れですか。実に寂しい話ですね」
陽一のその言葉を聞き、義徳は再び顔を上げる。
「心にもないことを言うなよ。俺にお世辞なんか言ったところで、一文の得にもならないぞ」
「いや、本音ですよ。本当に、俺が普段どんな連中と仕事をしているか……義徳さんとは、比べ物にならないような馬鹿ばかりです。町のチンピラみたいのと組まされる事もありますからね。チンピラは、本当に使えない奴ばかりですよ」
陽一はまたしても、吐き捨てるような口調で言った。義徳にも、その気持ちは理解できる。彼も以前は、町のチンピラを使った事がある。その時は本当に苦労した。チンピラという人種は、基本的に愚か者ばかりだ。緻密な計算の元に動く事が出来ない。何度、仕事をぶち壊されそうになったことか分からない。
昔を思い出し、苦笑する義徳を見ながら、陽一はさらに喋り続けた。
「義徳さんみたいな人とでしたら、また組みたいですね。どうです、今度は俺の仕事を手伝ってくれませんか? 小遣い稼ぎにはなりますよ。健児さんのお許しも出てますし」
言いながら、陽一は笑みを浮かべる。だが、義徳は苦笑しながら首を振った。
「遠慮しておくよ。君の仕事も、切った張ったが伴うのだろう? 私は、もう年だ。君のご期待には、添えないと思うよ」
「いえいえ、何を仰るやら。あなたは、今もプロですよ。体が覚えているんですね……世論操作部のエージェントだった頃の記憶を。あなたは好むと好まざるとにかかわらず、根っからのエージェントなんですよ。健児さんと同じ――」
「それは違う。私は普通の人間だ。住田健児と一緒にするな」
思わず、義徳の語気が鋭くなった。あの男と自分は違うはずだ。でなければ、こんな生き方をしていない……。
「お気に障ったならすみません。ただ、あなたは今でも現役と代わりないです。ゆっくり考えておいて下さい」
そう言うと、陽一は再び下を向く。今度はスマホをいじり始めた。どうやら、あちこちの人間に指示を出しているらしい。
ふと、義徳は疑問を感じた。彼はいったい、どのような人間と組んでいるのだろう。
「陽一くん、君は何人くらいの人間を使ってるんだい?」
「二人です。どちらも、信用できる人間だから大丈夫ですよ」
そう言って、笑みを浮かべる陽一。何とも奇妙な青年だ、と義徳は思った。昔は作家志望のニートだったらしいのに、いつの間にか裏の世界にどっぷりと浸かっている。義徳は無駄だと知りつつも、聞かずにはいられなかった。
「君は、違う生き方をしたいとは思わないのかい? 普通の仕事をして、家庭を持つような生き方を――」
「正直、全く興味ないですね。泥水の中でしか、生きられない魚もいますよね? 俺は恐らく、そういうタイプなんですよ」




