六月七日 義徳、向こうの要望を聞かされる
「何だと? どういうことだ?」
緒形義徳の問いに、西村陽一は口元を歪めながら答える。
「はあ、俺もよくは分からないんですが……向こうさん、かなりピリピリきてるみたいですね。自分の無実を証明できるなら、さっさと留置場から出してくれと言ってきてるそうです。それも、かなりしつこく」
「そう簡単にいくかよ。まったく、これだから世間知らずのボンボンは困るんだよな……」
言いながら、思わず頭を抱える義徳。どうやら、真幌の絞殺魔の疑いをかけられている容疑者は、神経が参ってきているようだ。連日の刑事の取り調べ、そして留置場での拘禁生活。これまで何不自由ない生活をしていた人間にとっては、かなり堪えるだろう。
しかも……その容疑者には今、接見禁止の措置が取られている。弁護士以外の者が会うことは出来ないのだ。
そんな環境にあって、容疑者は精神的に限界に達しているらしい。放っておけば、やってもいないことまでベラベラ喋ってしまうだろう。もっとも、警察の狙いもそこなのだが。
「いいんじゃないですかねえ。彼が刑事に何を言ったところで、俺たちが真犯人を挙げればいいだけなんですし」
のほほんとした態度の陽一。だが彼の言葉には、皮肉が込められている。確かに、義徳たちが代わりの人間を差し出せば済む話なのである。だが、その方法は……。
「あ、そうそう……佐藤隆司ですが、バイトをクビになったみたいですよ。どうやら、誰かが奴の前科のことを会社に密告したらしいですね。哀れな奴ですよ。ま、これで佐藤も思い知ったんじゃないですか」
とぼけた口調で語る陽一。義徳は、訝しげな表情で顔を上げた。
「えっ、本当か?」
「もちろん本当ですよ。さすがに人殺しを雇っていたとなると、企業のイメージはガタ落ちですからね。今の本人に何の問題がなくても、トカゲの尻尾切りみたいに、クビ切らざるを得ないでしょう。世の中、所詮はそんなもんですよね義徳さん」
陽一の言葉の裏には、皮肉が込められている。確かに、自分たちの仕事も似たようなものだ。
「そうか。佐藤は今、どうしてるんだろうな?」
「さあ。絶望の淵に、どっぷりと浸ってるんじゃないですかね。まあ懲役にまで行ったなら、いっその事、裏の世界でやっていった方がいいかもしれないですよ。その方が、本人も過ごし易いでしょうしね」
「確かに、そうかもしれないな……」
深く頷く義徳。だが、その時に……ある些細な疑問が頭に浮かんだ。
「ところで、佐藤は会社を不当解雇で訴えたりしないだろうな?」
「断言は出来ませんが、大丈夫だと思いますよ。そんな事したら、自分の首を絞めるだけですからね。あなたの方が、そういった事情に詳しいはずでは?」
「ああ、それもそうだな」
義徳は苦笑する。確かに、そんな事など出来るはずがないのだ。個人で訴えを起こすのは、大変な手間と時間がかかる。
しかも佐藤隆司の場合、自分の前科を世間に晒すことになるのだ。その結果、得られるのは微々たるものである。
その上、下手をすれば業界内のブラックリストに載るかもしれないのだ。ここでつまらない意地を張ろうものなら、同じ業種で働けなくなる可能性すらある。
結局、前科者の烙印は永遠に消えることがない。一度でも前科が付いてしまえば、ネットの世界では永遠に残り続けるのだ。
そんな事を思いつつ、作業に戻る義徳。哀れな話ではある。だが、これはどうしようもない。
「そう言えば、昔……殺人犯の兄と、その弟の苦悩を描いた本がありましたね。ベストセラー作家が書いたんですが、映画化もされましたよ。その中に、前科者は差別されて当然だ……とか偉そうに言う奴がいましてね。ご存知ですか?」
不意に、陽一がそんな言葉を吐いた。
「ああ、それなら俺も読んだことがあるよ」
「犯罪者は差別されて当然だと、あの作家は思ってるんでしょうね。しかし、仮に自分が犯罪者となっても同じことを言えるんですかね……それも、冤罪で」
愉快そうに語る陽一。その言葉に、義徳は思わず顔を上げる。
「さあね。そんな事になっても、誰も得しないということは確かだがね」
義徳のその言葉に対し、陽一は不気味な笑みを浮かべる。
「いえいえ、そんな事はないですよ。少なくとも、俺や世の中の不満分子は大いに喜びますね。だいたい俺は、頭の中だけで自己完結させているような人間は大嫌いなんですよ。現実には何も出来ないくせに、全てを理解した気になっているような……作家なんていう人種は、特にその傾向が強いですね」
そう言った後、陽一はふたたび視線を落とし、机の上の書類に目を通した。起訴状のコピーだ。自分の手元にも同じものがある。
そこには、神居公彦という名前が書かれていた。現在、絞殺事件の重要参考人として留置場に収監されている男である。
「あっ、そうそう……その作家が逮捕されたら、かなりの話題になりますよね。そうすれば、政治家の愛人スキャンダルくらいなら何とかなるんじゃないですか? 世論の操作には、ちょうどいいと思いますよ」
陽一の言葉に、義徳はふたたび顔を上げた。
「おい、君は何を言っているんだ?」
「またまたあ……義徳さんや、健児さんの得意分野じゃないですか。大衆の目をスキャンダルから逸らすため、別のスキャンダルを起こす……あの作家が覚醒剤か何かで逮捕されたら、それなりには世間が騒ぐでしょうね」
そう言って、楽しそうに笑う陽一。その態度に、義徳はかすかな苛立ちを覚えた。
「君はなぜ、その作家にこだわるんだい? ひょっとしたら君は、未だに作家というものに未練があるんじゃないのか?」
相手は怒り出すかもしれない、そう思いながら発した義徳の言葉だった。だが、陽一は笑顔を崩さない。
「うーん、そうかもしれませんね。妬み、嫉み、僻み、負け惜しみ……そうした負の感情が、俺の中にはコールタールみたいに蠢いてますよ。これぞ純文学って感じでね」
またしても、楽しそうに笑う陽一。義徳はふと、この陽一という男は愉快犯の気質も持っているのではないだろうか……と思った。陽一は、与えられた仕事は確実にこなす。だが、それだけではない何かも感じるのだ。
「俺は思うんですよ。作家が動かせるのは、物語の中の登場人物だけです。しかしね、この仕事は現実の人間に影響を与えられます。事実、今は多くの人間が、義徳さんの描いたシナリオ通りに動いてますよ。実に面白いじゃないですか?」




